子母沢寛 父子鷹 上巻 目 次  油堀  昨日と今日  信濃  強請侍  三ぐずり  浅間のけむり  亀沢町  蛍  みろく寺  おんな  夏の月  七転  檻  八起  木剣  天の川  亥の日講  裏だな神主  納戸の中  雪の夜  白梅  じり/\照り  喧嘩剣術  登竜  かげ富  女行者  ごろつき  こゝろ  横十間川  性根  春濃く  縁台  流水  浮世  刀剣講  隠居  青雲  清境  鳶の子  犬  裸詣  夏涼  男  地退ち  脂照  仮宅喧嘩 [#改ページ]   油堀  まだ夜は明けない。靄が一ぱいで初夏の匂だけがその中からつーんと感じられる。  勝小吉は樺色の肩衣をつけ、袴の股立を高くとって、その靄の中を飛ぶように駈けている。深川油堀の家から、小石川御薬園裏の小普請御支配石川|右近将監《うこんしようげん》の下屋敷まで、遅くも|六つ半《しちじ》までに着かなくてはならない。  こゝへ着いて夏でも冬でも、玄関の板の間に坐って平伏して御支配のお城へ登るのをお見送りするのだ。夏はいゝが、冬は寒風の吹きッさらし、慄える仲間が昨今十五人いる。  右近将監がすうーっと前を通る。言葉をかけるどころか、見向きもしない。しかし小吉だけは近頃になって二度声をかけられた。 「どうだ」 「ははっ」  板へ額をすりつける。それだけでも仲間の羨望は大変である。風の日も雪の日もこうして二年も通いつゞけて未だに一回のお声がかりもないものが凡そである。  二度から三度目のお声がかりになってはじめて奥へ通され「逢対《あいたい》」という事になる。小普請《むやく》ものの御番入《おばんいり》即ち就職のこれがたった一つの道である。  将監はもう六十を越したいゝ年だが、新規抱えの若い妾にうつゝを抜かして、表二番町の上屋敷から、些か保養と称してこゝのところずっと下屋敷住居をしている。十五人が暗い中《うち》から板の間に坐っていても将監はぬく/\と妾とねているのだ。  この朝小吉が着いた時、用人小林が小さな声で耳打ちした。 「勝、今日は三度目のお声があるぞ」 「は、有難い事にございます」 「わしも及ぶ限り尻は押すが随分うまくやれ」 「はっ」  もう将監登城の刻限近く、小林があたふたと奥から出て来て 「勝、御召である」  といった。みんなはっとした。その燃ゆるような目に送られて奥へ入ったが、やがて将監のうしろに従って出仕を送って出て来た時の小吉の顔は、さっきとは人が変ったように眼が吊上って少し蒼ざめていた。  深川へ戻る途中でぽつ/\と雨になった。その雨の遠い彼方に鶺鴒《せきれい》らしい野の鳥の鳴声が聞えるが、小吉は傘もなく、腕組をして、往来ですれ違う人の顔も見ず、早足で歩いている。 「笑わせやがる。いくら実父《さと》が金持でも、おやじはおやじおれはおれ、四十俵取りの小普請《むやくもん》に五百両などという大金がどうして出来るものか。御番入がしたい故、二年この方一朝も欠かさずこうやって通い詰めたがおれはもう嫌やになった」  ひとり言の耳に 「あ、もし」  二度目にやっとそれが入って、小吉が振返ったのは永代橋の丁度真ん中。 「わたしをお呼びですか」 「あ、やっぱりそうでございました。あなた様でございました」 「あゝ、あなたはあの時の神田の——」 「はい、黒門町の紙屋のせがれ長吉でございますよ」 「これはお見それ申して済まなかった。あの時は本当にお蔭で助かりました」  対手《あいて》は黙って傘をさしかけて 「やっぱりあなたは御武家様でございましたね。どうも唯の乞食とは思われませんでしたよ」 「お恥しい始末」  年をとった女の方と、きりゝッとした美しい娘の三人づれ。小吉は一礼して 「お連れがおありのようですから改めてお目にかゝります。確か村田さんと」 「はい、あれは、この度縁あってわたくし家内に迎えますもの、あちらはそのおふくろ様でござります」  いっているが小吉はもうとっとと歩き出していた。 「もし、それではこのお傘なと」  しかし答えもなく小吉はすでに駈け出していた。 「まあ何んというお人でござりましょう」  娘は少し不機嫌に 「あの方は乞食をなさってお出でなのでございますか」 「わたしが伊勢へお抜詣《ぬけまいり》をした時に相生の坂であの方が乞食をしているのとお友達になりましてね。その時のお話に養子先きのお祖母《ばば》が余りいじめるので癪にさわって家を抜出して来たが、浜松の御城下で道中の胡麻の蠅に逢ってお金は固《もと》より着物も残らず持って行かれ、襦袢一枚に縄の帯、ひしゃくを一本、この姿にお成りだといってお貰いをしていました。あれはお互に十四、丁度四年前の話でしたっけ」 「あなたも乞食をなされたのでございますか」 「抜詣でお金もなし、いゝ修行になると思いわたしも一緒に暫く乞食をやりましたよ。大神宮の御師《おし》さんで竜太夫という人がありましてね、二人でこゝへ行って江戸の品川の青物屋だといっていやもう世話になりました。今の世には珍しいようないゝお方でした」 「さようでございますか。乞食をなされたのでございますか」  娘は眉の濃い大きな目をぱち/\しながらそういったっきり、ぷいと横を向いて終った。 「お糸や、そうした修行はこの世の中の裏も表も見ます故、知らず識らず長吉さんの身のお為めになっているのでございますよ」  おふくろがいったが、お糸は 「乞食までしなくもいゝと思いますっ」  切口上にいってこっちを向こうともしなかった。  小吉が油堀へ戻った時は、雨だというのに実父の男谷平蔵は熊井町河岸前へ投網《とあみ》に行ったといって留守であった。 「おやじもあゝいう人だ、真逆《まさか》、そんな金を出して迄とはいわないだろう」  小吉は同じ地内の自分の住居の方へ戻ったが、養祖母《おばば》へもやがて妻になる二つ年下のお信へも、今日の事については一と言もいわなかった。  その夜は篠をつくようなひどい土砂降り。  小吉は、大きな眼を見張って瞬きもせず、息をつめてじっと実父《おやじ》平蔵の顔を見詰めている。 「川も澄んでばかりはいない。濁る事もある。今は丁度そういう世の中だ。お前はまだ子供の時分、屋敷の池へ入って泳ぐので、いつも水を濁らしては、わしに叱られた。が、どうだ、池の水はその時は濁ってもお前の成人と共に近頃はもう濁る事もなく、あのように澄んでいるではないか。な、今、五百両出してもお前が御番入をしたなら、親類縁者に鼻も高く、後々は結局水も澄んで、あゝいゝ事をした、これは安いものだったという事になるのだ。これが人間の世渡りだ」  平蔵はそういって 「明朝早速金子をお届け申すがいゝ」 「真っ平です。わたしが御番入をしたいのは何にも自分の為めにではありません。将軍家《だんな》に命がけで御奉公を申上げ、それが取りも直さず、みんなの幸福《しあわせ》の一端になると思うからです」 「はっははゝ、お前は今年十七歳だったなあ。若いなあ。しかし、お前のいう事は間違ってはいないが、とにかく御番入が第一番の事だ。それが出来なくては御奉公も何にもないであろう」 「いゝえ、もう、わたしは諦めました。生涯|小普請《むやく》で結構です。そんなこと迄して御番入をしてもあんな石川右近将監などというものの下役で御奉公の出来る筈もなし、またこのからださえにおい染みるような気がしてなりません。あんな人間のところへよくも二年が間も通いつゞけたものです」 「わからぬ奴だ、今はそういう世の中だと云っているではないか。何事も賄賂《まいない》次第、利口な人間は巧みにそれを利用してそれによって自分の地位を築いて、その時はじめて将軍家《だんな》の為めに真の御奉公を申すのだ。舞台へ上らんで芝居が出来るか」 「何にも彼も嫌やです。わたしは今日まで父上だけは、そんな事をおっしゃるお方ではないと思っていました。みんなその賄賂《まいない》を持って行けといっても、父上だけは止せ、大切な天下の御職《おんしよく》を金で買うような事は止せとおっしゃって下さると思っていました」 「まあいゝ。どちらにしろ今夜一晩ゆっくり考えてみろ」  小吉はむか/\した胸を両掌《りようて》で押さえるような恰好で自分の住居へ戻って来た。小吉が泳いでは父に叱られた油堀から水をひいた大きな池の向側に、離れのような一構えである。  実父男谷平蔵の用人利平治が小吉のうしろから傘をさしかけてついて来た。小吉は、実母が中風にかゝり、その上早く亡くなって、子供の時からこのじいやに育てられたようなものである。 「若様よ、あなた様強情をお張りなさるは宜しくありませんよ。これ迄、御実家様《おさとさま》が御支配は固より頭取衆ばかりか、あの小林という用人の末にまでどれ程のお金をお費いなされたか知れませんのでございますよ。御支配様は、手びきの方があって二年も三年もお通いなさっても、蔭へ廻ってそっとお金をお使いなさらなくては一度のお声がかりもないのでございます。それをあなた様、二年そこ/\で御番入のお話が出るのなどは、みな/\御実家様のお力。御恩を有難い事に思召さなくては罰が当ります」  小吉は、きっとした。 「利平治、お前、ほんとにそう思うか」  利平治おやじは、暗い中で、じっと小吉を見ながら 「ははゝゝ。と申しませえでは、わたくしの役目が立ちませぬ故申しましたが、実は」 「実は?」 「嫌やなことでございますよ。賄賂で天下の御役をどうこうなど、誠に以て不都合千万。この利平治なら頭《てん》から断りますでござります。若様、いやもう石川右近将監など申す人間は、尊い徳川の御家を喰いつぶす獅子身中の虫というものでござりますよ」 「そうか。よし、おれは明朝と云わず、今夜、改めてしかと実父《ちゝ》へ断りを申そう。実に御政道は腐り果てている」 「御実父様《おさとさま》は人一倍お骨の固いお方なのでございますが、勝家という微禄な御家人の御養子になられた若様可愛さの余りに、あゝした事をなされまする。若様が飽迄も頑張りなされたら、表《うわ》べは何んといかめしゅう申されても内心はお喜びかも知れませぬよ」 「ほんに、そうであって呉れればいゝが」 「いえもう、それに違いありませぬ。しかし何んでござりますねえ。石川様とは、若様はまだお小さい頃よりいろ/\恨みがございますねえ。それはあの将監とて忘れてはおらぬ筈。知っていて若様の御番入のお肝煎《きもいり》をなさるのは、あれは唯々慾だけの仁でございますねえ」 「そう。あ、思い出した。あ奴の伜の太郎右衛門、女を見たような奴で、あ奴を駿河台の鵜殿鳩翁先生の道場で、木刀で無茶苦茶にぶちのめし、さんざ悪態をついて泣かしてやった事があったな」 「あれは丁度お十一の時でしたよ。勝は四十俵の小給者《こきゆうもの》だといってみんなの前で囃立てたら、あなた様がとう/\お腹をお立てなさいましてね。何しろ先生が忠也派一刀流の名人で、木刀の形ばかりをお教えなさる。それが真剣に見えたというお方。若様はあの時はもう先生から左右という伝授を受けてお出でなされたのでございますからね」 「でもあの太郎右衛門は昨今|御徒頭《おかちがしら》に出ているというから口惜しい事だ」 「その中に、また何処かでぶちのめしておやりなされませ」 「よし」 「ところで」  と利平治は 「先程御実父様の投網の御自慢のお獲物を、亀沢町の団野真帆斎先生の御道場へお届けに上りました時に、先生が、明日は御当流藤川弥司郎右衛門先生の御正統酒井良佑と神道無念流の秋山要介との試合があるが、勝は知ってであろうかとおっしゃってで御座りましたよ」 「いや、知らぬ。場所は何処、刻限は?」 「団子坂の経学師範太田錦城先生の御子息栄太郎様のお屋敷内、|午の刻《じゆうにじ》と申されていられました」 「おう、これはどっちがお勝ちなさっても少々うるさい事になる試合だ。行司はどなた様だろうな」 「団野先生もおもらしで御座いました。行司は何んでも駿河台の先生とか」 「ほう、鵜殿鳩翁先生か。先ず当今に於てはそんなところであろう。秋山は名うての飲んだくれで、無頼無法の子分などが大勢ついている。これ迄の試合もよきにつけ悪しきにつけ、それが必ず後々の仇をするという。鋭いという事だけについて云えば先ず日本に二人とはない程の剣客だ。わたしも子供の頃一度より拝見した事はないが、それが子供にさえ感じられる火の出るようなものだった。一方の酒井先生も流石円熟の車坂の井上伝兵衛先生も三本に二本は譲らねばならぬというお方。所詮は御主君たる榊原侯十五万石のお手前にも敗けられぬ試合。さて勝ったとなったら後はどうなるか。どうして又、酒井先生がそんな事になったのだろう」 「亀沢町でも門人方が話してお出ででございました。何んでも太田錦城先生が、秋山先生を日本一だと云ったところ、お講義をいたゞきに行っていられた酒井先生がそんな事はない、あの人はわたくしにも勝つ事は出来ますまいといったところから話がもつれたのだそうで——でもね若様、秋山要介々々といって鬼のように恐れられたのは昔の事、あの方もすっかり変ったとの噂もござりますよ」 「あれ程の方だ、唯子分共がうるさいのだ。どっちにしても明日は是非拝見に伺わなくてはならぬ。石川どころの騒ぎではなくなったな」  雨の中からかち/\と拍子木の音がして 「|四つ《じゆうじ》でござい——四つでござい」  町内の番太郎の時を知らせる声がかすかに聞えた。  その雨も夜っぴて降ったが、夜明けから、からりと晴れて空は広々として計り知れなく青かった。雲一つ無い。  父の平蔵が、利平治に小吉を呼びによこした時は、小吉はもう住居にはいなかった。 「困った奴だ」  平蔵は苦笑した。 「とう/\生涯の小普請《むやく》か」 「若様にはその方がおよろしゅう御座りましょう」 「はっ/\。そう云えばそうかも知れぬ。あ奴は腐敗堕落地獄の底にある今の御政道に、素直に服して上役にあげへつらいおれる奴ではない。御番入をしたら却ってむずかしい事をひき起し、閉門、切腹などと、こちらが心配しなくてはならぬかも知れんのう」 「さようで御座ります。若様のようなお方はお役人などになられるより巷にいられます方が、ところの皆々の幸福《しあわせ》で御座ります」 「とう/\わしの黒星か。無駄を遣うて終った。はっ/\は。お前までがその気では、とても叶わぬ」 「若様の、重箱の隅を黒|もじ《ヽヽ》でつゝきまするようなお役人のお姿などは、凡そ板につかぬ事でござりましょうから」 「悪い奴め、お前があのような人間に仕上げたわ」 「滅相もござりませぬ」   昨日と今日  御番入の件は兎も角として、男谷としてはこのまゝでも済まされない。石川右近将監との間に立って取持をした者の顔もあるので、平蔵にいいつけられて、利平治は石川の下屋敷へ行って、勝小吉は些か乍ら病気の様子につき当分御機嫌伺いに参上致し兼ねますと口上を述べて、菓子折の底に小判五十両を敷いて、態良く将監の無心を断って帰った。  小吉はそんな事は知らず、亀沢町に団野先生を訪ねたが、真帆斎(源之進義高)は、わたしはもう年でそういう面倒な試合を見る事には心がすゝまないから、おのし一人で行くがいゝ、どうせ向うへ行けば大勢知った顔もいるし、行司の鵜殿先生はおのしが最初に形の手ほどきを受けたお方だから万端好都合だろう、よく拝見して来なさいというので、小吉は一人でまぶしさに眼を細めて、回向院からちょいと来た元町の辻行灯のところを歩いていたら、思いがけずぱったりと出逢った奴がある。唐桟の袷に下馬を重ね、幅狭の帯。裾先きをつまみ上げて股倉まで見えるような風態。 「おい、何処へ行く」 「何処へ行くもありませんよ」 「松坂町の仕立屋の弁治は近頃は巾着切で仲間じゃあ大そうな羽振りだと、前町《まえまち》の金太郎からきいたが、本当か」 「へっ/\/\。のっけから巾着切かときかれて、そうですとも答えられやせんよ」 「おう——、こういうお天気のいゝ時は、お前のその額の疵痕が滅法目につくな。おれは悪い事をして終ったものだ」 「金太郎だってあっしだってお互に餓鬼の時分の女の子の飯事《まゝごと》見てえな遊びの喧嘩、あゝたが悪いんじゃあありやせんよ。武士の子もねえ町人の子もねえ、子供の喧嘩は親代々|深川《ところ》の気質《かたぎ》だから」 「まあ勘弁してくれ」  さっきからちりん/\ちりん/\いゝ音色がしていたが、小泉町の露路の奥から、一ぱいに飾った大きな荷を担いで風鈴屋が、二人の立話の横をすりぬけた。 「こうお天気がいゝと風鈴屋も満更じゃあござんせんが、江戸っ子は気が早え、あれは先ず風鈴の走りですねえ」 「うむ、ところで弁治、わたしはこれから団子坂迄行くんで急いでいるが、どうだ、一度、屋敷へ遊びに来ないか」 「いや、そ奴あ懲々《こりごり》だ、ああたのところの養祖母様《おばゞさま》は怖くていけやせんよ」 「そんな事はない。四、五ン日前、緑町の縫箔やの長太に逢ったら、あ奴も遊びに来るといっていた。来いよ」 「じゃあ、あ奴と一緒に行きやしょうかね」 「是非来い」 「へえ」  小吉が団子坂へ着いた時は、びっしょりと汗になっていた。ひょっとしたら袷の背中へぬけているかも知れない。  集っているのは道場の主か、然《さ》も無くばその紹介状《ひきあいじよう》を持って来ているもので、凡そ三、四十名にも近かったが、太田錦城の庭の三方には紅白の幕を張り、その前に茣蓙を敷いて拝見の者が各々処を見つけて坐る。南に向いた屋敷の縁側には主人の錦城をはじめずらりと居並んではいるが、小吉には今日の行司を勤める鵜殿甚左衛門鳩翁の外は大抵は知らぬ人であった。  庭はずうーっと青芝で誰でも跣足《はだし》で踏み歩いて見たいような気持がする。  小吉は東側へ案内された。もし試合が遅れて昼をすぎて西陽《にしび》になったりしては困ると思った。 「世の中には、おれと同じ馬鹿が大勢いるものだ」  誰やら一人ごとをいったのが、ふと小吉に聞こえた。思わず、見ると、濃い鼠色の紬《つむぎ》の袷に、夏の生《き》びらの羽織を来て、月代《さかやき》を延ばした二十四、五、もみあげの下の肉ががっくりと落ちた色の真っ蒼な侍が半分眼を閉じたような恰好で、口をゆがめて冷めたい笑いを浮かべている。それがまたふと小吉を見て出しぬけに 「おい、おのし、何処の稽古場だ?」  皺がれた声だった。小吉はむかっとした。黙っていた。 「何処の先生に教わっているのかというのだよ」 「おのしは?」 「南割下水一刀流近藤弥之助方の食客。渡辺兵庫。師匠はない」 「わたしは本所亀沢町直心影流団野——」 「真帆斎先生門人か。が惜しむらくはおのしの先生もすでに老いたな」 「何?」 「しっ、しっ」  突然横から声がかゝった。 「お静かになされ」 「ほう、これは叱られた」  兵庫はせゝら笑うような調子でそれっきり堅く口をつぐんで終った。  途端に|午の刻《じゆうにじ》。試合を告げる小刻みな太鼓の音と共に、正面から行司鵜殿先生が、左右の幕張の端から、東、秋山要介、西、酒井良佑が姿を現した。  秋山要介はすでに五十を越え、痩せて枯松の如く眦《まなじり》が吊上る程に結んだ総髪は、半《なかば》の上も真っ白い。眼を細め、じっと良佑を見ながら、年若を対手に、こちらから一礼した。破落戸《ごろつき》で大酒家で、試合の後にはきっといざこざが付纏うという。良佑は二十五歳、しかも六尺に近い肥満の大兵で二十人力との噂。筋肉隆々として逞ましい腕には稽古疵の痕が見えた。  二人は静かに面金《めんがね》をつけた。その面金にきら/\と真昼の陽が当って、時々、大空へ向って、すうーっ、すうーっと矢のように閃めく。  鵜殿は麻上下で、小刀も無く、白扇をしずかに持って仕度の整うのを待っている。庭内はしーんとした。固唾を呑んでいるというのだろう。 「いざッ!」  鋭い良佑の声。 「お手軟らかに」  低い秋山の声。鵜殿の白扇が一旦ぱっと前へ突出されて 「五本勝負」  声と共に、——これを手許へ引く。同時に、二人は跳返るように三間ばかりも後ろへ飛退《とびすさ》った。  暫くそのまゝ石像のように動かぬ。やがて呼吸を詰めていた良佑の竹刀がじり/\と大上段にふりかぶって行った。 「増上慢奴!」  渡辺兵庫はひとり言をいって片頬をゆがめながら 「おい、どうだ、わかるか」  小吉へいった。小吉は黙っている。 「わかるまい。秋山は一本参る」  兵庫の薄気味悪い科白《せりふ》が終ったか終らないに 「面、一本ッ」  鵜殿の帛《きぬ》を破るような声がした。  二本目|籠手《こて》、三本目は胴。五本勝負はこれで終った。秋山は芝生へ片膝をついて、落着いて面金をとり 「まことに御見事。秋山生涯に、あなた程の達人にお目にかゝった事はない。有難うござった」  といった。呼吸一つはずんでいず、顔色も常と少しも変らなかったが、勝った方の良佑は満面の汗がしたゝり落ちて、俄かにこれに対する挨拶の言葉も出なかった。 「秋山はすっかり人間が出来た」  とまた兵庫。 「は?」  と小吉がそっちへ向いた。 「昨日の彼は今日の彼に非ずさ。秋山要介はもう昨日の秋山要介ではなくなっている。放蕩無頼理不尽の彼、齢五十を過ぎてはじめて人間の真髄をつかんだようだ。これが人間というものの尊さだな」  みんな雪崩《なだ》れるように帰り出した。小吉もその中に交って太田家の門を潜ったが、兵庫がすぐうしろを歩いていた。振返った。兵庫はにこりとしたが何んにもいわなかった。 「昨日の彼は必ずしも今日の彼に非ずさ」  さっきいったその人の言葉が、大声でまだ耳元に繰返されているようで仕方がない。  小吉は歩き乍ら、何んだか、自分の目の先きがまぶしい位に明るくなって来るような気がしたり、また忽ちにしてそれが一寸先きも見えない真っ暗闇になるような気がしたり、自分で、これから先きの自分をどう考えたらいゝのか、それが深い靄の中に包まれたようになった。  不忍の池の端へ出て下谷御数寄屋町を通ったら、ふと大きな声で駒鳥の鳴いているのが耳について、はっと我に返ったような気持がした。耳を澄ませると駒鳥ばかりではない、いろ/\な小鳥が鳴いている。  直ぐ鼻っ先きにその小鳥屋があった。店一杯に声桶《こおけ》を重ね、障子をはめたのもあり、はずしたのもあり、駒鳥が奥の方からぱっと籠口に飛び出して来て、大きな声で鳴く。  小吉は何気なしにその片隅に置いてある立派な金蒔絵の鶉の胴丸籠を見ていた。  店の奥から人の出て来る気配。 「おゝ、また逢いましたね」  小吉に云われた対手は紙屋のせがれ長吉。 「いよ/\不思議な御縁でございます。わたくしの家はこゝからはすぐ近くでございますから、今日はどうぞお寄りなさって下さいまし」 「有難う」  小吉はこの人のところへ寄って無駄ばなしでもしていたら、何にかこう、さっきの試合以来何んという事もなく胸につかえているようなものが、少しは薄らぐかも知れないと思って、寄る気になった。早く亀沢町の団野先生のところへ戻って試合の有様を話したい気もあったにはあったが。  長吉は手にくる/\巻きにした大判の紙を持って小吉と並ぶようにして歩いた。何にか書いてあるようだ。 「わたしはあの小鳥屋にある金蒔絵の鶉籠を見ていたのだが、あなたは余程お親しいのか」 「いゝえ」  長吉は首をふって 「時々、珍しい小鳥が参りますと、それを写しに参りますので」 「絵を書きやンすか」 「はい。わたくしは泥鏝絵《どろごてえ》が好きでございましてね。漆喰絵《しつくいえ》でございますよ。泥鏝を使い漆喰で書くのです」 「ふむ」 「元来紙屋は嫌やですから、おやじどのが大層立腹で困って居ります」 「どうしてですか」 「今嫁を迎えようという立派な商人《あきんど》のせがれが、泥鏝などを手に左官の真似をしてどうなるのだ。漆喰などは職人のいじるもの、並の絵ならばともかく、お前のは左官絵だと、——でも、わたくしはこれが好きなのでございますよ。次第によっては家を勘当されても仕方がないと思っている。今日も今日とて|大るり《ヽヽヽ》と申します鳥が来たとの知らせで出て参りましたが、戻りましたらおやじどのがまたどのように悪態を申しますか。でもどうかお気にしないで下さい。そして是非、わたしの鏝絵を見てやって下さい。あなたは御武家ですから、きっと解っていたゞけると思うのですよ」 「いやあ、わたしには絵のことなどはまるでわからない。わたしはね、七つの時から柔術や馬術をやり十歳からは剣術をやって、お恥しいが今日までまるで学問というものをしなかった。十二歳の時に兄の彦四郎に無理無態に林大学頭様のところへ連れて行かれたが学問が嫌いで、いつもいつもそっと裏庭の垣根をくゞっては隣りの馬場へ出て行って馬にばかり乗っていたから、直ぐに破門をされて終った。先ずこんな始末だ」 「何れにしましても是非一度見て下さいまし。わたくしは朝から晩までおやじどのに、けなされているだけではどうにも納得が参らないのでございますよ」  長吉は、もう嫁を迎えるという年なのに、まるで子供のように年下の小吉の袖をとらえて、自分が先きに立ってぐん/\と引っ張るように歩いた。  小吉は、世の中が心の儘にならないのは、自分一人では無かったというような気がして何にかしらほっとした。  黒門町の表通りへ出ると、刀屋がずらりと並んでいる。ぽつんとその間に挟まれたように紙屋村田の暖簾《のれん》が垂れて、これが晴れ渡った初夏の風に時々ゆら/\とゆれた。高い屋根の大きな店である。  長吉は、裏口からそうーっと土間伝いに自分の居間らしい陽当りの悪い一と間へ小吉をつれて行った。  大小いろ/\な板ぎれが、そちこちに立掛けられて、如何にもいろ/\な絵がまるで浮彫りしたように描けている。これが漆喰絵というものかと、小吉は土間へ立ったまゝで、じっとこれを見詰めていた。支那風の山水もあるし、小鳥や獣もあるが、真っ正面に置いてある象に腰をかけて文をよんでいる遊女らしいものの絵は素人眼にも稚拙ではあるが、何にか強く閃めいているのが小吉にもぐん/\迫って来るように感じられた。   信濃  亀沢町へ寄った時はもうとっぷりと日が暮れていた。団野先生はすでに今日の試合の様子を誰からか聞いていて 「秋山は見事だったそうだな」  といった。 「は?」 「はっはっは。勝負は誰にもわかるが、試合はなか/\わからぬものだ。おのしももう一修行というところだったであろう」  わからない、思わず小首をふって、唯、まじ/\と先生を見ていた。 「酒井良佑も、これで本当の眼が開く」  そういったきり、先生も何にもいわなかった。  小吉が油堀へかえって来たのは|四つ《じゆうじ》すぎで、実父の居間の前庭の隅をそうーっと通ってそのまま自分の離れへ行こうとしたら、思いがけなく麻布|狸穴《まみあな》の長兄の彦四郎が来ていて、障子を開け放して頻りに父と碁を打っている。少し蒸暑かったが、星が一ぱいであった。  彦四郎は兄といっても、小吉とは二十四も年が違う。名は思孝、号を燕斎。すでに一かどの儒者《がくしや》で、十四年前表|右筆《ゆうひつ》の時に「寛政家譜重修」を完遂し、更に小吉が僅か五つの文化三年には、「藩翰譜続講」の撰をしている。この時は信州の代官で支配地へ出張《でばり》以外は神田の郡代屋敷に日勤しているが、二箇月前から信濃へ行っていたのである。  碁盤から目をはなして 「小吉、参れ」  といった。 「久方で江戸へ戻り、先程、父上よりお前が事は万端うかゞった。とにかく話がある、参れ」  眉が太く大きな眼で、鬢には目立って白髪があった。  父の平蔵はにや/\笑って 「兄は武士と生れて御番入の望みを断つなどとは奇ッ怪千万だといっているよ。お前、また日の出ぬ中に御支配屋敷まで駈けなくてはならんかなあ」  彦四郎は眉を寄せた。 「父上がそのような甘い事を申されるから小吉奴が碌な事をしないのです。これ小吉、側へ来い」  儒者に似ぬ鋭さと、不思議な冷めたさとが小吉に一とことも物をいわせぬ程に強かった。  しずかに兄の前へ坐った。 「御健勝にいられまして——」 「そうだ、おれは天理に叶った日々を送っている。然れば常に健勝である」 「は」 「然るにお前は何んだ。すでに年老いられた父上に御心配をおかけ申しつゞける許りか、御番入の望みを捨てるなど、以ての外の事。父上が御支配の御無心をお受けなさろうと仰せあるに当のお前が断るという法が世にあるか」 「わたしは」  と小吉がやっと顔を上げるのを押し潰すようにして 「黙れ、わたしはも何にもないわ。一旦|然様《さよう》の始末となった上は、石川殿へ重ねてというも妙だ。あのお方も老年、いつ迄御元気でもあるまいし、近来は御支配も度々変る。暫くの間じっとしておれ。しかし、江戸へは置かんぞ。第一、父上が世上の事にはとんと厳しいにも拘らず、お前にだけは甘過ぎる。何にかというと小吉も一かどの者よなどと仰せられるが、少々位剣術を使うとて、何にが一かどの者だ。剣術などはほんの付足りのものに過ぎぬ」 「いや」 「黙れッ」  彦四郎の声が大きく響いて小吉の顔は真っ赤に上気している。 「十日程したらわしはまた任地の信濃へ帰らなくてはならぬ。その時にお前をつれて行く。陣屋の仕事でも少し見習うも身の為めだ。父上、先程も申した通り御異存はござりませんな」 「それもいゝであろう。何れにしろわしは隠居。男谷家の当主はそなたじゃ、思うようにするが宜しかろう——はっはっは、小吉よ、兄上の仰せの通りにするがいゝよ」  小吉は顎をひいて坐っている。眼のぐるりとした鼻の高い色の浅黒い面長な顔つきが、如何にも心中むか/\しているらしい表情だが、この長兄彦四郎だけは流石の小吉にも余程の苦手らしかった。 「お前はな」  と彦四郎は胸を突出して、両手をぐッと膝へ置き 「如何に年若だったと云え養家の祖母様《おばゞさま》が鬼のようだといって金子を持出して家を出てあのように伊勢路で乞食までしおった人間だ。石川右近将監殿は、それ位の人間でなくては使いものにならぬと仰せで、一しお御番入の肝煎をなさっていたときいた。今度はその将監殿に煮湯を飲ませた上、この兄をも出抜いて出奔しようなどと思うても、うまくは参らぬぞ。利平治にも申含めた。もし、わしの信濃へ参る前に姿をかくしなどしようものなら、利平治はわしの前で腹を切ると約定したわ」 「利平治が」 「利平治ばかりではない。父上にも責《せめ》の一半を負うていたゞく——」  彦四郎は自分のいっている事に、だん/\自分が引込まれて興奮するような人柄のようだ。刀も朱鞘の長い逞ましいのを傍に置いていた。  信濃へ出発の日は、いよ/\夏らしく、日ざしが眼が痛む程に明るくて、若葉青葉が、風にささやく間を小鳥がすッ/\と飛んでいた。すっかり旅仕度の彦四郎は扇をかざしたり、時々気|急《ぜ》わしくばた/\とふところへ風を入れたりした。  いろんな人達が大勢その夜も彦四郎の泊った油堀の男谷家まで、朝早く見送りに来た。家来小者など一行七人、それに少しばかり元気のない小吉も加わっていた。  養祖母様《おばゞさま》もお信も、男谷家の人達に交って門の外まで送って出る。 「父上」  と彦四郎は平蔵の耳へ口を寄せて 「小吉がところのお信はいくつになりました」 「小吉とは二つ違いじゃから十五よ」 「今度、信濃から帰ったら祝言をしなくてはなりませぬな」 「わしもそう思っていた」  お信は腑眼《ふしめ》勝ちに、小吉の側へ寄って何にか細かな心遣いをしているが、薄着をしたからだつきが、如何にも女らしく、すらりとした綺麗な清らかな姿であった。  彦四郎はつか/\とお信へ寄って行った。 「信濃では、わしが朝夕学問を教え、陣屋の仕事も見習わせて、きっと武家《さむらい》一人前の男にして戻す気だから、淋しかろうが僅かの間、辛抱する事だよ」 「有難うござります」  お信は鄭重に礼をした。 「何しろ父上が小吉にだけはとんと甘くての」  はっはっはっはと、少しわざとらしく笑って 「何れにもせよ、当分江戸を離れさせるが、身の為めだ。わしは、あれに必ず御番入をさせる。それから先きはそなたの内助だぞ」  お信は、若々しい笑靨と共に、いくらか頬をほてらせている。  聞こえていたろう、が小吉は黙って苦笑して彦四郎が行きかけると、お信の前へ顔をよせて 「お前はいつも/\お腹《なか》が弱え故、食物には気をつけるがいゝよ。ゆンべも云ったが心配事は、一人で思いわずらわず、かンまず男谷のお父上のところへ行くがいゝ」 「はい」 「時々は利平治をいたわっておやり」  初夏の信濃路は三日霧雨に打たれたが後はいゝ塩梅にお天気つゞき。彦四郎は馬、小吉はその横へくっついて歩いて行く。 「小吉、御番入をした方がいゝか、生涯小普請で満足か。わかったろう」 「は」 「小普請は、家来をつれ馬へ乗っての往来は出来んぞ」  そういう彦四郎を見上げて、小吉は黙ってくすンと肩を上げて皮肉そうに笑った。  陣屋のある高井郡《たかいのごおり》中野村へ着いた日もやっぱりお天気で、河中島の平原と魚沼高原とのなだらかな峡谷は流石に肌に冷やりとしたものを感じさせた。千曲川に沿った小さな平野が村を包んで静かに日がくれかけていたが、陣屋の下役は固より、村方のものが大勢まるで土下座をするような恰好で迎えていた。  彦四郎はにこりともせず、馬上から 「御苦労であったの」  といっただけだった。  陣屋につゞいて代官の屋敷がある。風呂をたいてでもいるらしい煙が、真っすぐに立登って、大気が澄んでいるせいか、その煙の色も江戸とは違う。 「挨拶は明日受ける。みなに引取って貰え」  下役へいいつけると、彦四郎は小吉などは忘れたように、風呂へ入り、食事を済ませ、若い女どもに介抱されて、そのまゝ床へ入って終った。  小吉も黙って、兄のしたような事を順々にして、さて 「御寝所はこちらでござります」  肥った若い女に案内されたところは、妙に天井の高いひどくがらんとした座敷であった。障子を開けると広い縁側で、小吉はこゝへ出るとどっかりと胡坐をかいた。  この座敷は東を向いている。すぐ近くに一連の丘があって、その彼方は山らしいが、近くでさらさらと水の音がするようだ。小川でもあるのか、庭へ筧でもひいてあるのか。 「お信はどうしている? 今夜もまた倒れる迄|祖母様《おばゞさま》の肩でも揉まされているか」  星が一つ流れたのが、妙にはっきりと見えた。秋のような気がする。風呂上りのほてったからだが冷めたくなって、小吉は床へ入って枕元の行灯を吹消した。  小吉にとっては味も素っけもないような日が、それから毎日々々繰返された。時には陣屋の手代などを対手に、剣術を遣ったりもするが、仮りにも二本ざしの身であるのに、まるで形どころか、竹刀を振廻す事さえ出来ない者が多かった。小吉はいつも舌打をした。 「兄上、ちとひどいではありませぬか」 「何がじゃ」 「武士たるものが、あの始末とは誠に以て驚き入った次第」 「小吉、お前、こゝを何処だと思っている」  彦四郎はまるでからかうような調子であった。 「中野の御代官陣屋です」 「そうだ。その代官というものの仕事は煎じ詰めれば、一粒でも多くの米を御領内より取上げて大公儀へ差出す事だ。わしはな、そういう仕事を仰せつけられてこゝへ来た。手代下役共の剣術などはどうでもいゝのだ」 「しかし」 「いつぞや申した事をもう忘れおったか。剣術などと申すものは、世渡りのほんの付けたりじゃという事を」  小吉はごくり/\と二度ばかり唾をのんだ。それっきりで、兄の顔を見ようともしなかった。  夏が過ぎた。小吉は兄から学問を教わるどころか叱られても/\平気で、毎日、その辺の川や沼へ魚ばかり釣りに行っていた。日が暮れてから帰って来て、食事を済ませ、風呂に入ると、さっさと寝て終う。  秋になった。  代官所は支配内の稲作についての検見《けみ》に忙しい時になった。今日は榊木村の検見をする事に定って、下役の人達がすっかりその手配をして、いざ彦四郎がこゝへ出かけるという事になって、俄かに腹が痛いといい出した。 「大したことはないが、今日はわしは検見には行けぬ。これ、小吉、これもお前の為めだ。わしの代りに行って来い」 「検見にですか。わたしははじめてですから」  といってから、小吉は一段声を張上げて 「何も知りませぬ。間違ってもいゝですか」  といった。 「間違わぬようにやって来るのだ。今日でなくては手順が詰まり、年の内に江戸へかえれぬようなことになるから」 「行っては見ますが間違っても、わたしを叱らんで下さい」 「いゝから出役しろ」  小吉は手代小者大勢のものをつれて悠々と出て行った。  陣屋の門前には、百姓達が肩を並べて土下座をして平伏している。この一行がぞろ/\検見の現場へ案内して行く。  途中で小吉は一人の年とった百姓へそッときいた。 「一番不出来のところは何処だえ、おとっさん」   強請侍《ゆすりざむらい》 「すでに御承知でもいられましょうが、ことしは一帯の不作にござります」  老百姓はずるそうな眼をしょぼ/\させていった。 「そんなことはどうでもいゝ、何処が一番不作かときいているのだ」 「へえ」  老百姓はごくりと唾をのんで一寸返答にまごついた。傍らにいた若い男がすぐに引取って 「御案内申します」  といって先きに立った。  田圃の畝道を歩き乍ら八方を見ると、老百姓のいうように一帯の不作という程でもない。が若い男が案内して指さすところを見ると如何にもそこだけが際立って出来が悪い。 「あすこに棹を入れよ」 「はい」  若い百姓は、ちらりと小吉を上眼に見てから 「有難うござります」  とすぐに燕のように元気よくそこへ飛んで行った。  まだ陽の高い中に小吉は帰った。途中まで来ると 「お前名は何んというか」 「お地蔵新田太吉、と申します」 「よし、おれについて来い」  外の者達は追いかえした。静かに吹いて来る風に、そよ/\と稲穂の黄色い小さな波がゆらぐ。 「太吉、さっき棹を入れたところは籾にしてどの位の見込だ」  小吉は友達へ話しかけるような顔つきだった。 「一升二合五勺位でござりましょうか」 「そうか。百姓の年寄りは皆々心中狡猾な顔をしているな。あんな狡猾だから陣屋のものが自然その上の狡猾になるのだ。世の中はお互若いものがしっかりしなくちゃあ駄目だ」 「はい」 「老人どもにそういってやれ、陣屋の取立がゆるやかになって、楽をしたいなら狡猾を捨てろとな」 「はい」  この籾の取並の時に太吉のいった通りきっちりと一升二合五勺あった。小吉は 「よしッ。取並六合五勺」  といいわたした。百姓達は瞬間びっくりしたが、それがまるで夢にも見れないよろこびでもある事だけに、みんな大地へ額をすりつけて平蜘蛛のようになって終った。年とった百姓の多くはぽろ/\涙をこぼしてうれし泣きをした。  小吉は突立ってこれを見下ろし乍らにや/\して 「態《ざま》ア見やがれ」  と呟いた。  一つは日頃兄に対する何にかむか/\するものをひねり返してやったような気持と、一つは老百姓共の狡さに詐《だま》されたような形でしかも何にもかもみんな知っていて斯うしてやったのだぞ。泣け/\、うれしさで泣かずにゃあいられないだろう、馬鹿奴——小吉自身そんな不思議な気持で、自分が満足した。  太吉もずっとうしろの方にいて、そうーっと顔を上げて、小吉を見て、それが急に音を立てて地べたに額がめり込む程に力をこめてお辞儀をした。老百姓共の涙と、この太吉のよろこびとの意味は違っている。それがまた小吉にわかるだけに、小吉は内心愉快で堪らなかった。  その晩、彦四郎は、夕の膳で少し酒を飲んで小吉へ 「六合五勺の取並はちと安い」  といったが、しかしそんなに怒っている様子ではなかった。 「実際に籾がそれだけですから」 「この作でそんな事があるものか」 「あるものかと仰せられても無かったのですから仕方ありません」 「百姓共に誤魔化されたのだ。年取った百姓などというものはな、狐のように狡猾なものだ。お前を年若と見て何にか手品を使ったのだろう」 「いゝえそんな事はありません」 「まあいゝ。そこがそんなに安くても、外でそれだけ掛けてやれば決着は同じ事だ」 「は?」 「こら小吉、人生にも屈折がある、山野がある。今、平地を歩いていて何処までもそんなものだと思っていては大間違いだ、すぐに鼻先きへ坂が出て来る山が出て来る。決着、その人間が幸福だったか不幸だったかは最後に棺をおおうて、その生涯の算盤を〆めて見てからでなくてはわからないと同じにあの百姓共無学故、すぐに嶮しい山坂が行手をさえぎるのに気づかぬのだ。お前、人生とは斯ういうものだとよく/\肝に銘じて置け」 「はッ」 「百姓共は、お前をいゝ鴨だと思いおったろうなあ。はっはっは。馬鹿奴ら」  彦四郎は盃を重ねながら、時々、吐きつけるようにそんな事をいって口をゆがめた。  青空がつゞいて、稲の穫入れにはいゝ日和が十日余り。  今日はお昼頃から、妙な空合になって、西の空は明るいが東が真っ暗。やがて一雨ざッと来そうだ。  彦四郎は、代々庄屋を勤めている茂右衛門の持って来た古い土蔵倉の中にあった何年にも開けた事もない古つゞらの中から見つけたという虫喰いだらけの巻物を、今縁側へ出て見ているところであった。  陣屋の門を毬を転がすように前倒《まえのめ》り込んで来る人影を、仕切りの垣根越しにちらりと見た。  はッとした。陣屋の手代の一人が大あわてで彦四郎の前へ両手をついた。 「参りました」 「何? 来たと」 「はッ、先程より茂右衛門へ参り、茂右衛門へはかねての仰せつけ故、遂に口論になりまして、小前の百姓一人が斬られました」 「うむ」 「唯今、当御陣屋へ向ったそうでございます」 「よし、きっと召捕れッ」 「は」 「手代は皆いるか」 「小島、大島、間庭にわたくしでございます」 「下役共は」 「七、八名はおります」 「よし、きっと召捕れ。手に余ったら斬捨ててよろしい」 「え、斬捨?」 「わしが腹を切れば事は済む。やれ」 「は」 「小吉は」 「狸沼へ釣にお出かけで御不在でございます」 「急いで迎えにやれ」  その小吉は陣屋から二十町余もはなれた狸沼べりに胡坐をかいて悠々と釣をしていた。  沼の一方は雑木林。それも凡そは秋風に葉が黄ばんで、大きな樹の根方には真っ紅に眼のさめるような漆の蔓が逼いからんでいる。後は茅葦が茂って、小吉のいるところだけは水べりに長く延びた木賊《とくさ》がまるでこゝだけに植込みでもしたように一かたまりになっている。 「勝様々々」  さっきの手代が息を切って、やっと姿を見つけた遠くから声をかけた。  小吉はふり返って、押さえるような手振をした。 「しッ/\。静かにしろ」  手代は飛んで来て 「御陣屋へ乱暴者です」 「乱暴者? 陣屋には腕自慢が大勢いるではないか。こっちはそれどころではないのだ。さっき大きな鮒を釣落して、それからとんと当りが来ず、腐っていたら、今やっと鮒奴、用心深く鼻先きで餌をつゝいたところだったに」 「ふ、ふ、鮒どころではございません。茂右衛門のところの小前百姓が一人斬られました」 「斬られた?」  と小吉は、はじめて真顔になって 「上州新田の岩松満次郎がおのれで出て来たのか」 「親類の桜井甚左衛門だ、名代で参ったと申していたそうです」 「怪しからん野郎だ。新田義貞公の御直流、東照神君この方、旧名門御取立の御尊意で、御高は百二十石とは云い乍ら、年に御年始唯一度の登城、しかも白無垢着用柳間詰の御殊遇をいゝ事に、大公儀御領の御穫入時を見計ってはわざ/\こんなところ迄出張って来て強談《ごうだん》の無心」 「いつの世にも権勢を笠に着るこういう奴はあるものだが一度は取挫がなくては公儀役人の面目が立たぬと御代官がいつも仰せでございました」 「おれも兄から度々きいた。大百姓共に十両二十両の無心を吹っかけた揚句|与《くみ》し易しと見れば代官がところへも挨拶と称してやって来るという。新田だろうが白無垢だろうが、そんな横道《おうどう》があるものか。よし、行ってやる」  言葉が終った時は、小吉は釣竿をそこへ放り出したまゝで、着物の裾を高々とからげ、狭い野道をふっ飛んでいた。道ばたの薄がなびく程の勢いであった。髷先が真っすぐに上へ立っている。  手代はとてもついては行けなかった。はあ/\息を切って、もうひょろ/\と左右に足がもつれている。 「後でゆっくり来い」  小吉は笑い顔で一度そういったが、すぐに姿は見えなくなった。  小吉は陣屋の裏口から飛込んで行った。彦四郎が何にやら大声でわめき立てて下知をしている。例の太い朱鞘の鐺《こじり》が襖の横から見えている。  手代達は何れも抜刀。下役も手に/\思い/\の獲物を持ち大勢の百姓も集っているが、すでに対手におじけ立っているのが、小吉にはすぐにぴーんと来た。  座敷へ飛上って 「兄上」  とよんだ。 「おゝ小吉ッ、あれを見ろ」  彦四郎の頬は真っ蒼でくゎッとした眼が血走って、つッと突出した指先が慄えているようだ。  陣屋の門のところに三十七、八、六尺もある肩の盛り上った大きな侍が、大刀を斜めに振りかぶって、前に押すな/\というように並んでいる百姓や、役所の下役や小者達を睨みつけている。黒の紋付袷に袴を裾長にはいて、無反《むぞり》の鞘が長棒を腰にしたように見える。そ奴が時々、振返って、じろりと陣屋の内を見る。その度に土間の辺りに立っている手代達が、ざッと二、三歩うしろへ退くのだ。 「兄上、あ奴は斬るのですか、召捕にするのですか」 「どちらでもいゝ、長びけば、怪我人が多くなる。もうさっきから小前百姓が三人も斬られた。浅手は数が知れない」 「それにしても白無垢着の新田家の者を斬っては後がうるさいでしょう」 「わしは腹をかけた。だ、だ、だが出来たら手捕《てどらま》えにしろ。名門権勢を笠に収穫時には代官百姓に大金の強談強請。これ迄は年々皆々天災行事ともあきらめて何十両奪われても泣寝入になっているが、わしはこの辺でぶちのめして、後々の患を断ってやりたい」 「兄上が腹をおかけなされたッ、それならもう恐い事はありません。小吉にお任せ下さい」 「早くしろ」 「はッ」  小吉は、平気な顔つきで四辺を見廻し乍ら、腕を組んで門の方へ近づいて行った。門の内側まで近づくと、そこにいる小前百姓の中の一人が目についた。 「おい、どうだ、太吉。手代、下役、この陣屋の二本差している侍達はみんな縮み上っている。お前、捕える気はないか」  例の検見の時の若い男である。 「はい」 「侍も百姓も同じという事を陣屋の者に見せてやれ」 「はい。で、で、でも、わしらには、鍬鋤をとる外に、何んの芸もありませんで」 「おれが教えてやる。こっちへ来い」  小吉は太吉の筒袖の端を引っぱるようにして手許へひき、低い早口で何かいった。 「死んでもいゝと思ってかゝれ。後々はおれが決して悪いようにはしない」 「はい」 「百姓も侍も同じだという事をこの大勢の前で見せ得たら、唯それだけで百姓一代の本懐だぞ」 「はい」  太吉はやがて六尺ばかりの木の棒を一本持って、強請の侍を目がけて必死に飛んで行った。 「太吉」  小吉の声と一緒に、ぱッと若い百姓の足が地すべりの煙を立てて止ったと思うと、その六尺棒が力一ぱいの唸りを立てて、侍目がけて飛んで行った。  侍は、さっと素早く体を開いた。と同時に、その棒を真ん中からまるで大根でも斬るように、斜めにぱッと斬払った。棒は二つにわかれて一つは空へ、一つは音をたてて地へ落ちた。   三ぐずり  動悸《どき》ッとしたが、途端に太吉が刀を振り上げた桜井へ小吉に教えられた通り真ッ正面からぶッかませるように力任せに組付いて行った。しかし対手はとっさに腰をふって、太吉を離して、目にもとまらぬような早技でさっと一太刀、股の辺へ斬りつけた。  血が見えた。と一緒に小吉はいつの間にか握っていた砂を桜井の顔へ凄い勢いでぶっつけてやった。 「あッ」  大兵の桜井は左手で顔を押さえて一度のけ反ったが忽ち背中を丸めて打伏せるような恰好になった。 「行け!」  小吉の大きな声がした。下半身血みどろの太吉と共に下役や小者達が雪崩を打って折重なって行った。下役にはこうした捕物に馴れた者もいる。小吉がにや/\して突立っている足許に、大きな獣ででもあるように転がされている桜井は、ぐる/\巻きに縄を打たれて、おかしな事に、すでに気絶していた。 「太吉を担いで行って疵の手当をしてやれ」 「はあ」  下役達が三人がかりで、持ち上げたが 「な、な、何に、大丈夫でございます。これ式に——」  顔にはすでに血の気がない。 「何にが大丈夫なものか。その儘置けばお前死んで終うぞ」 「い、いやあ——」  太吉は頻りに元気ぶっているが、無理に運ばれて行く途中でとう/\気を失った様子。  彦四郎がそこへ近づいて来た。小吉は桜井を見下ろして小首をかしげながら 「兄上、これはどうした訳でありましょう」  彦四郎は 「おい、牢舎《ろうや》へぶち込んで置け。黙っていても気はつくが、手桶で水でも打ちかけてやるか」  下役へいってから、はじめて小吉へにやりとして 「この辺の小者にはな、斯ういう捕物には、誰かが必ず下へくゞって、睾丸をとって引きすえる術があるのだ」 「はあそうですか」 「それにしてもお前は今怪我をした百姓を知ってるようじゃな」 「地蔵新田の太吉、強い男ですね。あれは何んとかしてやらなくてはなりません」 「あゝした乱暴人の捕物などには、百姓は狡いから、たゞ空騒ぎをして遠くから囃立て陣屋の者達にばかり働かせて、自分は決して損はせず、得だけを得ようという気がある。今の男に充分な報いがあれば、自然その気風もいくらかは変って来るかも知れんな」  牢へ入った桜井は不貞腐って、大きな眼玉でぎょろ/\睨み廻して、酒を持って来いとか、こんな飯が|食える《ヽヽヽ》かとか怒鳴りつゞけたが、彦四郎は、野荒しをした小|盗《ぬす》ッ人《と》などと同じような取扱いよりさせなかった。  小吉は面白がって、時々、この牢舎へやって行って牢格子の外からきょとんと白っとぼけて見ていた。桜井はにぎりこぶしで羽目板を割れる程も叩いて 「上州新田の者と知ってこの取扱い、貴様ら、切腹位ではすまんぞ」 「そうですか、こちらは天下の家人《じきさん》、それでも市井無頼の輩《やから》のように獄門にでもなりましょうか」 「黙れッ。新田家はいずれへ行こうと我儘御免、御法度の外を歩ける格式だ」 「はゝあ、それは豪儀至極。強請《ゆすり》詐欺《かたり》もお構い無しか」 「うむ」 「その強請者《ゆすりもの》に斬られて、お蔭で御領内の百姓が一人、生れもつかぬ片輪になった。これもお構い無しかな」  さっきも太吉の手当をした医者が、もう一人前の働きは出来ないといった。それが小吉の胸にぐんと来ている。 「何れにもせよ、新田へ当方から掛合の者が行った」 「新田へ?」 「桜井などというそんな奴は知らんと云えば——はっはっは、恐らくはそういうだろう——そうなればおのしをどう成敗しようと、御代官の自儘だ、面白いな」  桜井の顔色が少し変った。 「御代官は新田様との御対決を大公儀に御嘆願を申しても、この黒白はきっとつけるといっている。天下三ぐずりの、新田岩松様の無法が通るか、それとも御領を預かる代官の存じ寄りが通るか——ね、面白いではないですか」 「天下三ぐずり?」 「いやわたしも昨夜御代官からうかゞったのだが。——野州|塩谷《しおや》の郡|喜連川《きつれがわ》侯、三州|宝飯《ほい》の郡《ごおり》長沢松平。これを天下三ぐずりというそうだね。だが、その中で喜連川侯も松平家もいじめる対手は大名だが、百姓を苛め廻るのは新田だけだそうだ」  桜井は妙に口をひん曲げて小吉を睨んだが、顔色は段々蒼ざめて行くだけであった。  喜連川は足利の旧門を取立て後ちに家康の第九子忠輝が養子となって天下諸侯の扱いを受けてはいるが無禄である。三河長沢の松平は家康の六男の家で、白無垢を着て年に一度だけ輿へのって登城する。これも無禄。  江戸から七十七里東海道赤坂の宿から松並木つゞきで、八王子橋、二つ橋と小さな川を二つ渡ると、こゝが長沢だ。  参覲交代の大名の上下。嫌やでも通らなくてはならぬ。二つ橋は長沢へ入ろうとする村はずれだが、長沢の当主は白無垢を着て、この橋の真ン中に床几をすえて大名行列のやって来るのを待っている。  金一封を持って飛んで行って挨拶をすると、すうーっと立って「何々の守殿へよろしゅう」とか何んとかいって姿を消すが、|へま《ヽヽ》をやると半刻でも一刻でもここを退《の》かない。近頃では行列の二里も三里も先きに走って来て家来が一封を渡すから面倒が起きなくなり、差上げる金額も禄高に応じて、殆んど定ったから、松平は活計《くらし》がおゝきに|らく《ヽヽ》になったと笑っているという。  小吉は牢の中のだん/\影が薄くなって行く桜井を見ながら、こんなことを思い出しておかしくなって終った。 「徳川《とくせん》が天下《おいえ》も隅から隅まで腐っているものだ」  吐き出すように呟いて、今度は桜井へ 「おい、いざという時にあわてねえよう覚悟あして置くがいゝね」  そういってぷいッと行って終った。  支配地の収穫は悉く済んで、もういつ江戸へ帰ってもいゝのだが、新田の一件が引っかゝって、彦四郎は江戸へ帰れない。  信濃の晩秋は輝やき渡るような日があったり、今にも雪か霙にでもなりそうに暗かったりした。  先頃までは、雁が群れて、月をかすめて幾百となく飛び去るのを見たが、今はもうそれもなく、鴉の声が時たま裏の雑木林から背中がぞく/\する程冷めたく聞こえて来る。  太吉はだん/\よくなると医者はいうが、今のところは斬られた方の脚が吊って、思うように身動きも出来ない。やっぱり片輪になりそうだ。  朝ぱら/\と大粒の雨が降った。小吉は、それが晴れてすぐ青空が見えたので、太吉の家へ見舞に来た。 「どうだ。わしを恨んでいるか」  太吉は激しく手をふって 「飛んでもありません。わたしは片輪にはなりましたが、何んだか、あなた様の仰せられた通りに男というものになったような気がしてうれしいのです」 「本当か」 「本当です。片輪にはいつでもなれるが、男になれる事は一生の間にあるかないか知れないものだとはっきり思い当りました」 「嘘にもそう云って貰うだけで、わたしはいくらか重荷が軽くなる。だが、やっぱりすまない事をしたと思っているよ」 「か、か、勝様、もしそんなお気持でいられるなら、あなた様は間違っていらっしゃいます。太吉を恥しめるのはお止め下さい」 「有難う。勝小吉もやがては江戸へ帰る。わたしは、役人になる事など真っ平だが、あの兄上のお気性、どうしてもわたしを御番入をさせずには置かないかも知れない」 「へえ」 「自然、なか/\二度とこの信州へは来る事などは無いだろう。何にかの時にはお前江戸へ出て来て呉れ——といっても、脚が不自由ではなあ」 「何あにお目にかゝり度くなれば、片脚ででも参りますが、あなた様のお家柄、御代官にでもお成りなされましたら、またこちらへ」 「いや、そういう事はない。兄上にはお子はないが別に養子を迎えることになっているから、わたしは男谷の家とは何の関係もないのだ」  太吉は芋を煮て小吉をもてなしたが、その戻りの道に、櫟の森の古い地蔵の前まで来たら、またばら/\と霰が降って来た。  この晩とう/\粉雪になった。信濃の初雪。  彦四郎は、酒をのんでいたが不機嫌で、何にかにつけて仕えている女を叱りつけた。 「小吉。間庭はずいぶん手間取るな」  新田へ掛合に行っている手代の事を出しぬけにいい出した。 「上州から江戸へ廻るのですから、これ位はかゝりましょう」 「それにしても彼奴め、途中から凡その|たより《ヽヽヽ》を差立てる事もわきまえん。帰ってきたら解雇だ——おれももうふつ/\江戸へ帰りたくなった」 「わたくしも然様《さよう》です。唯、太吉の一件が気になります」  次の日も次の日もつゞいて雪。しかしうっすら白粉をまいたようにはなるが降っては消え、降っては消え、雑木林の枝裏や地べたの窪地などに、ひょっと白いものが見えたりする位のものである。  この朝もさら/\といつもの白粉雪が時々降ったり止んだり、時には青い空がびっくりする程に拡がったりしている中を、手代の間庭がやゝ疲れてはいるが、元気で陣屋へ戻って来た。  土間へ入ってまだ草鞋もとらない。彦四郎はそれと知ってつか/\と出て行った。 「どうだ」 「はッ」  と間庭は少しびっくりしたようにして顔を上げて、眼をぱち/\しながら 「新田家におかれましては——」 「然様な者は知らんと云ったろう」 「はア。申しました。桜井甚左衛門などと申すもの聞いた事もないとの仰せでございました」 「確《しか》と然様だな」 「間違いございませぬ」 「よし。で、地蔵新田の百姓太吉の件は」 「は。御郡代屋敷の皆々様御評定の上、大公儀様御役方へ願出でました結果当人一代三人扶持——」 「下さるか」 「は」  丁度、奥からそこへ出かゝっていた小吉の方へ彦四郎はぐッと顔をねじ向けて 「聞いたか。太吉に三人扶持下さる——おい、わしが勝った。新田の無法の鼻をへし折ってやったわ。これで諸国の代官百姓が助かるぞ。わッはっはっは」  彦四郎はからだを左右にゆり動かして腹を叩いて大口を開いて笑った。 「そうですか。太吉へ三人扶持」 「三ぐずりの一つを平らげるのはわれら武士《さむらい》当たり前のこと。太吉への御扶持は、御仁政だ。小吉、徳川《とくせん》の御家は大磐石だ」 「はあ」 「これでやっと年の内に帰府出来るわ。お前江戸へかえったらまた忙しくなるぞ」  小吉はそれには無言で首を垂れた。  次の日は雪は降ってはいなかったが、空一面に鉛を張ったように重く雲が垂れて、山も見えず、野も見えず。  陣屋の手代が三人、下役や小者が五人もついて牢舎へやって行った。桜井はあの時の服装のまま大きなからだを、隅っこの羽目板に持たせて両膝を抱えてその上へ顎をのせて、如何にも寒さが身にこたえる様子でじろりとこっちを見た。見違える程に痩せて、眼が窪み、頬も顎も髯で一ぱい。肌は薄黄色く垢じみている。   浅間のけむり  桜井が牢の外へ引っ張り出されて、頭の皮がひんむける程にがり/\剃りにされ茣蓙一枚と菅の笠、大握飯一つを恵まれて、足許が今にも倒れそうにひょろ/\しながら追放されたのは、それから間もなくであった。いゝ塩梅にその時は空が晴れていた。  村はずれの雑木林へかゝると、うしろから小吉が一人で追って来た。 「おい、今夜は雪のようだ。野宿をしては凍え死ぬだろう。銭をやろう」  紙へ包んでいくらかやって 「尻ッぽをつかまれれば、そ奴を知らぬ存ぜぬというのはどこの家《うち》でもお定まりだ。諦めろ」  といったが、桜井は返事もしなかった。 「天領の百姓を一人は片輪、三人は相当の疵、かすり疵や浅手は七、八人もあるという大暴れをして首も落されず坊主位で済んだは滅法安いものだ。——まあ達者でくらせ」  そういうと、くるりと踵をかえして小吉はとっとと引返した。桜井は突立ってじっとうしろ姿を見送っていたが、小吉は振返りもせず。  その夜、寒さが骨に透ってやっぱり雪になった。小吉は大炉へどん/\薪をくべさせて、手代の間庭と外に大島、小島の三人、ぐるりとこれを囲んで世間話をしていた。炉の煙が時々幕を張るようにこっちの顔へ流れて来てむせそうになったり、真っ紅な焔がぱっと立って向い合いの人間を不動のように見せたりする。 「岩松満次郎も薄情な人間だなあ。永年あの桜井を手先に思い切り甘い汁を吸ったろうに、確かにおれの家来だ、家来ならどうしたというんだ位に、こゝンところ尻をまくって来るのが本当だがな」  小吉がそういうのへ間庭 「勝様、そうは参りませぬ。一人の家来よりは御家が大切でございますからね」 「馬鹿を見るは家来ばかりか」 「百人千人あんなのを斬ったとて大根《おおね》をやっつけなくちゃあ何んにもならんというのが御代官の御趣意ですからあの男も助かりました」 「まあそういう事だな」  広土間へ小者が飛脚をつれて急ぐ恰好で入って来た。 「御代官様へ江戸からの御飛脚でござります」 「そうか、すぐお取次申そう」  間庭が封書を受取って 「知らずにいたが、外はずいぶん降っているようだな」  飛脚は、何処もこゝも真っ白であった。  彦四郎は炬燵へ入って、女に肩をもませ乍ら、行灯を引寄せて何にやら古い書物《かきもの》を見ていた。無言で間庭からの封書をとると、ちらりと見ただけですぐに 「小吉を呼べ」  といった。  また叱言《こごと》か、そう思って小吉は渋々座敷へ入ったが、彦四郎は上機嫌である。 「明日江戸へ帰る。用意をするように」 「江戸へ?」 「油堀の屋敷が度々の|つなみ《ヽヽヽ》を蒙るのでかねて父上が屋敷替の御嘆願を申上げ裏々でも然るべく贈賄《まいない》していたが、俄かに本所亀沢町へ替地を賜わったそうだ。高潮の度には心配して避難したお前の生れた油堀とももうお別れになるな。それに小吉、面白いではないか。お前の御支配石川右近将監は卒中を発して急死したそうじゃ」 「え?」 「御支配は大溝主水正。大久保上野介が頭《かしら》を仰せつかったわ。大久保なら少なからぬ縁がある。お前の御番入も今度は叶いそうじゃな」  小吉は渋い顔をした。江戸へ帰るのはいゝが、また御番入騒ぎか——胸の中がむか/\して来る。  今ッといったら今、待て暫しのない性《せ》ッかちで我儘な兄だ。何にをいったとて何んともならない。  手付や手代達も急も急、明朝の出発ときいてびっくりしたらしいが、居残りの番に当った小島、大島の二人だけが陣屋へ残って、後は代官と一緒に帰らなくてはならぬ。  次の朝は昨日からの雪。 「みんな達者でいよ」  彦四郎は例によって馬上から、仕えていた女達などにそういって、ふと馬の首を立直したところへ、旅仕度をした何処かの代官所の下役らしい若者が急ぎ足で近寄って来るのが見えた。  小者は、彦四郎へ丁寧に一礼してから間庭の方へ近寄って何にかいった。 「わかりました」  間庭は、ふところ手帳へ、矢立をとって急いで対手のいう事を書留めてから、後へ残る大島手代へ早口にそれを伝え、大島もまた手帳へ認めた時は、もう、先きの若者は、そこを去っていた。 「何事だ」  面倒臭いといわぬばかりに眉を八字にした彦四郎へ 「小諸で牢抜けをした者がありまして、その手配でございます」  と間庭が告げた。 「何者だ」 「上田生れの音吉というばくち打ちで、子分が二百もあります由、人を殺し小諸の牢舎《ろうや》にて二百日余調べ中を破牢いたしました。なか/\腕が立ちますそうで」  彦四郎は、途中からもうそッぽを向いて碌にきいてはいなかった。馬が蹄を鳴らして歩き出している。  信濃路を追分の宿へかゝった日は、お天気で暖かった。浅間の煙がその青い空へ殊にくっきりと立ちのぼって、三ツ家村の橋を渡るところで、間庭は、もう江戸の匂いがするようですねと小吉へ話しかけた。が、まだ江戸までは四十里ある。  馬上の彦四郎の風采から供の者の様子、代官一行とはすぐにわかる。雲助や馬方などはみんな道をぎり/\のところ迄引退って、そこに土下座をして頭を下げている。油気のないその髷へ散った朽葉が留ったりしている。  悠々と彦四郎の馬が通る。少しうつら/\としていたらしかったのだが、俄かにくゎッと目を見張って 「小吉ッ」  と呼んだ。 「はい」  少し遅れて歩いていた小吉が飛んで馬の脇へ行った。 「あの馬子のうしろを見ろ」 「は?」  馬子が七、八人、道脇を流れている小川の向う側の低い枯れ熊笹の上にごちゃ/\と集ってかしこまっているうしろに、やっぱり顔を伏せて頭を下げている五分|月代《さかやき》の男がいる。引廻しを着て、その裾から長い刀の鐺がにゅッと突出ていた。  小吉は思わず、ぎくッとして顎を引いた時に、彦四郎はまた鋭い声で 「間庭ッ。貴様ら、何処へ目をつけて歩いている」 「はッ」 「仮りにも天領の代官の者が、街道を間抜け面で歩いていてどうなるのだ」 「はッ」  間庭が二度目にぺこりとお辞儀をした時には小吉はもう馬子達の鼻っ先き迄飛込んで行っていた。脇へさしていた十手をぬいて、これを一文字に突きつけて進む。 「あッ!」  引廻し合羽の男は仰天して飛上ると、そのまゝ横道をどん/\逃げ出した。早い足だ。浅間山を真っ正面に見て逃げている。  田舎道で、小吉の足には馴れないから、やゝともすると遅れ勝ちになる。熊笹が多く、蔦かずらが細い道を突切って地を逼っている。白樺だの、櫟だの、楢だの、そんな木が山道の両側に立並んで、狭くなり、広くなり、くね/\と果ては浅間の麓へ突当るようだ。  小吉は十町余りも追った。間庭だの、外の手代や下役は、いつの間にかずっとおくれた。  人の気配に驚いて、林の中の鳥があちこちから、羽音荒く飛立って行く。  林が跡切《とぎ》れて、低い枝木や枯草ばかりの一寸した広場になった。そこ迄は無言で追い、無言で追われた。  いきなり、男が、敏捷な動きで振返り、さしている長い一本刀を反りかえし、足をふまえ、柄《つか》へ手をかけて 「お役人様」  と、ぎろりと大きな眼で小吉を見た。寄ったら抜く気だ。はァ/\と二度呼吸をしてから 「どうぞお見のがし下されませ」  と皺枯れた太い声でいった。刀の柄に手をかけて半分は脅かしの調子だが、しかし心からそういってもいる。  四辺には誰もいない。小吉は十手を突出したまゝ。二人の間はものの二間位だ。  男は右を柄へかけたまゝ左をふところへ入れて、どっしりと金の入った革財布を引きずり出して、ぱっと小吉へ投げてよこした。 「お見逃がし下されませ」 「馬鹿!!」  小吉は物を裂くような大声で怒鳴りつけた。 「何んでうぬらを見逃がすものだ。上田の音吉、神妙にしろえ」 「どうぞお見逃がし下されませ」 「子分が二百もあるというに、飛んだ未練の勝った男だ」  小吉が、財布などには眼もくれず、すッと擦足に少し寄った。音吉はぱっと二、三尺も引下って、腰をひねると、さっと刀を抜き放った。  小吉はにやっとした。 「うぬが刀は二尺九寸五分、池田鬼神丸国重と代官所へ届があった。如何にもいゝ刀のようだな」  またくくッと笑って今度は出しぬけにその刀に吸いつけられでもするように風みたいに寄って行った。  音吉は、あわてていきなり斬りつけて来た。  しかし小吉がその刀をどうかわしたのか、音吉の真額《まびたい》を真っ正面から十手でぐゎーんと一撃した。物凄い音であった。  音吉は棒立ちになって、頭をがくりと反らせ乍ら、たゝッと二、三歩退ったが、今度は突出した刀の上へ自分のからだを掩いかぶせるような恰好になってひょろ/\と前|倒《のめ》り出て来た。  小吉の十手は再び顎を下から斜めにすり上げるように力任せに打った。これもひどい大きな音がした。そしてさっきと同じようにのけ反った隙に、十手は今度は刀を持った手首をへし折る程に強く打ち、音吉が、ぽろりと刀を落した時には、その利腕を背に担いで一間も先きの熊笹の上へ嫌やという程に投げつけて終っていた。  音吉は腹ン逼いになって 「お役人様、お見のがし下されませ」  と虫の息でやっといった。  やっとの事で手代も小者も息をはァ/\いい乍ら追いついた。彦四郎も馬を入れた。駕かきだの、馬子だの、道中の人だの、わい/\いって集って来たなかに、宿役人も交っていて遠くから、恐る/\そこに倒れた男を見ている。 「勝様、こ奴、破牢して今日は追分宿の女郎屋へ押入って脅し、一両とっての戻りだったそうです」  と間庭は音吉を見下ろし乍らいった。 「子分が二百あるの親分だなどといっても屁を見たような下《くだ》らぬ男だ。領地の大名へ渡すと首は無いが、それ程の奴でもなし、間庭さん、助けてやろう」  小吉がそんな事を小さな声でいっている間も、音吉は二度もぶつ/\と呟くように 「お見逃がし下されませ」  といった。 「中之条の御陣屋へ引渡すようにせよ」  と彦四郎も間庭へいいつけて 「その刀は小吉、お前に褒美にやるぞ」 「は、有難う存じます」  小吉は、すぐに音吉の刀を拾って鞘へ納めた。 「間庭、その落ちている革財布、そ奴のであろう。村役人に渡し、命の助かる冥加金に使うよう取計らえ」 「はい」  前|倒《のめ》った儘の音吉を、村役人に置き放して彦四郎の一行は間もなく、街道へ引返して江戸へ向った。 「小吉」  また馬上から彦四郎が呼んだ。 「ばくち打ちの一人や二人、斬ったとて助けたとていゝ事だ。が、このわしさえ気がつくに、若いお前が手配のあったばかりのあ奴の前をうっかり通るようでは仕方がない。そんな油断では御番入をしても失敗《しくじ》るに定っている。そんな事でどうするかッ」 「はい」  小吉はさっきの刀を小者に持たせている。 「油断のいましめに、毎日あの刀を差料にしろ」  江戸へ着いたら、永代橋から富士が見えて、何にもかも信濃とは物の匂いが違っている。やがて師走も来ようというに、下町にはまだ夏すだれを取り忘れたところもあり、何処の家も新しく障子を張替えていた。  先走りをした小者の知らせで、お信と男谷の用人利平治が、女中共々永代の東詰に小吉を待っていた。黄昏れで、流石に冬らしい夕靄が地をはっていた。彦四郎は郡代屋敷へ立ちよってそれから一先ず麻布の自邸へ引きとったので、小吉は一人であった。   亀沢町  その夜平蔵の屋敷で、小吉の帰った祝があって、お信と共に勝のお祖母《ばゞ》様もこっちへやって来ていた。人の顔を見ると、小吉は勝の家を潰しに来た男だと悪口をするが、今夜は平蔵の手前か、大層愛想がよかった。 「小吉、信濃では面白い事があったろう」  と平蔵は酒盃を手に笑顔であった。 「喧嘩の手を覚えました」 「何、喧嘩?」 「二度捕物をやったのです。一度は仲間を指図し、一度は自分でやりました。刀をぬいている対手を捕える心得を会得しました」 「ふーむ。それから」 「それだけです」 「学問は」 「釣ばかりしていて一度も兄上の講釈はききません」 「陣屋の仕事は」 「何にもやりません。が代官所は役人達が、一人残らずこそ/\こそ/\百姓達を泣かせて金儲けをやっているということを知りました」  平蔵はにやッとした。 「手代共が、陣屋勤めは金がもうかるといっていたのを聞きました。兄上もあんな厳しそうなお顔はしていても儲ける事は大層巧みだといっていました」 「これ」  傍らから出しぬけにお祖母様が小吉を叱りつけた。 「いや」  平蔵は、いっそうな笑顔で 「これは小吉のいう事が本当ですよ。この先き何百何十年、世の中がどんな風に変っても、小役人が役得を稼ぐ事は変らんでしょう。やっぱり小吉はいゝ勉強をして来ましたわ」 「と申しても兄上様を」 「いや構わん。あれは役人としていゝところも沢山あるが、それと同じ位に悪いところもある人間。その上、当人は自分だけでは世の中の事は何んでも心得ているような気でいるが、実は何んにも知らない。あれは唯の本箱ですよ」 「はあ?」 「万巻の書がぎっしり入っているだけで、それに血を通わせて使う事を知らない。勝手で偏見でしかも頑固でな」  お祖母様はこれにどんな返答をしていゝのかわからないと見えて、それきり口をつぐんで終った。 「あれはあれ、小吉は小吉。小吉は小吉らしく家を盛り立てる事だ。いつ迄今迄のような|やんちゃ《ヽヽヽヽ》ばかりもして居まい。な、お祖母様、春早々には祝言をさせてはどうであろう」  丁度、お信がその時はそこにいなかった。 「はい。結構でございます」 「家内が出来たとなると自然何にかと違って来よう」 「違って貰わなくては困りまする」 「御支配の頭を勤めるものも、男谷家とは多少縁辺だから、今度は御番入も何にかと好都合、この機に乗じて小吉に一つ働いて貰おう」  と平蔵は、今度はそれ迄と違ったようにちらりと鋭い目を向けて 「小吉、わしはもうこの年だ。いつ迄生きてもおらん。お前の持って生れて来たものを、しかと見定めて死にたいぞ」 「はあ」 「お前きいたろうが兄は番場の家から見込をつけた新太郎をとう/\養子に貰い受ける事になった。総領を養子に奪った彦四郎の粘りは並々ではないが、あの新太郎に見込をつけたところはやっぱり彦四郎も唯の奴ではない」 「は」 「わしは新太郎の筆蹟を見て実はびっくりした。あれは大物になる。しかしながらお前にはな、何にも大物になれなどというのではないぞ。お前はお前なりに唯|しか《ヽヽ》と性根の坐った人間になればいゝのだ。新太郎はこの間の団野先生の月稽古で三十人、一人残らず突きで倒したそうだ」 「そうです、新太郎は若年ですがまことによく出来ます」  番場の家というのは小吉の伯父男谷忠之丞で、本所番場町に大きな屋敷があった。忠之丞は親類の者一統が「聖人」と綽名した好人物で新太郎、忠次郎、二人の子の中の兄を従弟子《おい》の後つぎに呉れたのだ。新太郎はのち誠一郎、更らに精一郎。 「しかし、そんな事はまあどうでもいゝ。唯、来年は亀沢町へ移るから、お前この油堀のお前の生れた家で祝言をして、本当の世の中への出発をするのだ」  男谷の家はそれ以来俄かに忙しくなった。亀沢町の替屋敷へ移るといっても、これは新築同様に手入をしなくてはならないし、一方、小吉の祝言にも日が無いので、毎日々々、絶える間のない程に人の出入がある。  小吉にしてもうれしくない事はないが、何によりも一番気に入ったのは、亀沢町へ移ると団野先生の道場が同じ町内ですぐ目と鼻の近いところ。暇さえあれば道場で竹刀を持っていられる事だ。  一日、団野先生へ信濃での捕物の話をした。 「あちらには組伏せて睾丸を引く術があります」 「牢小者などのやる下賤の技」  と先生はぷつりといっただけだった。  帰りに、新たに引移る空屋敷へ寄って見た。むかしその為めにこゝの町の名になったという大きな亀の形をした深い池の名残がまだあって、贈賄が利いていると見えて屋敷は広く五百坪余りもある。  松の内がすぎると直ぐ祝言があった。ずいぶん即急だが、平蔵には早く小吉を落ちつかせたいという腹と、もう一つは勝のお祖母様も、何分にも年だから、万一の事がない中に、とそんな気持もあって、先ず祝言は滞りなくすんだ。 「さあ、ぼつ/\御番入の御機嫌伺いに日勤せよ」  祝言の七日目に彦四郎は眼を吊上げるような顔付でそういった。頭の大久保上野介はいゝ塩梅に本所のお竹蔵裏に住んでいたし御支配大溝主水正は日本橋の堀留に屋敷があった。 「双方へ伺うのだぞ。こら小吉、よっくきけ。先頃小普請のまゝ死んだ山脇留次郎という男はな、学問もよく出来、鎖鎌、棒術も達人であった。それが番入の志願をして、先きの御支配小日向山城守様に三年の間、一日も欠かさず日勤御機嫌を伺った。が三年目にお言葉があって逢対《あいたい》に出たらその日に山城守様が俄かに御役替になって西丸へ出仕、他人のことどころの騒ぎではなくなった。山脇三年の日勤は徒労に終った。しかし、あの男は諦めない。次の御支配小田備前守様へ日勤してこれも三年、丁度その日に備前様が御納戸方へ御役替になって逢対もない。六年無駄骨を折った。が、それに懲りず、また三年の間、次の御支配山口近江守様へ日勤した。こゝに三年。併せて九年の歳月を費したが近々に御番入を仰せつけられると近江守様から内々に御沙汰があって歓喜して帰宅したが、その歓喜の余り、その夜卒中で四十二歳で死亡した。これだけでは実に悲しい話だ。が、近江守様がお憐れみを持たれて、一子釜太郎は実は十四歳を二十歳也として甲州市川大門村代官所の手付にお取立になった。いゝか、家内を持った上はお前もやがて子が出来る。自分のためだけの日勤だと思うては事が違うぞ。自分で出来なくとも、子の代に——いいか。手順はわしがちゃんとつけて置いた。明日からやれ」 「は」 「いつも申す通り父上はお前には他人に対する時とはまるで人間が違ったように甘すぎる。それに今の世の中の荒波というものにはお気を留められようともなさらぬ人だ」 「そんなことはありません兄上」 「いや、わしのいうことに間違いはない。父上のおっしゃることに従ってはならん」  次の日はひどい土砂降りだった。夏と違って冬の雨は身にしみる。小吉はお信に送られて玄関を出た。まだ夜が明けて間がなかった。  振返って冷めたい敷板に三つ指をついてじッと送っているお信の姿を見ると、何にかしら痛々しく感じられて眼がしらが急に熱くなって来た。お信も同じような思いであったかも知れない。  が、雨の中に、何処までも/\つゞいたお竹蔵の塀を見ると 「御番入か」  そんな自嘲らしいものが、ふと唇をもれた。大久保の屋敷の者達には、早くも父や兄からうまく賄賂が廻っていると見え、小吉は七、八人もいる御機嫌伺いの先きを越して上の方へ坐らせられた。  しかし見下ろしもせず、すうーっとこっちの頭をかするようにして大久保が前を通って行く事は、先きの石川と同じこと。  それが玄関を出て少し行ったのを見定めると、みんな先きを争って外へ出た。依然としてひどい雨だった。門の外からこの人達は八方へ散った。  小吉が堀留の大溝家の廊下へ坐った時は雨の上に雷鳴まで加わっていた。大溝は駕へのり、黒たゝきの槍を立て、出て行ったが、小吉はどんな人物か顔も見られなかった。たゞ頭の上で咳払いをした時に、案外若い人のような気持がした。  こんな事が毎日々々、判で捺したように続いて行く。二月に入ってひどく寒い。男谷の方の庭に紅や白の梅がぼつ/\咲き出したが、お祖母様が、ゆうべは小吉の戻りが少し遅かったといってひどい不機嫌で、夜っぴてぶつ/\いいつゞけた。自分の居間へ下って 「おれも武士だ。団野先生のところへ参上するのは、御番入の日勤以上に大切なのだよ」  低い声でそういうのを、お信は畳へ手をついて 「すみませぬ。あのお祖母様故、旦那様にもいつも/\お辛い思いをおさせ申します。それもこれも、あたくしの至らぬこと。どうぞお許し下されませ」 「何のお前が悪いものか。お祖母様はどういうものかおれが大のお嫌いなのだ。な、お信、毎朝おれのお膳につくお醤油な。あれはおれの分だけには水が割ってあるのだ」 「えーっ?」 「お前の知らぬ間にお祖母様がお入れなさるのだ。が、おれは辛抱している。いつかはあのお気持がおゆるやかになられる事もあるだろうと」 「そ、そ、それは、あたくしは夢にも存じませぬことでござりました。まあ、お祖母様は、そのような事まで」 「いゝんだ、いゝんだ。おれ達はこれから本当の人間になるのだ。貧乏でも、御番入が出来なくても、どんなに辛くともお信、おれ達が本当の人間というものになったのを喜ぶ日を待とう」 「はい。はい。わ、わかりました」  江戸もいつの間にか夏になった。  亀沢町に古屋敷の新建《あらだて》のような手入れ普請がはじまって、こういう事の好きな平蔵がよくそっちへ出かけて行って一日を暮らす。  いつも夜になって、定って団野先生の道場へ寄って、こゝで小吉のやって来るのを待合せて、小吉の稽古が終ってから二人連立って油堀へ帰って来るのがこの頃はこの上無しの楽しみのようであった。  団野道場から一町ばかり離れた一ツ目通りに柳屋という小料理屋があって、食物もうまし、酒もいゝというのでその頃、界隈では評判であった。  それに若い綺麗な酌女が二人いてこれが愛嬌ものだったから、平蔵はこゝがひどく気に入って、普請場から道場へ寄る前に毎夜定ってこゝへ寄る。元来大酒だが、それが近頃はいっそ強くて、団野先生と逢っていても、酒をのんだ様子などはどうしても覗く事も出来なかった。 「先生のところで稽古に手がこみ、おれが戻りが遅くなるとお祖母様が、きつく叱言《こごと》をおっしゃる故、あゝしておやじが一緒に帰り、おれをかばって下さるのだ」  ある時、お信へこういった。お信はぽろ/\と泣いた。 「ほんに拝んでも拝んでも拝み切れない有難いお心にござります」  本当に本屋敷の方へ向いて手を合せた。 「たゞ、おれと逢う時刻をうまくするために、柳屋へお寄りなされるのでな。お年の割にお酒が多く、おからだにおさわりでもなければと、それのみが心配よ」 「はい。たゞお祖母様がもう少しわかっていたゞければこのような心配も無いのでござりますが」 「まあそういうな。おれにしてもお前にしてもたった一人のお祖母様。お逆い申しては罰が当る」 「はい」  お信は涙を拭った。  ゆうべ珍しく少し酔態を見せた平蔵の腕を抱いて竪川に沿って一ツ目橋の方へ歩いていたら、途中で虫売の荷を担いだ男を見た。松虫鈴虫が鳴き合って蛍がいっそう綺麗であった。 「本当に夏だな。小吉、あの蛍をみんな買ってやれ」 「いやあ、お止しなされ、持帰ってもすぐに死んで終いますから」  そういう小吉へ虫売が突然 「もし」  と声をかけて来た。   蛍  虫売は荷を下ろしてつか/\と小吉へ寄った。 「殿様がみんな買ってやるとおっしゃってお出でなさいます。あなた、小《こ》商人《あきんど》を苛めなさる事はないでござんしょう、どうかお買いなすって下せえまし」  小吉を若いと見て、からみ出したのが、すぐにぴーんと来た。 「いらないよ」 「だが殿様が買って下さるとおっしゃるに、あなた、それを邪魔なさる事はねえでござんしょう」 「いらない」  虫売は暫く暗い中で、一人で息張って小吉を睨んでいたが、平蔵はまた 「買ってやれ、買ってやれ——油堀の屋敷へ放してみんなで観よう」  そういった。 「いや、詰まりません。こんな室作《むろづく》りの蛍などすぐに死んで終います」 「風流気のない奴だな。稀《たま》に来ても一匹か二匹だ。こんな沢山、あちこちを、ふわ/\と飛び廻ったら綺麗であろう。ついでに鈴虫も松虫も買って庭へ放せ」 「詰まりません」  虫売が、ぐいッと顔を小吉の方へくっつけるように突出した。 「こうおっしゃるんです、買っておくんなせえな」 「いらぬ」  虫売は、じいーっと小吉を睨んで不貞腐れに 「ふーん」  といってから、少し間を置いて 「吝《けち》ン坊奴、止しゃあがれ」  と小さな声で吐きつけた。  途端に小吉の手は、その虫売の手首をむずとつかんで 「も一度いって見よ」 「へ」 「葛西《かさい》辺りの肥溜め臭せえ百姓が、武家に向って何事だ。それ程だから、うぬは、町場《まちば》の女子供にはどんな脅しをしてるか知れない」  そういって 「父上、少々——」  とそれ迄抱えていた平蔵をはなすと、その虫売屋をずる/\と暗い方へ引っ張って行った。 「これ止せ、そんな奴を」  平蔵がそういった時には、出しぬけにどぶーんと物凄い水音がして、虫売はもう竪川へ投込まれて終っていた。ちら/\両岸の家の灯が川へ映って四辺はしーんと静かだが、一旦水底へ沈んだ男が顔を浮かせて 「覚えていやがれ。おれを唯の虫売だと思ってやがるか」  と怒鳴ったのが大きく四辺へ響いた。 「馬鹿奴」  小吉はから/\笑って、元の場所へ戻ると、おや? 父の姿が見えない。 「父上、父上」  ほんの僅かな間に酔ったあの足で何処まで行く筈もない。小吉はあっちへ駈け、こっちへ戻り探したが見当らない。  ふと気がつくと本多寛司という旗本屋敷の塀外に、普請中と見えて沢山材木が積んである。その真っ暗な蔭の往来に、何にやら人らしいものがうつ伏せになっているようだ。  飛んで行った。正に平蔵だ。うつ伏せに手足をぐんと延ばしてまるで死んでいるようである。 「父上、父上——あッ、こ、こ、これは」  抱いて塀角の辻行灯の傍まで来てしげ/\顔を見たが眼を閉じて大きく胸を張って呼吸だけをしている。流石の小吉も狼狽した。中風でも発したようだ。小吉の実母がやっぱりこの病気で死んだ。その時の様子を幼な心におぼろに覚えている。 「父上、父上」  駄目とは思ったが二度目に呼んだ時である。 「いかゞなせえやした」  思いもかけず覗くようにして小さく声をかけた男があった。小吉は振仰いで 「急病。御面倒ながら、その辺りで駕を求めていたゞきたいが」  男はしげ/\見て 「何あんだ小吉さんじゃあねえか」 「え?」 「仕立屋の弁治ですよ」 「あゝ、そうか。頼む、駕を」  弁治が駈け出した鼻っ先きへ、さっき川へ投げ込まれた虫売屋がずぶぬれで逼い上って来たのとぶツかった。 「弁治の兄貴じゃあねえか」  巾着切の弁治がすかして見て 「五助か。何んてえ態《ざま》だ」 「そこで侍に投げ込まれよ」 「あすこに虫売の荷が投げ出してあるから、ひょッとしたら手前のじゃあねえかと思ったんだ。侍と云うからにゃあ——。馬鹿野郎、あれあ勝小吉というおれが兄貴分、団野道場の免許皆伝、てめえが得手の|からみ《ヽヽヽ》どころか、指一本させる対手じゃあねえや」 「あっ、いつも兄貴がおのが事のように自慢をする小吉さんか。こ奴あ、飛んだ大《おゝ》失敗《しくじり》だ」 「おとッさんが急病で往来でぶッ倒れた。駕を探すんだ、てめえも探せ」 「へえ、へえ」  やがて駕へのせられたが平蔵、その時まだ正気づかない。  きッ/\と駕のきしる音が夜の往来へさゝやくように響く。小吉は黙ってついて行く。少しうしろにはなれて、弁治と五助。 「てめえ荷物あいゝのか」 「大丈夫だ。五助と名札がはってある、誰が手をつけるもんか」 「はっ/\。名前があれあもうそれだけでみんな慄え上って終うからな。夏になれあ虫、春秋は|しんこ《ヽヽヽ》細工でおじさんとうまく女子供に人気をつけるが、一皮剥けあ強請《ゆすり》かたり逼出し嫌やがらせ。こないだも百本杭のお妾ンところで大そう仕事をしたてえじゃあねえか」 「あれ、あれをもう聞いたのか。あ奴あまことに飛んだ噂よ。まんまとはずれた大《おゝ》失敗《しくじり》。色男とにらんだ奴が実の兄貴で、ゆすりの最中に旦那が現われ、危なく」  とぴしゃッと首根ッこを叩いて 「こ奴が飛ぶところだった」 「全くだ、あのお妾は深川育ちの生ッ粋で、意気で鉄火でその上に素人にもねえ堅え女だよ」  といって弁治はすッと顎を前へ行く小吉へしゃくって 「実あまだ娘で長唄に通っていた頃にはあの人も知っているのさ。てめえ下手な事をすると、そのお妾の旦那より、小吉さんにひでえ目を見るぜ」 「いや、知らぬ先きならともかく、小吉さんと知ったからには、もう、おれも懲々《こりごり》だ。竪川位ならまだいゝが今度大川へでも投込まれたらおれあ泳ぎを知らねえからもうそれでお陀仏だあな」 「あのお妾を強請《ゆす》るとは、てめえはやっぱり柳島の田舎ッぺえだよ」 「何んといわれても口は開けねえが——御病人は大丈夫だろうか」 「そうあってくれれあいゝが」  が、幸せに途中で平蔵は微かに正気がついたようである。舌がひどくもつれているが、やっと小吉へ口をきいた。小吉はほっとした。  幸いに軽い中風であった。このまゝで三カ月も休んでいたら、元通りと迄は行かなくとも、先ず安心でございましょうと医者がいう。  たった一日間をおいただけで次の夜は、やっとこさだがもうだいぶ口をきけるようになった。  縁側の障子を開けさせて、端近く床を敷かせて、其処に臥ている平蔵がやっと聞きとれる程の声で 「小吉、彦四郎を呼ぶなといったが、明日は来るように使をやれ、思いついた事がある」  といった。  枕辺には、小吉とお信といつも何にかの世話を焼く小女が二人坐っていた。 「あれはいつも口うるさくいうので、おれはおのれが子ながら、嫌いだが、やっぱり番入の事はあれが一番壺を心得ているからな」 「は」 「おれはな、どうしてもお前の番入をする姿を見てから死にたい。小吉、おれが余命はもういくばくもないぞ」  といって、ふと 「おゝ、蛍があんなに沢山——ほうら見よ、あんなにふわ/\飛んでいる」  小吉もお信も眼を見張った。本当だ。真暗な空や、潮入池の面《おもて》をかすめて、高く或は低く小さな美しい光が瞬くように飛んでいる。 「おや、虫も鳴いているな」  と平蔵。とてもわかり難い言葉。 「鈴虫、あれは松虫」  とお信は縁側へ出て 「不思議でございますねえ」  と小吉をふり返った。小吉はにこりとした。 「父上が虫売の荷を皆買ってやれとおっしゃった。そしてそのまゝお倒れなされたが日頃御信心をなさるお蔭だ」  平蔵も笑みを浮べた。 「おれが癒えて今度投網に行ったら、魚がみんな寄って来てくれるだろう」  この時、広い庭の塀の外でこそ/\話しているのはいう迄もなく弁治と強請の五助。 「蛍はいゝが、虫は余り投げ込むなよ。御病人がやかましい」 「そうかなあ」 「あゝあ、喜んでいらっしゃるだろうな、おとっさんも——。小吉さんもよ」 「おれも滅法いゝ気持だ。すうーっとしてらあ」 「さ、けえろう」 「あいよ」  二人はそのまゝ夜の中へ消えて行った。  次の日、彦四郎が来た。 「父上は万に一つの命をお拾いなされたようなものだ。こら小吉、中風は二度目が危ないのだぞ。わしは始終お側にはいられぬ。お前、呉々も気をつけよ」  小吉は丁寧に頭を下げた。 「いやあ、この病気はいつも不意に来る。お前達がどう気をつけても来る時は来るものだ。な、彦四郎、お前が、どうしても小吉を御番入させようとなら、もっとしつこく働く事だ。小吉も今はその気になっておるでな」  平蔵がこういう間に、彦四郎は 「は? は?」  と何度も/\きき返した。 「承知いたしました」 「実はわしはどうでもいゝが、勝のお祖母様も近頃はとんと弱られた。あの方が御元気の間に勝家を潰しに来たというその小吉の御番入の姿を見せなくては、お祖母様も気の毒なり、お信も可哀そうだからな」  平蔵は時々息を切らしながらいった。 「心得ました。それにしても父上、金子を三百両程拝借いたしたいが」 「いゝとも。わしが死ねば男谷の財は悉くお前のものだ」 「わたしが使うのではありません。仰せの通り小吉の御番入にもう一つ押して行くのです。代官手付の見込がほゞ立って居りますから」 「そうか。しかし代官手付では任地に在る仕事も多く、わしの死目には逢えんかも知れんなあ」 「はあ」  彦四郎は、そんな勝手な事をいっては困ると、唇まで出るのを堪《こら》えて 「成るべくは江戸役所詰にしていたゞくつもり」  といった。  小吉は近頃は、人間というは不思議なものだと沁々思う。表《うわ》べはがみ/\とやかましくいうはともかく本心は、御番入などは本人が望まぬならどうでもいゝだろうというように自分には感じられていた父が、一度病気で倒れてからは、廻らぬ口でそれを繰返し/\、くどくいって本気で一生懸命それを望むようになった事があり/\とわかるからである。それは寧ろ彦四郎より強いというべきかも知れない。  そうした気持、あの時倒れたのも、自分のために、あゝして毎夜酒をのまれた為めだと思うと、小吉の気持は堪らない。  近頃はよく雨が降る。降りみ降らずみの糠雨だが、薄昏い中に屋敷を出るが、流石に小吉も何にかしら少々あせり気味になって来ている。団野先生の道場へ寄って夜自分の家へ戻ると、お祖母様はまるでその言葉より外には知らない人ででもあるように 「逢対はまだかや」  と皺枯れた声できく。小吉はなれて、何んともなくなったが、お信が痛々しく肩をすぼめる方が却って気になった。  暑い盛りになるが七月早々には、亀沢町が出来るので、男谷家はそっちへ引越すが、その前に何んとか御番入の目鼻をつけたいと、彦四郎は思っているようだ。  小吉が大溝家からの帰り道。永代の橋際でぱったりと弁治に出逢った。じり/\と焼きつける暑い日で、弁治は豆絞りの手拭を水にしめして頭へのせ、藍微塵の単衣に突っかけ草履。 「あれッきりお目にかゝりやせんですが、お父上様の御病気はいかゞですか」  と丁寧に口をきいた。 「お軽いには軽いが——弁治、あの砌《みぎり》は有難う。父上が大層よろこばれてな。あの虫売屋にも礼をいう事が出来ずにいるが、お前から宜しく云っておいてくれ。必ず恩は返すつもりだ」 「あ奴は柳島の五助という強請屋でしてね。でも根はいゝ奴でさあ。だから失敗《どじ》ばかり踏んで近頃ではまるで乞食見たようになっている」 「そうか。それあ気の毒だ——といって、おれもあいにく金は無し」 「何あに、|しけ《ヽヽ》てはいやすが何んとかかんとか活計《くらし》をたてている。そこらがこちとら貧乏人の仕合せなところですよ」  途端に、小吉がひどく狼狽の色を見せた。毎朝御機嫌伺いに行っている組頭の大久保上野介が家来と仲間をつれて橋をこっちへ渡って来られるのだ。確かにこっちを見て終った。弁治の風態が風態。仲間などは予てこ奴が巾着切と知っているかも知れない。   みろく寺  三日程経って夕刻に、彦四郎がやって来て玄関先で顔を見るとすぐ 「利平治、すぐ小吉を呼んで来い」  と老用人へ怒鳴りつけるように命じた。平蔵が中風になってからは、屋敷のものがどんな事でもこそ/\話合うようにしていたので、この刺立《とげだ》った彦四郎の大きな声には、みんな動悸ッとして終った。  利平治は少しあわてて 「小吉様はまだ団野先生からお帰りではございませぬ」  といった。  そして不機嫌に首をふる彦四郎へ重ねて 「近頃はいっそ剣術御執心でございますから」  といって 「おとといも|内々《うち/\》乍ら道場二百余の紅白の試合《てあわせ》に小吉様が総|行司《しんぱん》をなされ、それがまた殊の外の御見事といやもう門人衆の大そうな評判でござりました」  と内心にや/\しているようであった。 「馬鹿奴」  彦四郎は吐きつけるように呟いて 「剣術など、どれ程出来たとて何んの足しになる」  そういって、そのまゝ奥へ入りかけたが、ふと引返して来て 「利平治、小吉にはな」  と流石に少し声を落した。 「巾着切など致す知人があるか」 「え?」  利平治は、すぐ烈しく手をふって 「と、と、飛んでもござりませぬ。そのような者など——」 「いや、お前は駄目だ、小吉の事といえば何んでも庇う奴だ。いゝから小吉が戻ったらすぐに、父上の御居間へよこせ」 「はい」 「お信はいるな」 「はい、御新さんは、それあもういつも」 「あれを呼びつけて」  とこれは口の中でぶつ/\いったが、そのまゝ足音荒く奥へ入って行った。  利平治はそっと廊下を隣り座敷の隅のところ迄抜き足に寄って聴耳を立てた。彦四郎は平蔵の枕元へ坐って、喰ってかゝるような口調である。 「父上が目の中へ入れても痛くない程に余りにも甘やかしてお育てなされたから斯ういう事になるのです。御番入をしてこれから天晴れ一かどの御役にも立とうというものが、往来で、しかも白昼、巾着切などという悪者と立話をしている。そんな無法がございますか」 「お前は何にかにつけて一途にそう云うがな」  平蔵はもつれる舌をもどかしそうに、ごくりと唾をのんだ。 「あれは深川《ところ》の気質が身に染みて、子供の頃から、誰彼なしに喧嘩もやり、そうかと思うとまた一つの物を半分ずつ食べるように仲よくもして来た人間だ。対手が武士であろうと町人であろうと、金持ちであろうと貧乏人であろうと、また善人であろうと悪徒であろうと、人に対して差別をつけない。あの時分の隣町《となりまち》の者、前町《まえまち》のものの喧嘩対手の中には今日となっては巾着切も出来たろう。また悪徒もいるだろう。が小吉はそれを巾着切と知っていての事か、知らずに、ただ幼な友達というだけで立話をしていたのか、きいて見なくてはわからんが、あれの事だ、知っていても恐らく平気で話をしてただろう」 「驚き入った。父上はそれで宜しいとお思いなのですか」 「いゝとか悪いとか云うのではないよ、あれの気質だと云っているのだよ。彦四郎、あれは変っている、それに年も若い、余りうるさく云わぬがいゝのではあるまいかの。人はその顔が違うように各々違ったものを持って生れて来ている。誰も彼も同じ枠へはめる事はむずかしい」 「よろしいッ。父上がそういうお考えなら、わたしは小吉の将来がどうなろうと、もう存じません。御番入の奔走もやめました」 「はっはっはっ。その一徹がまたお前の持っている外のものにない気質だ。小吉の気質と御番入の事とは自ら話が違うではないか。わしの頼みだ、お前はもう立派な儒者でもあり、御代官でもある、将来を立派にやって行ける人物だ。だからな、今、わしの持っている財は悉く小吉の御番入に遣《つか》い捨てていゝのだ。金品に糸目なく奔走をして貰いたいのさ」  彦四郎は平蔵の眼がうるんで今にも涙のこぼれそうなのに気がついた。 「しかし父上、申した通り小吉が両国界隈に誰知らぬ者もない巾着切と話していたのを大久保殿の供の者が見知っていて主人へ告げた。大久保殿から呼寄せられてそれを申渡された。小吉というは全く困ったもの。御番入の奔走もまたこゝで振出しへ戻りましたわ」 「仕方がない、お前にはすまぬがもう一度、賽をふり出して貰うことだ」  こんなところへひょっこり小吉が戻ってでも来たら、またどんな風に話がもつれるかも知れない。利平治はそっと屋敷を出ると、小吉の団野先生から戻って来る途中で待っている事にした。何処の通りを通って、何処の辻行灯のところからどっちへ曲って来るということ迄かねてちゃんと知っている。  さっき迄一雨来そうな空模様でもあったが、だん/\星の色が青々と涼しく光って来ているから先ず雨は大丈夫だろう。  だが小吉も、詰らぬところを悪い対手に見つかったものである。その尻をわざ/\彦四郎のところへ持って行くなんて、大久保上野介という人物も知れたものだが、それもこれもこの世の人と人との巡り合せで仕方がない。  利平治ははじめは丸太橋まで行って、暫く待っていたが、だん/\仙台堀まで足を延ばし、ここで小半刻も待ったが、やっぱり小吉の姿が見えない。とう/\小名木川の高橋を渡って森下の通りを、二ツ目通りから弥勒《みろく》寺橋まで来た途端に、こっちへ向って駈けて来るのは確かに小吉。  橋の袂へよけて、一旦、やり過してから、小吉に違いなかったら、言葉をかけようと思っていたら、その姿は橋へかゝるところで、ぴたっと停るとそこへ俄かにしゃがんで終った。  真っ暗だが、どうも小吉だ。利平治も橋の欄干に沿って逼うような恰好でだん/\それに近寄って 「何にをしてるんだろう」  胸さわぎがして来た。巾着切との立話がうるさくなっている時に、この振舞はこれあ唯事ではない。そろ/\そろ/\すり足で近づいて行った。 「利平治」  と真逆気がついてはいまいと思ったのに出し抜けに低いが奥強い小吉の声がかゝった。 「え?」 「おれのする通りをしてろ。今、面白いものが見れる」 「こ、こ、小吉様」 「じッとしてろ。今、弥勒寺の門内へ人が入る。そしたら後をついて行くんだ」 「は?」 「滅多には見れねえものが見れる」  それっきり黙った。が、如何にも忽ちどや/\と大勢人の走る足音がして、弥勒寺の門内へ潜戸《くゞりど》を押破るように入って行った。一人二人——七人数えて、ぎいーぱたんと扉がぶッつけるように閉められた。 「利平治、お前、飛ばッちりを喰っちゃあ大変だが、見るか」 「は、な、な、何んですか一体?」 「斬合だ」  弥勒寺は真言新義派の触頭《ふれがしら》、寺領百石、深々とした濃い森で、空も地も真っ暗である。 「何者でございますか」  利平治は小吉の側へ寄って来てぴったり顔をくッつけるようにしてきいた。年はとっても流石に武家の奉公人。慄えてはいなかった。 「来るなら黙って来い。おれがように剣術をやるものは是非見て置かなくてはならぬ勝負だ」  小吉は近づいて、そッと潜門《くゞり》を押した。さっきよりも小さな音がぎいーっとして扉は思ったより軽く開いた。利平治もついて入った。  本堂の前広場。その辺りの暗さも馴れるにつれて、そこにいる七人の侍の姿が意外にはっきり見えて来た。  白い絣に袴、刀の下緒で襷をしている侍は見るからに筋肉の盛上った大たぶさの上背のある若若しい侍。一人は同じ年頃らしいがこれは痩せてどうやら月代の延びているのがわかる。その周囲に五人、すでに刀をぬいて肥った侍に向っていた。  小吉と利平治は夜になると人のいない門内の香華《こうげ》売の小屋へうまくひそんだ。利平治は息をころして、敵を受けている白い着物の侍を見詰めていたが 「こ、こ、小吉様、あ、あ、あのお方は団野先生がところへお見えなさる酒井良佑先生ではござりませぬか」 「そうだ。対手は割下水の近藤弥之助先生がところの食客渡辺兵庫、他は近藤道場の門弟共だ」 「ど、どうしてまたこんな事に」 「酒井先生が、売られた喧嘩を買った迄の事だ。勝負はすぐにつく——声を出すな」 「はい」  酒井も渡辺も同じような下段の構えであった。すうーっと青白い刃が闇の中に見えてそれがまるで描いたようにいつ迄も/\動かない。この二人ばかりではない、門人達も一体呼吸をしているのかいないのか。唯じッとしているだけである。或はこのまゝ石像になって終うか、地の底へでもめり込んで終うか。  利平治は背筋に脂汗がにじんで出て、がく/\がく/\慄え出して来た。 「こ、こ、小吉様」 「しッ。恐ろしかったら土へ伏せろ」  囁いた途端に、何にかじゃりッと不気味な音がして、同時に、よくもまあこんな大きな音がするものだと思う位の地響きをして、どーんと何にか倒れたようだった。 「あッ」 「あッ」 「あッ」  同じような別人の悲鳴が三度。  白い姿が、すうーっとさっき入って来た潜門の方へ歩いて行く。ぶらりと刃を下げ、ふところ紙をつかみ出し乍ら——。  利平治はかち/\かち/\歯を鳴らした。 「ど、ど、どう致しましょう、小吉様」  残った六人の人影は一度ごちゃ/\に固まったが、小吉はふるえる利平治を抱くようにしてじっとしているだけであった。  渡辺は正に斬られたが、何処をどう斬られたのかこの時はわからない。唯重い沈黙。人達は間もなくもつれ合って寺を出て行った。 「どうなりましたでござりましょう」 「抱合い、助け合って、足許もしどろだがあゝしてみんな立って戻った。命に別条はないだろう。渡辺は腕をやられたようだ。ひょっとしたら手首を打落されたか」 「手首?」 「売った喧嘩だ。それ位ですめば安いものだ。おれはな、あの男を前に一度見た。もっと使えるかと思ってたが案外だった。心が素直でない、団野先生がいつもおれ達へ教えられるところだ。ずいぶん剣術には目が利いているんだが自分だけの物の見方、考え方、それだけの事だったようだ。理に走って実に疎い。おれにも、今、その事がわかった。利平治、人間はあれでは駄目だ」  小吉は利平治へいっているようだが、本当は自分自身へいっている。  それからわざと時刻をとって、ずいぶん遅くなってから油堀へ帰って行った。案の定彦四郎はもう麻布の屋敷へかえっていなかった。  小吉は父から巾着切弁治のことを訊かれたが 「わたしが巾着切をやっているのではないのですよ。御心配は御無用です。父上もあの松坂町の仕立屋の小せがれの弁治は御存じでしょう」  と笑った。 「はっ/\。あ奴利かぬ気でな、知ってるとも——そうだな、お前が巾着切をやっている訳ではないんだ」  平蔵はそういって、から/\と笑った。見ていると、唇からたら/\と余唾《よだれ》が着物の胸へ落ちた。  利平治にもしっかりと口留めして、弥勒寺一件は知らぬ顔で、次の朝からまた堀留とお竹蔵裏へ日勤をしていたが、五、六日した夜、団野先生の道場で、見て来たような噂ばなしに花が咲いてるところへ小吉がやって行った。 「勝様、渡辺兵庫という男が酒井先生に左腕を斬落されたという事を御承知ですか」  と肥った年配の門人がそういった。剣術はいっこう下手だがいつも早耳でそれをまことしやかに話すので愛嬌があった。 「知らないよ」 「竪川の二ツ目橋の上だそうですがな」 「そうか。何んで斬られたのだ」 「渡辺という奴、門人十人程を連れましてな、酒井先生と何処か本所の往来ですれ違った。その時にふゝンと鼻で笑いましてな」 「ふーむ」 「あ奴、秋山要介先生に勝ったつもりで鼻高々に大手をふって歩いていやがる、大笑いだとまた酒井先生にも聞こえよがしに門人達に声高にしゃべった」   おんな  小吉はおかしかったがとぼけ顔でうなずいている。 「このように真っ正面から喧嘩を売られたのでは酒井先生も黙ってはいられませんわ、お年もお若いし往来で剣術の大議論になったという。大体渡辺兵庫というのはですね、何にかしら人には云えない深い訳があった様子でふだんから自棄になっている男だそうでしてね。近藤先生の道場にいても、ばくち場へ出入をしたり、柄のないところへ柄をすえて喧嘩を吹っかけたり、そんな事ばかりやっているという噂。酒井先生もそれを知っていられたから、一つ懲らしめてやるおつもりか、議論は尽きないから真剣の勝負で決しようという事になりましてな」 「ほう」  外の門人が首を突出すようにしている。 「そうなんだ」  話の中には嘘もある真実もある。がその結末は小吉はその目でじかに見ている。今、おしゃべり男の語るところをきき乍ら、団子坂の太田屋敷のあの時の兵庫の言葉——今日の彼は昨日の彼に非ずと秋山要介を評した——妙にこう底冷えのしたいい廻しと、あの弥勒寺で、さッと酒井の一刀を浴びて、物凄い地響きで打倒れたあの時の兵庫の不思議な崩れ方を思い出していた。 「それからどうしました」  と小吉。 「勿論、酒井先生の勝。兵庫は固より連れの門人共も斬られて逃げたそうで」 「いや、その事ではない。斬られてから渡辺兵庫はどうしているかという事だよ」 「え? そ、それはまだ聞いてませんな」 「復讐でもやりますか、それとも江戸を逃げ出すか」 「そうですね、どちらでしょうか。何しろ腕はあの通り、殊には榊原式部大輔様御家中として越後高田十五万石の後楯がある酒井先生を、この上敵に廻しても歩がないでしょうからねえ」 「あの達人に斬られたのでは恐らくもう腕が肩についてはいないでしょう。気の毒ですね」 「いや、どうも悪い人間のようですから、町でも誰も同情しておりませんよ」  小吉は団野先生に一応その夜の弥勒寺についてはすでに話をしておいた。その時先生はにやにや笑って 「酒井もまだ若いからね」  といってから 「小石川の竜慶橋に道場を開くといっていたが、この事が、薬になったか毒だったか——恐らくは」  といっただけで黙って終った。  麻の単衣に相変らず樺色染の麻の上下姿で坐っている御支配への日勤は、時にはみんなじっとしていて汗を出したりするが、小吉は割に平気だった。勝殿はふだん稽古をみっちりなさって、からだが出来ていられる為めだろうなどといった。  御番入の色がだん/\濃くなって、一緒に行っている人達が頻りにその噂をするが、この頃はいゝお天気つゞきで夜は月が出るので、道場で稽古をして一汗かいたからだに井戸水を浴びてから、自分の黒い影を踏むようにしてぶらり/\と歩いて油堀へ戻って来る。その戻り道の心地よさの方がそんな事より幾層倍でもあった。  街の人達は家の前へ縁台を出して蚊遣《かやり》をして、団扇をばた/\動かして世間話をしている。愚にもつかぬ事が多いが、時にはそこへ腰をかけてきいて行きたいような話をしている人もいる。しかし平蔵が中風にかゝってからは、一人で余り遅く帰っては、またお祖母様がいつ迄もいつ迄もぶつ/\ぶつ/\叱言をいうのが、自分はいゝとしてもお信がどうにも可哀そうなので、小吉はそんな事もしていられない。  寺町の角地へ毎夜のように大勢集って影絵灯籠を廻して怪談ばなしをきかせている近所の金持の隠居が 「お武家様、稀《たま》にはあたしの咄《はなし》もきいてお出でなすって下さいましよ」  と声をかけてくれたのを 「少々急ぐことがあってね」  と急ぎ足になった時は、小吉はいつになく、ふと自分が妙に哀れな人間であるような気持になったりした。  今日は早朝、江戸中が淡い靄に包まれたが、|午の刻《おひる》を廻って、何んだか急に暑くなった。  油堀では利平治が、半刻程前用達しに出て、今、門前へ戻ったところ、石段をとん/\と三つ昇って、歌舞伎門になっているが、主人の平蔵がすでに隠居の身でもあり、かた/″\病気で客を迎える気持もないから、ぴったりと扉はしめ、右手の潜りから出入りをしている。番小屋の格子内の薩摩|葦《よし》のすだれがこの家の富裕を語っているようだが、もう間もなく本所へ移るので、余り手入もしないものだから、そちこちに青い雑草が延び、中には小さな花をつけたりしているものも目につく。  きりゝと肉締りのいゝ若い女がいま潜りの扉を押そうとしていた。これがうしろから来た人に気がついて振返ってにこりとした。 「失礼ながら当御屋敷のお方でございましょうか」  姿形《みなり》はどう見ても町家の娘だが、切れ長な大きい眼が少し吊っている。利平治は、上から見下げて 「然様《さよう》」  といった。  女はにっこりして、もみ手のような恰好をしながら 「これは仕合せでござりました。御当家の勝小吉様にお目にかゝりに参りました」 「どちらから」 「はい、勝様はお覚えの筈。いつぞや永代の橋でお目にかゝりました神田黒門町の紙屋村田長吉のゆかりの者でござります」 「そうですか。御足労じゃったが、小吉様は剣術の道場へ参って夜にならねばお帰りではないが」 「あゝ」 「またお出でなさる事が都合悪ければ、わしが御用向を承って置こう。わしは当家の用人じゃ」 「御用人様?」 「然様」 「改めて参じます。どうぞお伝え置き下さいまし」  女はそのまゝ引返した。  こゝ何箇月にもなく珍しく月の出かけに小吉が屋敷へ戻って来た。利平治が 「黒門町の長吉のゆかりの者だという若い女子《おなご》が訪ねて来ましたよ」 「長吉というはいつもお前に話す伊勢路で乞食をした時の相棒だ。そのゆかり? はて誰であろうな」 「眦《まなじり》の少し吊った如何にも利かぬ気の——町家の女のようでございました」 「さあ」  離れへ帰った。玄関といっても深い廂が突出しになっていて、大きな沓ぬぎ石があって、茶室へでも入るような拵えである。  お信が出迎えていた。 「今日は先生が少々御不快でね。竹刀の音がお寝間へ響いてもと思って稽古は休みになった。先生も近頃は滅切りお年を召されたのでねえ」  そんな高声を、奥でお祖母様がきいたのだろう。 「年を召されたは団野先生ばかりではないわ。先生の事は気になるが、自分が親が事は何んとも思わぬか」  皺枯れた声でそんなことをいった。小吉とお信はちらっと顔を見合せた。お信はそっと小吉へ手を合せて、なだめるような悲しそうな目つきをした。小吉は笑って 「何んでもない」  と耳元へ口を寄せるように小さくいった。  それから間もなく若い女の声が玄関でした。後にも先きにもこの家にはかつて無い事、お信は不思議そうな顔つきで立って行った。  昼間利平治が門前で逢った女。お信を見ると如何にもぎょっとした面持で、見る/\色が変ったが、やゝ暫く無言で突立っている中に、やっとおのれに返ったようである。  自分は長吉のゆかりの者で名をお糸と申しますとはっきりいって一礼してから 「失礼でござりますが、お前様は?」  ときいた。言葉尻のぴん/\と上る切口上のような響きだ。 「勝の家内にござります」 「あ、あの御新さん?」  と上半身を少し前|倒《のめ》らせて、勝様にはもう御新さんがあった——と口の中でつぶやいて、少しじっと目を伏せてから 「勝様にお逢わせいたゞけましょうか」 「都合よく在宅にござります。伺って参りましょう」  二人の応答はみんな小吉へ聞こえている。  つか/\とそこへ出て来た。 「やあこれは——あの節、永代でお目にかゝった方ですな。長吉どのはどうなされた」  小吉の言葉へお糸は眼をぱち/\して、こくりと喉が鳴ったようであった。 「長吉との祝言はあたくしより破談にいたしました」 「ほう、それはまたどうしたのだ」 「訳がござります。あなた様にお願い申したい事があって、一生懸命で参ったのでございますが、もうそれは諦めました」 「ふーむ」 「あたくしは遠く離れて、唯一人で火を燃やしつゞけ、そしてその火はたった今、御新さんのお顔を見て、それで忽ち果敢《はか》のう消えて終いました。御免を蒙りますでござります」  というと、ぱっとからだを転じて、まるで転がるようにして門の方へ行って終った。 「何あんだあの女、気違いじゃないか」  と小吉は 「あれはとっくに紙屋の長吉のおかみさんになっていたろうと思ったに——気違いだったのか」 「真逆」  とお信は 「でも何にやら謎めいた事ばかりおっしゃいました。大そう怖い、思い詰めたお顔」  といってから、はッと何にか気がついた。 「ほゝほゝ」  と俄かに口を押さえて笑って 「本当に気がお違いなされたのかも知れませぬ」 「はっ/\。人の気が違ったに笑う奴があるか」 「でも、少し、ほんの少しばかり、おかしゅうござりますから」  その次の夜。道場の戻りに黒江町の富岡橋のところで、しゃがんでふう/\飴湯を飲んでいた巾着切の弁治のうしろ姿を小吉が見つけた。 「松坂町の弁治とも云われる兄イが飴湯を飲んでるようでは、ふところは淋しいな」  雪駄の足の先きでちょいと尻をついて、びっくりして立上る弁治へ 「それが当り前だ、お前《めえ》らのふところがふくらんでいるようでは、江戸の者あ安心して往来が出来ないからな」 「じょ、じょ、冗談でしょう」  と弁治はあわてて手をふって 「いゝところでお目にかゝりました。実はね」  といって気がついて、鐚銭《びたせん》を幾つか出して、飴湯屋へ渡してから 「お供をしながら——」 「何んだ」  二人は丸太橋から千鳥橋へ抜ける川ッぷちに沿って歩いていた。月が明るく川へ映っている。 「実はいつぞやの虫売柳島の五助ね。あの馬鹿野郎、止せ止せっと噛んで含めるように云ってあるのに、五助とも云われる逼出しが、一文にもしなかったと云われちゃあ恥だとか何んとか、間抜けな事を申しましてね、例の百本杭の師匠へしつこく強請をかけたもんですよ。しつこくやったはいゝのだが、どうですよ、その夜はいめえと見当をつけていた旦那が、ぬうーと奥から出て来ましてね。すぐにふんじばられて終ったんですよ」 「そ奴は面白い」 「裏の物置へ投り込まれ、外から釘づけにされて、あの辺のならず者を三人ずつ、昼も夜も張番をさせてある。三度の飯だけは貰ってるが、旦那の方も少々依怙地になっている、こういう奴らの見せしめだと申しましてね」 「その通りだ。はっはっ」 「笑っていちゃあ困りますね。あ奴あまあいゝとして、柳島に莚《むしろ》張りの乞食小屋見てえなあ奴の家では、おかみさんが、今日明日にお産だ。こ奴に困って終っているんですよ」 「こら弁治、おれはな、爪の間に入るようなたった四十俵の微禄だが、これでも徳川《とくせん》の御家人だよ。何んと相談かけられても強請かたりのお仲間にはなれないのだ。それにしてもお前も飛んだ腰抜けだなあ」 「あっしを腰抜けとおっしゃいやすがね、何にしろその旦那というのが津軽の御留守居、兄貴は中組九番の纏持《とうばんもち》。二人ともよく出来た人達だと噂にきいてるそれだけに、どうにも手が出ない」 「五助の方はほったらかして、おかみさんの世話をするのだ。幼馴染の緑町の縫箔屋の長太にも相談しろ」  といってから小吉は四辺を見廻して、そっと小さな声。 「思案に余ったらまたおれに知らせろ。毎晩きっと富岡橋は通るのだから」   夏の月  真っすぐに人影が見えて急ぎ足でこっちへ来る。小吉は別に気にもしなかったが、鼻っ先きで、それが用人の利平治であった。 「お、小吉様」 「何処へ行く」 「あなた様をお迎えに参るところでございますよ、麻布の旦那様がお見えになりまして」 「またお叱言だろう」 「違います、それなら、わたくしが急いでお迎えになど参りませんよ。吉報でございます」  利平治はそういゝながら、小吉の横にいる弁治をじろり/\と見つゞける。弁治は何んとなく悪いような気がして 「じゃあまた」  とお辞儀をするとふッ飛んで行って終った。  その黒い影が遠のくと利平治はひとり言のような調子で 「いけませんねえ、またこんな事を遊ばしては。いくら幼馴染でもあんな奴らとお付合をなすっては、御出世のお障りに相成ります」  といった。小吉は黙って笑った。少し歩いて、利平治は 「いよ/\御入《おいり》が定まりましたそうでございます」 「そうか」 「麻布の旦那様がお見え遊ばしてのお話に、御支配大溝主水正様、御頭大久保上野介様よりの御推挙で、甲州|石和《いさわ》の御代官増田安兵衛様の御手付ということに定った。すぐにあなた様をお迎えして参れという——」 「ふーむ」  小吉は味も素ッ気もない顔つきで 「代官手付かあ」  と上眼《うわめ》で月を見ながらいった。 「御出世のはじまりでございます。本来五万石御支配の御代官手付は二十俵より三十俵のお家柄のお方でございますが、あなた様は四十俵。それを斯様《かよう》に致しましたは、一、二年の間に手を廻して御代官に御立身の御予定の由にございました」 「そうかねえ」 「こういう際に巾着切などとお連れ立ちはいけないと思います。この前のようないざこざはあなた様のお気性として御面倒でございましょう」 「兄などに解らず屋を云われるも面倒だが、御番入などはいっそ面倒だな」 「此際は御父上様のたってのお意向もあり、そう申されてはなりませぬ。御父上様への御孝養でございますよ。斯様な不吉を申してはなりませぬが、孝行のしたい時分に親はなしとよく世の諺に申します。お味わいなさるべきと存じます」 「わかった/\。で兄上はおれを呼んでどうしようというのだな」  小吉の若い頬へ月の光が真昼のように明るく射した。利平治は 「明夜、改まって大溝様、大久保様をはじめ、丁度、御代官増田様が御出府を幸い、即急《さつきゆう》乍らお見知り置きの御宴席を設けますとやら」 「明夜?」 「はい。石和代官所の御手代付及び御手代方も二、三、御同席の由でございます」 「また首ねが痛む程にお辞儀か」 「何事も御辛抱にござります。御代官になればもうこちらのものでござりますよ」 「はっ/\、そうかねえ」  小吉はそういって、それからいつ迄も無言で緑橋から左へ折れた。後も川。横も川。突然 「な、利平治。おれの御番入で父上はどれ程のお金をお使いなされたろうな」 「はい?」  利平治はびっくりしてあわたゞしく四辺を見廻して 「然様《さよう》な大きなお声を遊ばすな——先ずはじめに千両、これからあなた様のお支度やら甲州へのお引移《ひつこし》。それにいろ/\の御披露などでどのように安く見積ってもこれらに六百両はかかりますからなあ。兄上様の時にも、凡そそれ位が入用で、兄上様は、これが並の家で借金でもしてやるなら返済に三十年はかゝると仰せでございましたから」 「そうだなあ。だから代官をはじめ手付手代、その穴埋めに悪い事ばかりして金を儲ける。その気風が小者に迄も及ぶから、みんな賄賂ばかりとるのだ。おれがな、上田の音吉という悪党を手捕《てどらま》えにした時も、そ奴め、おれに革財布を投げつけて、どうぞお見逃し下されませといった。ああいう事で代官所の者は悪党でも何んでもみんな金銭ずくで見のがしている。だから、御料内には、ばくち打ち、盗人《ぬすつと》などがうよ/\大手をふって歩いている。困るのは百姓町人ばかりだ」 「でもあなた様はお家格で一カ年五十両五人扶持のお役料がつきますのでございますからおよろしいが、二十俵位の家柄の者などは年七両二人扶持でございますから、御番入の入費の埋合せをつけますには、並々の事ではござりませんでしょう」 「おれも、そういう人間達の仲間入りか」 「いや、小吉様、それはあなた様のお心次第、何にもお気弱く泥水にお溺れなさる事はござりませぬ。御父上様は江戸に知れた分限者《おかねもち》でございます。あなた様は、お金の御苦労などはさら/\なされず、日本中の代官所に一人位、骨っぽいお方がいられてもおよろしいではござりませぬか。え。それに、御新さんとお二人きりで、お祖母様のお側をおはなれなさる、真逆あのようなお祖母様でも、夏は暑く冬は雪に埋もれると聞こえた甲州石和までついて行くとは申されぬでござりましょう」  小吉は曇った空から、俄かにぱっと明々としたまぶしい陽がさして来たような気持になった。 「その上、御兄上様がまた御奔走でやがて御代官におなりなされれば、あの石和の陣屋の経費は——えゝッと、あすこは確か年七百五十両、外に七十人扶持でござりましたかな。御手付御手代方十四、五の御所帯でござりますから、これをそのまゝお費いなされば、お宜しいのでございますが、これ迄は、あすこ許りでなく何処の代官所も大公儀より賜わる御経費を御代官が思うまゝに切り詰め、切り詰めて、半《なかば》の上もみな/\私される習慣《ならわし》でござりますから、唯苦しむのは下役の方々ばかり、自然、困るから料内の百姓町人を苛め、賄賂によってその埋合せをやる、黒いものを白いともするのでございます」 「そうだ、陣屋の経費が代官の請負になっているからいけないのだ。うまい事をやるは代官ばかり、兄上などもその方のようだ。あれは経費を手一ぱいに使わなくてはならぬな。手付手代ばかりが困る」 「だからで御座いますよ、小吉様。あなた様が早く御代官になられますには、先ず、一刻も早く御手付に入られて御辛抱をなされませ。それがやがて御料内の方々のお為めになるのでござりますよ」 「だが、おれは、余り他人にぺこ/\する事の出来ない性質でなあ」 「そこが御辛抱。御新さんのお為め、またたゞ/\あなた様の御番入を祈って、大金をもお使い遊ばしていられる御父上様の御為めでございます」 「おれが石和へ行くようになったらお前も一緒に来るか」  利平治は暫く目をぱち/\して 「さあ」  と言葉をのみ 「参りたいのは山々でござりますが、御父上様が——」 「ほい。そうだった。お前は御父上の御側にいて貰わなくてはならぬ人だった」  小吉が座敷へ入って顔を見た時は、彦四郎は額に一ぱい汗をかいて、何にか、ひどくせか/\した顔つきであった。 「明晩、土橋の平清で招宴を催す。お前一代の場合だぞ。これに些かの粗略があっても唯事では済まぬ。お前ばかりではない、わしも大変な事になる。腹をかけてやれ」 「は? 腹をかけて——切腹でございますか」 「そうだ」  小吉はまじ/\と彦四郎を見てにやりとした。信濃で強請《ゆすり》の桜井甚左衛門をやる時も兄はこういった。ひょっとするとこれは自分達の使うのと兄は別な意味に使っている口癖かも知れない、そう思った。 「はい」 「麻上下だぞ」 「心得ました」  平蔵は脇息にもたれ、喜びに堪らないのだろう、ぽろ/\と涙をこぼしていた。  小吉は後でそっと利平治に囁いたものである。 「腹をかけるのだそうだ。ふっ/\、多寡が代官所の手付になるのに腹などをかけては算盤が立たぬなあ」 「しッ、そんな事をおっしゃってはなりませぬ。腹をかけて、腹をかけて何んでもかでも人前は大声でそう申さなくてはなりませぬ」  利平治は首を縮めた。一緒に舌も出したかったようだ。  富ヶ岡八幡の森が青々として、今日は朝から割合に涼しい風がそよぎつゞいた。潮の匂いがしたり、木場の新しい材木の匂いが流れて来たり、遠く洲崎の土手辺りから青草のいきれがそれに交ったり——。  小吉は麻上下、白緒の草履。お信が月代を当ってくれて、それがいっそ小吉を若々しく見せた。平蔵も喜んで 「しっかりやれ」  といって、また例によってほろりと涙をこぼしたが、それよりもいっそううれしそうだったのは、日頃はいつも眉の間を寄せて、苦虫をかみ潰したような顔ばかりしている養祖母様《おばゞさま》で、小吉が勝家の養子になって、後にも先にもこれがたった一度、お信の先きに立って玄関まで送って出た。  こゝでお信が刀を渡した。信州で音吉からとった無反《むぞり》の池田国重。これを腰へ落しながら小吉はお信を見てにこッとして行った。  深川一の料亭平清——。刻限から半刻も前。 「小吉、何をぼんやりしているのだ。玄関に坐ってお待ち申すのだ」  彦四郎が大きな声で怒鳴りつけた。 「はい」  小吉はあわてて広々とした玄関の板の間へ出て行って坐った。すぐ前に玄関内から庭。門へかけて濃い梨色になる程に水を打って、頻りに涼を誘っている。大きな石だの、小笹だのに、この水がきら/\と粒になって、それから少し入った灯籠の灯の色が一つ/\美しく瞬いた。  平清の女達は、小吉をちらり/\と横目で見たり、濡れ手拭をしぼって持って来てくれたりした。涼しいのだが汗が出る。面倒臭い、上下も着物も脱いで、素っ裸でこゝに斯うして坐っていたら、涼しいだろうなあとふと小吉は思ったりした。その自分の姿がまた自分でもこれ迄見た事もない几帳面な恰好で、てか/\に磨きぬいた板の間へ映っている。  刻限になって、彦四郎も出て来て並んで坐った。  客は次から次と入って来た。が小吉の些か知っているのは支配組頭の大久保上野介一人だけで、後は誰一人知らない。 「おれが毎朝日勤をしている大溝主水正様はどの方であろう」  小吉はつぶやいた。  やがて酒席になった。この時になって、やがて小吉ははじめて正座に坐っている若い侍が大溝主水正であることを知った。主水正は小吉を見て笑い乍ら手招いだ。小吉は立って行こうとした。彦四郎はぎろりと怖ろしく恐い眼で見て 「しッ、膝行、膝行」  といった。 「はい」  小吉はずいぶん離れている正座へ膝をにじらせて寄って行った。 「勝。主水正じゃ。苦労の甲斐あってよろしかったな」  といった。正に一度咳払いをきいたあの声の感じであった。 「有難うございました」  小吉は平伏した。大久保と列座した同じ頭の大塚も、世話役の大竹、小島、田所の三人も、小吉は初対面だが、彦四郎は知っているらしい。頭は百俵高、世話役五十俵三人扶持、しかし流石に主水正は三千石の貫禄は充分である。  甲府石和の代官増田はもういゝ加減の年で髪は殆んど白かった。小鼻の脇の皺の深い、これは好人物のようだと小吉には感じられた。  それに並んで石和の手付大館三十郎、金子上《かねこかみ》次助。じろりと小吉を見た眼が不思議に白かった。大館は四十がらみで小男で金切声だが、金子上は三十そこ/\のはち切れそうに肥った男であった。  彦四郎が小吉へ耳打ちした。 「御同役でお世話になるのじゃ。御両所から親しくお流れを頂戴せよ」 「はい」  傍へ寄った途端に 「男谷、男谷」  と大久保が彦四郎をよんだ。  彦四郎へ何か小声で二た言三言早口にいった。彦四郎はうなずいて、小吉の側へ寄って 「小吉。金子上は優しく見えてとんと腹黒い男との事だ。構えて用心せよ」  といった。小吉は黙ってうなずいた。いわれる迄もなく今、そんな物を感じたところだったのである。  しかし、とにかくこの酒宴は無事に終った。主水正や組頭や代官は家来も来ているので、これは駕。世話役以下は蓬莱橋から舟で大川へ出て帰ることになった。銘々のふところには相手相応の紙包が窃《ひそ》かに手馴れた彦四郎から渡されて先ず充分なお取持の筈である。  蓬莱橋まで小吉は大勢の芸者達と一緒に送って来た。  月は出ているが、朝からの風がぱったり止んで、むうーとするように暑くなっていた。   七転《なゝころび》  世話役三人は一艘の舟。芸者が三人乗って、向う川岸まで送る。一艘には大館と金子上が乗った。が金子上がまたひょろ/\と上って来て 「勝どの」  と耳元へ口を寄せて 「上役方をお送りしてから、もう一度飲み直そう、大館さんも飲み足らんといっている」  唇を少し曲げた。 「は」  と小吉は彦四郎の方を見た。彦四郎は月を見るような恰好でそっぽを向いている。金子上はそのまゝ再び舟へ戻ったが舟を出させない。世話役達の舟は、賑やかな笑い声を積んで、大川へ出て行った。 「これからがわれ/\の天下さ」  と金子上は大館の手を引っ張るようにして陸へ上った。 「小吉、女共と共に摩利支天横町の若戸へ行ってお取持をしろ」  彦四郎はそう早口にいって 「皆々、どうぞごゆるりと」  次の言葉が終るか終らぬに、もう、くるりと背中を向けていた。  若戸は座敷の前がすぐ川で、積み上げた川岸の石垣の上は、ほんの四つ石垣、小さな舟が上ったり下ったりするのが、庭の池の中を漕いででもいるようによく見える。  上座に二人並んで、芸者の酌を受けながら 「どうだ勝どの」  と大館がいやに耳につく甲高い声で舌なめずりをしながら 「さっきから見ていると、ちっとも飲まんが、一つ、わしの盃を受けて貰おうか」 「誠に御無礼ながら 勝は一盞もお流れのいたゞけない不重宝者です」 「そんな事はあるまい、人間、男と生れて酒を飲めんという事はない」  金子上がこれにつゞけた。 「そうだとも。おのしは、何にかわれ/\に気の喰わんところがあるのだな。さっきから、われわれを見る眼がそう云っている。それ位の見分けがつかんで御代官の手付がつとまるとでも思っているのか」 「とんでもございません」 「われ/\は人の心を読む事を知っているのだよ」  と大館。 「第一、代官所の役人は、黙っていても金の方からひとりで飛込んで来るように役得のあるものだ。これからはいくらでも金の儲かる役につくというのに、今夜の取持は少々けち/\しているではないか」  そういい乍ら、ふところから、さっき彦四郎から貰った金包を出して、掌へのせて、ひょいひょいと弄《もてあそ》んだ。  小吉の頬の色が少し変っている。じっと金子上から眼を離さない。女達はみんな気の毒そうにうつむいた。粋が揃った辰巳の芸者、内心では唾でも吐きたい気持だろう。 「第一、おのしの父上は名代な分限者《ぶげんじや》、祖父どのは盲目の身で、越後|小千谷《おじや》から出府して僅か三百文のもとでを、遂には水戸藩へ貸しただけでも七十余万両、江戸御府内に十七ヵ所も地所を持ったという男谷|検校《けんぎよう》。父御の平蔵どのはその九人の子の末子だそうじゃが、世間では五万両の遺産を貰うたといっている。はっ/\/\。只で祖父どのから貰った金だ。もっと器用に使ってもよかろうにな」 「正にその通り」  大館もにや/\しながら 「噂では検校は死ぬ時に、伜共へ三十万両の現金《けんきん》を残し、烏金で貸してあった証文は悉く灰にしたという。金はこういう風に扱うものだな」 「それはともかく、勝どの、おのし、文字が書けぬそうではないか」  と金子上。 「は?」 「御支配へ日勤の記帳の文字がまるで五つ六つの子供のようだと噂がある。代官所の役人は、それではちと面倒ではないか」 「お恥しい次第でございます」 「まあいゝ、まあいゝ」  と大館は 「そんな野暮な話は止しにしろ。それより、わしは蕎麦が喰いとうなった。酒をのむと蕎麦を喰いたくなる癖があってな。勝どの、頼む」 「はい。承りました」  女達が気をきかせて立ち上ろうとする。大館はじろりとこれを見て 「こら女ども——蕎麦を喰いたいといっても、おれのは並の喰い方とは違うぞ。うで立てを水洗いしてすぐにそこで喰べるのだ。深川の名物は熊井町の翁蕎麦。あれをうで釜ごとこゝへ持って来るのだ」 「はい?」 「わからんか、翁蕎麦をこの庭先へ引越しさせて来るのだ。それでなくては、うで立ては喰えん」  女達は目をぱち/\して、みんな腰を畳へ落して終った。 「と、と、殿様、そのようなことを仰せられましても——」  少し年とった女が小さな声でそういった。 「いや、並の者には出来ん。が、油堀の分限者男谷平蔵殿を父上に持たれる勝どのなら、いと易い事なのだ。なあ、勝どの」  顎を突出すようにしていう大館へ、小吉は不意にずばッと膝を寄せて行った。  血相が変っている。息を詰めて肩が微かに上下したと思うと、にやッと笑ってその途端に小吉の手が大館の襟へかゝった。 「な、な、何にをする」  流石に狼狽した。 「ぶ、ぶ、無礼」  金子上は睨みつけて威喝するように大声でそういい乍らも、半ば逃げ腰で座を立った。小吉も大館を吊し上げるように引立てて同時にすっと立った。そして右の手は金子上の胸を鷲づかみにしていた。 「な、な、何にをする」 「無礼千万」  二人の声は同時に織りなしたが、小吉はこの二人をずる/\と引きずって跣足のまゝ庭へ下りた。さっきからの気配にはら/\していた女達は、真っ蒼になって、何んにも出来ない。出来ないどころか声も出ない。ぺったりと坐ったまゝのものもいる。  庭の中程へ来た。月が照って、何処かで三味の音につれて、河東節が聞こえている。 「か、か、勝どの、い、い、いや勝さん、みんな酒興ですよ。あ、あ、あんな事に腹を立てる事あ御座らんでしょう」  と金子上。 「そ、そうだよ、か、か、勝さん、これからは同じ釜の御飯をいたゞかなくちゃあならん間柄だ。何にか気にさわったら謝るよ。いやもう宵からの到れり尽せりの鄭重な御馳走で、腹の底まで酔ってるもんだから——自分でしゃべった事を、もう、みんな自分で忘れている始末だ。お、お、おのし——い、いやあなたが、そう立腹された訳がわからんよ。まあ、謝る。勘弁して下され」  大館の声は跡切れ/\に慄えていた。  小吉は無言。  金子上が不意に 「やッ!」  と気合をかけると、脇差を抜き放った。 「あ、あ、危い金子上」  叫ぶ大館にかまわず、金子上はその脇差で小吉の横腹へ斬りつけるつもりだったらしい。  が、斬るどころかその脇差を持ったまゝ、宙に大きく輪をかいて、庭石の前へ実に無態《ぶざま》に力一ぱいに投げつけられて終っていた。地へめり込むようにぐうーと強い声でいった。がそのまゝもう、びくりとも身動きもしない。 「か、か、勝さん、勘弁して下され、座興が一寸すぎたのだ、悪意はない、悪意は——」  大館の金切声を小吉はやっぱり無言である。  ずる/\と、川ッぷち迄引っ張って行った。 「こ、こ、これ勝さん、あ、あ、あなた、そんな乱暴をしてそれでいゝのか。御番入に差支は出来やせんか。え、勝さん」  物凄い水音がした。大館は毬のように無造作に川へ投込まれた。小吉はじっと川面を見ている。沈んだ対手がやっと顔を水面へ出した時は、もう元結が切れてさんばら髪で、烈しく両手をばちゃ/\させているのは泳ぎを知らないのだろう。  小吉は平気でこれを見下ろしている。 「助けて、助けて下され——勝さん、詫る、詫る」  小吉は悠々と座敷の方へ引返した。ちらッと見ると、金子上は元のところに仰向けになったままで、口の中まで月の光がさし込んでいる。  座敷の内は蟻のように大勢の人達が集って、わい/\わい/\耳を裂く程のやかましさになっていた。 「騒がせてすまなかったな。御免」  小吉はこの時はじめて、ぷつりと物をいって、自然に両側に片寄った人と人との間を、全く、何事もなかったような平気な顔つきで、玄関口の方へやって行った。  それでも女将だけが流石に落ちついて、刀を出した。それを受取りながら、 「明日、男谷の用人利平治というが来やンすからね」  にこッとして、頭を下げて、出してあった雪駄を突っかけると、静かな足どりで悠々と門を出て行った。  こゝから油堀まではいくらもない。丁度八幡宮の一の鳥居をくゞって八幡橋まで来たところへ、あわてて彦四郎と用人利平治、それに仲間二人が駈けて来るのと、ばったり逢った。 「こ、こ、この愚か者奴、大変な事をやったそうだな」  彦四郎は息切れているし、吃ってもいる。 「はあ」  そういう小吉の頬へ彦四郎の平手が力一ぱい飛んだ。 「何にが、はあだ、この大馬鹿奴。これで何にもかももうお終いだ」 「はい、わたしもそう思います」 「何にをッ」  また彦四郎の手が小吉の頬に凄い程の音を立てた。 「大金を費い、しかもあんな者共に、男谷彦四郎ともあるものが、七重の膝を八重に折ったのは誰の為めだ。ば、馬鹿!」  また頬が鳴った。 「おのれ、屋敷へ帰って謹慎をしておれ、一応の片をつけてわしも直ぐに戻るから」  と彦四郎は少し駈け出したが、ふと気がついてか、あわてて引返して 「利平治、お前、こ奴を逃がさぬように見張って行け。万にも一つ逃がしたら、腹じゃぞ、腹を切らせるぞ」 「は、はい、はい」  利平治は泣いていた。そして小吉の袖をつかむと 「さ、戻りましょう」  と聞こえない程の声でいった。料亭若戸の事件はすぐに若い者が油堀へ飛んで行ったので忽ち知れたのだ。 「小吉様、小吉様」  利平治はうしろから小吉にすがりつくようにしては道々声を上げて泣きつゞけた。 「利平治泣くな。人間にはな、辛抱の出来る事と、どうしてもそれの出来ない事があるものだよ」  小吉もほろりとしている。瞼に父平蔵のがっくりとした顔が浮かんだからだ。  油堀では、お信が女中と門の外へ出て待っていた。 「だ、だ、旦那様」  泣く声へ 「すまないことをして終った。お前にばかり苦労をかけるが」  そういって 「父上へお詫をする。お前も来てくれ」  若い夫婦が揃って、手をついているのを平蔵も泣き乍ら見下ろしていたが、やがて少し笑顔になって 「いゝさ、お前の好まぬ御番入をみんなでやい/\押しつけたが、悪かったかも知れぬ。人はみな七転八起《なゝころびやおき》。小吉、唯お前の一生を元気でやれ」  といった。  この時であった。離れの小吉の家の女中が、小膝で縁側の板を割るような響きをさせてあわてて廊下へ手をついた。 「あ、あの——」  はあ/\息をはずませて眼をぱち/\している。 「何んだ」 「あ、あ、あの」  利平治が来た。 「大変でござります。御|祖母《ばゞ》様が玄関で俄かにお倒れなされました」 「何? 御祖母様が」  小吉とお信は、父へ一礼するとそっちへ飛んで行った。御祖母様は玄関の大きな沓ぬぎ石へ、うつ伏せになってもう息もない人のようである。  すぐ医者も来た。が、祖母の脈の止ったのはその夜の|四つ上の刻《じゆうじ》、きっちりであった。医者は卒中だといった。  彦四郎が帰って来た時はもう|子の下刻《ごぜんいちじ》で、利平治がこの話をしたが耳にも入れず 「小吉ッ!」  大きな声で怒鳴りつけた。眼が血走って頬は蒼く、唇もかさ/\に乾いていた。 「お前に庭石へ投げつけられた金子上は脾腹が破れて無慚な即死だぞッ!」 「え? し、し、死にましたか」 「貴様、とう/\人を殺した。か、か、覚悟はいゝな」 「はい。固よりで御座います」   檻  秋の半《なかば》が過ぎていた。酷《ひど》く冷めたい日もあったが多くは青空がつゞいて、風もないのに思いがけなくひら/\と木の葉が散ったりした。  亀沢町へ移った男谷家は、遂い先頃まで大勢植木職人や、池を浚う人足が入っていて騒がしかったが、それも一応は落着し、池の水が鏡のように光って、庭石の影がくっきりとじっと黒い影を落している。  とかくからだの不自由な平蔵は、この庭全体が見える日当りのいゝところを居間にしたが、向い合って池の向うの大きな松が逼うように枝を延ばしている下に出来ているのは、たった二た間に、油堀の時のように深い土廂《どびさし》の玄関のついた離れ座敷。これが実際は小吉夫婦の住居だが、表向き支配御老中水野越前守の処分で小吉を檻禁してある座敷牢だ。一と間は荒い牢格子で四方を囲い、潜りになっている戸前には大きな鉄の錠が下りている。  小吉は今、この牢の中で机に向って頻りに草紙に字を書いている。彦四郎が手本を書いておいてあって毎日これを何枚かずつ習って置かなくてはひょっこりやって来て大声で喚き立てるのである。しかもその飛ばっちりがいつもお信にまでも行く。  小吉はこれが堪らなかった。それと一緒に病んでいる父の耳へ、荒々しい兄のその声の聞こえるのもいっそ辛い。仕方なくいいつけられた通り書いて置かなくてはならない。  それが仕合《しあわせ》に、彦四郎が、小吉が座敷牢へ閉込められてから一と月ばかりで突然信濃から越後蒲原郡|水原《すいばら》の代官に転任になった。新発田《しばた》から二里。六万石の支配でむかしからなか/\面倒の多い土地柄だから、自然代官も任地にいる方が多いので、あの頬をぴく/\させる大きな目も怒鳴り声もきかなくなったが、一と月ばかりの間に、苛めるにいゝだけ苛められたのがむしろ幸いな習慣になって、小吉は、字を習う事がいくらか好きになった。  利平治が囲いの外へやって来た。 「また泣きに来たか、え。はッ/\は、泣くな/\。どうだ、おれも字がうまくなったろう」  書いた一枚を高く上げて 「おれもこの牢へ入れられた時は、その晩の中に格子を二本ぶちこわして逃げようとしたが、あの時にお信がお前と共々云ったね。子として御父上の御最後をお見届け申さなくとも人の道は立ちますのでございますかとな」 「はい」 「父上はいつも/\、お前達夫婦は偉くはならなくともいゝ、真の人間になれとおっしゃる。おれは、近頃あのお言葉がしみ/″\肝にしみるようになったよ」  利平治は、ほんとに、そっと涙を拭った。 「ほら、また泣く。まあ安心してくれ。こんな事もおれが生涯の間のほんの短い辛抱だろう。兄上はいつも此処を小吉奴の檻という。檻の内で、じっとおのれの心の移り変って行く態《さま》を見てると、おれが身には兄上の百日の説法をきいているよりぐんと増しだ。が、おれはいつ迄こうしていては済まぬ。父上が御不自由なおからだで、わしも小吉の檻の内へ移りたいと仰せられたとお前からきいて、ぶる/\と身慄いがした。それにお信も御祖母様亡き今日は、天上天下に頼るのはこの小吉が唯一人、またお信が生涯を見守ってやるもこの小吉が唯一人。そのおれが、これではならない」 「はい、はい、然様でございますとも——それにつきましても小吉様、あの、団野真帆斎先生がこの程は大層およろしくないとの事でございます」 「え、先生が」 「はい。何分にもわたくし奴同様、もうお年でございますからな」 「そうかあ。大恩のある先生が、そういう事ときいてもお見舞にも参れぬ今の境涯だ、残念だな」 「御推察申しますが、何んともならぬ事でございます」  小吉の檻の鍵は利平治が彦四郎から預けられてある。 「大事の際の外は、決して用いては相成らんぞ」  彦四郎は例の怖い顔で、何度もそう念を押して渡して行ったが、後でこの事をきいた平蔵は 「あ奴にしては上出来だ。その鍵は夜になったらお信に渡せ」  そういって、泣き笑いをした。  暮には帰る筈の彦四郎が年を越して、しかも五月になってやっと越後から帰って来た。小吉の檻の外へ立って、まるで獣でも眺めるようにじっとしていたが、そのまゝ一言もいわずに母屋へかえって行った。  日が暮れて青葉をさら/\とゆする風が立って来た。もう|五つ《はちじ》の刻限だった。いつもならお信が檻へ来るのだが、とっくに麻布へ帰っただろうとばかり思っていた彦四郎が、またのっそりと檻へやって来た。利平治が何にやら衣類の入った乱れ箱を抱えてついている。 「わしと一緒に外へ出る。仕度せよ」 「は」 「役筋との話はついているが、何れにもせよ天下御威光を軽んじてはならん。顔をかくせ」  利平治が戸前の錠をがちゃりと脱《はず》して入って来た。 「さ、お仕度を」 「どうするのだ」 「団野先生が、臨終《いまわ》の際《きわ》に是非あなたに逢いたいと仰せの由で」  耳元へ早口にそういう利平治へ、小吉は眼を丸くした。  やがて、小吉は初夏だというに茶納戸|紬《つむぎ》の山岡頭巾で顔を包んだ。汗がにじみ出て来る。二人揃って母屋へ行くと、彦四郎の養子になってこの頃はずっと麻布にいる精一郎がそこに待っていた。後ちの古今の剣士といわれた男谷下総守信友。年は十五だが、ぴりッとして一分の隙もない。  三人が連れ立って団野道場へ行った。 「先生!」  思わずそう声をかけた小吉は、病室の端へ坐って両手をついたきり、顔を上げる事も出来なかった。額をすりつけて、声を上げて泣いている。 「勝、逢えてよかった」  と先生は細い声でやっといって 「わしも寿命が来た。世の中に未練は露程もない。が、たゞ、わしの剣を伝えた者は大勢あるが、何れも真髄に遠いのでのう。酒井良佑などは、弥勒寺で人を斬ってからまるで邪《よこしま》の道へ入って終った。頼みは不思議に男谷殿の血をひいたお前とその精一郎との二人だけじゃ」 「はい、はい」  小吉はまだ顔を上げない。 「お前たち二人で、わし亡き後ちは、この道場をついでの、団野の剣法はこうであったと後々に残して貰いたいのじゃ。これだけが未練で、今迄死ねなんだ。もう、これでいゝ、もうこれでな」  小吉は、しずかに先生の側へにじり寄っていた。 「先生、わたくしは、御承知のような人間です。今も檻の内にいる人間。このような人間が、直心影にあっては流儀の汚れになります。しかし精一郎はまだ世の中の色にも垢にも染《し》みず、剣脈も一通りではないのでございます。先生御道場はこの者にお残しいたゞき、後々小吉奴が世に出る事もござりましたならば、力一ぱいの助力を仕りますでございます」  先生は細い眼を開けて、じっと小吉を見てからそれをそのまゝ精一郎へ、更らに彦四郎へ移して 「お前は檻へ入ろうと何にをしようと少しも卑下する事はない。お前は人として立派じゃ。が、ふと思いついた、道場の事などは好まぬであろうなあ」  彦四郎父子は麻布へ帰って、小吉は檻へ戻ると、いつものようにお信とたった二人になった。 「久しぶりで本所の初夏の街の辻行灯を見た。うれしかった」 「ほんによろしゅう御座いましたねえ。でも先生がそのような御様子では」  お信は団扇で風を送ってやっている。 「すでに御寿命とあきらめて、悠々としていられる。まことに御立派な御境涯だ——が、お信。それにしてもお前、何処か悪いのではないか」 「いゝえ別に」 「そうか。それなればいゝが隠す事はない。お前、若しひょっとして」 「ほほゝゝ。よくお気づきなされました。御父上様は、あなたが何にかおいい出しなさる迄、黙っておれとの事で申上げませんでございましたが、|赤ん坊《やゝ》が出来ましてございます」  小吉は暫く息をのんで眼をぱち/\した。 「父上は何んと申しておられたか」 「座敷牢の中で出来た子だ、並の子ではないぞと仰せで、およろこび下さいました」 「ふーむ」 「兄上様にもお話しなされ、もう檻から出すよう奔走せよと厳しい声で仰せでございました」 「そうか」  文政五年十二月三十日、小吉は座敷牢を出た。年二十一歳。父平蔵七十一歳。兄彦四郎は四十六歳である。  明くる正月四日、牢格子をすっかり取払って、襖障子を張替え、畳を新しくした例の一室で、お信は一子を産んだ。少し小さいがからだつきのがっちりとした見るからに利かぬ気らしいものがそのからだから溢れ出ているような赤ン坊であった。  正月で忙がしい彦四郎が一日おいた六日に麻上下でやって来た。 「小吉、お前という奴は途方もない事ばかりやっているが、子供だけは立派に拵えおった」 「はあ」  ふだんは小吉をまるで大犯人のようにして、家人さえ一歩も近づけてはならぬとがみ/\いっている彦四郎が、どうした風の吹廻しか真面目くさった顔でこんな事をいっていた。その応対が妙におかしかったので、平蔵は一人で思わずにや/\した。やっぱり血のつながる兄弟だ、彦四郎とて唯頑固ばかりでもないなあと思った。 「名前は、わしがつけてやる」 「はあ」  小吉は腹の中では、兄奴、父上は唯の本箱だという。全くだ、碌な名など考えるものか、大切な伜の名、おれが考えて鼻をあかしてやるわ、そう思っている。 「名前はわしがつけるぞ。妙な名をつけて、お前などにあやかられては困る」  彦四郎は重ねてまたそういった。  お七夜に奉書が三宝へのってうや/\しく届けられた。小吉は、平蔵の前で押しいたゞいてこれを開いた。 「麟太郎」  鮮やかな文字で、筆太に大きい。 「はっ/\」  平蔵は唇をゆがめて笑い乍ら、いつもの廻らぬ舌で、 「お前、ゆうべ、獅子太郎は如何でしょうなどといったな。あれはいゝとわしも思ったが、彦四郎は儒者だからやっぱりこの方が上だ。勝麟太郎、勝麟太郎。うむ、いゝ名だ、いゝ名だ」 「はあ」 「何? 書いてあるな。ふむ、麟というのは、聖人が出て王道行わるれば現れる霊獣だとよ、牡を麟と云い、牝を麒というか。いゝ/\。はっ/\、いゝ/\。早くお信にも知らせてやれ」  小吉は離れへ戻って行った。お信と並んで髪の毛の濃く黒い赤ん坊がすや/\と眠っている。  彦四郎の奉書をお信へ見せて、そのまゝ枕元にどっかりと坐った小吉は 「おれもこれからは今迄のような事では、いかないなあ」  とひとり言をいった。  堅く医者にとめられてある酒をほんの少しばかりだが飲んだためか、この正月の二十日の夜半に、平蔵は二度目の発作があった。もう何にをするにも人手を借りなくては駄目になった。固より口は利けない。たゞ、じっと、枕元へ来る人達を見詰めている事はいるが、それがどうも見えてはいないようである。  知らせで夜の白々明けに馳せつけて来た時の彦四郎の剣幕は怖ろしかった。  前に医者のいるのなどは眼に入らぬのか、 「中風の身が酒を飲むなどとは何事です。莨と酒は間違ってもとあれ程申してあるではありませぬか。いゝお年で余りにも醜い、父上、死にたいなら御切腹をなさるがいゝのだ。都合によってはわしが介錯を致すもよく、あなたが眼へ入れても痛くない剣術だけより外には何一つ出来ない小吉という男も身近にいる。中風などで、長くねていられては、第一に周囲の者が迷惑千万。わしは己れを慎しむ事の出来ないような人間は獣と同じだと卑みます」  医者も、いつも平蔵を介抱している若い女も、とう/\その場にいたゝまらなくなってこそこそと奥へ逃げて終った。  小吉と、お信と、利平治だけが、じっとしてそこにいる。   八起《やおき》  脂汗を額に浮べて、我鳴り立てる彦四郎を睨みつけて、小吉の顔つきが唯事でない。今にも飛びかゝりそうである。お信はしっかりと小吉の袖を押さえると、利平治に眠くばせして、二人で離れの居間へ無理に連れて行って終った。  小吉はどっかと坐って、はじめて拳で涙を拭った。 「お察し申します。でも御辛抱なさらなくてはなりませぬ。麻布の旦那様もお嘆きの余り、あゝした事を仰せなのでございますよ」  利平治も泣声でそういったが 「父上がお可哀そうだ」  小吉は、いつ迄も泣きじゃくっていた。  それから唯生きているだけという淋しい日が平蔵の上につゞく。庭にはぽつ/\梅が咲き出した。これが池へ映って、小吉にさえ絵のように美しいなあと思うような日がある。今日もそんな日である。春の匂いが何処からか忍んで来るようだ。  彦四郎が来て、父の枕辺から庭を眺めていたが出しぬけに利平治をよんだ。 「おい/\。父上の御|病床《ねどこ》を奥の東の間へお移し申せ。この座敷はな、今日からわしがこちらへ参った時の居間にするから」 「は?」 「父上はもうお眼もお見えにはならん。どこにねていられるも同じ事だ」 「で、で、でも、このお座敷は旦那様が、屋敷中で一番いゝところだとおっしゃって大層お気に入られましてな。お庭もそのおつもりで木一本、石一つもお手ずからお差図なされましたもので」 「それもこれも、すでにお眼がお見えにならんでは仕方がなかろう。女共に申しつけて早々に奥へお移ししろ。あすこもいゝ座敷だ」 「でも」 「わしの云う事がきけんか」  彦四郎は、じろりと利平治をにらみつけた。  朝の中だけは陽が当るが一日中何んとなく昏いには昏いが、またそれだけに静かに落着いて、数寄を凝らしたいゝ座敷であった。  梅が散ったと思うと、いつの間にか庭中の樹々が争うように青葉になって、もう夏が来て終った。  傍らにいる彦四郎の申しつけで、あれからまた一人ふやした介抱の女、女達ばかりでなく利平治もこの頃では、平蔵の僅かな口の曲げ方や眉の動きで、その気持がわかるように馴れて来ている。平蔵は顔を離れの方へ向けるようにして、二、三度顎をひいた。  利平治と介抱の女がちらっと顔を見合せた。 「はい/\、わかりまして御座います」  利平治は、離れへお信と麟太郎を迎えに行った。  平蔵は麟太郎の手を自分の手へつなげというような様子をした。お信がそうしてやると、じっといつ迄もその顔を見ている。近頃では一と頃まるで見えなかった眼がいくらか見えるようでもあった。涙が眼尻から伝って枕へ落ちて行った。小吉がやって来た。平蔵はまたじっとこれを見つめ、お信を見つめ、それっきりですや/\と眠り出したようである。  次の日もその次の日も風一つない夏の日。お天気の割に涼しかったが、平蔵の容体が少し変なので医者が駈込んで来た時は、もう万事休すであった。六月七日夕、|八ツ半《ごじ》。  麻布から彦四郎が精一郎をつれて駈けつけた時は真っ暗になっていたが、昼の間に比べて少し蒸し暑くなっていた。  小吉はたゞ一人で、庭へ出た。よく平蔵が池の端にある平石へ立っている姿を見たが、小吉も今そこへ立って、空一ぱいの星を見ている。  半刻も一刻も立っている。利平治がそっとやって来た。 「小吉様、如何なされました」 「利平治、おれはな、今、父上の御生涯はお仕合せであったか御不幸であったか。それを思っていた」 「御尤もでございます。でもそれはこれからで御座います。あなた様のお行末がそれを定めるのではございますまいか」 「うむ?」 「わたくし風情がかようの事を申しては僭越至極。でも、わたくしは、然様に思っておりますよ」 「そうか」 「男谷の御家も彦四郎様の御代になりましては、がらりと変りますで御座いましょう。わ、わたくし、わたくし奴なども——」 「う?」 「しかし乍ら、旦那様は、この世にお二人とはない程の立派なお方様でございました。利平治のような者が長命しても詮もない事、あの御臨終の際は、わたくし奴がお身替り出来るものなればと、しみ/″\思いましてございます」 「お前の忠義は有難い、礼をいう。それに引替えおれは御心配の掛け通しでな。もう終生御番入の出来ないこのおれを、どんなに案じて亡くなられたか」  池へ蛙の飛込む音がした。  平蔵の葬いの日は小雨が降った。  それから七日経って、彦四郎は屋敷の者一同を一間へ集めた。 「小吉夫婦は離れに待っておれ」  小吉ははいと返事をしながら、流石に兄も疲れている、白髪の多い鬢が油気もなく乱れて頬もげっそりと、痩せたなあと思った。  日暮れに近く彦四郎は唯一人で離れへやって来た。 「わしは近々に麻布の屋敷を引払って当方へ来る。それについては家職の者にもそれ/″\言渡したが、な、小吉、お前もいつ迄本家の地内に食客同然にしていてはいかん。こゝら辺でそろ/\一本立になる方がいゝと思う。従ってお前ら夫婦も移転をして貰わなくてはならん」 「し、しかし——」  小吉がちょっと気色ばんだ。 「まあ終いまで聞け。お前の住む家はわしがすでに買求めた。南割下水のお前とは小普譜の相支配、山口鉄五郎の地内だ。この離れよりは広くもあり、都合もよく出来ている」  今度はお信が何にかいいたそうにしたが、小吉はそっとこれを押さえた。 「今日、明日とは云わん。都合のよい日に引移るよう。金も用意してある」  彦四郎はそれっきりで立って行って終った。  小吉はお信の手をそっととった。 「いゝではないか。おれはあの兄とは一緒には暮せぬ人間だ。お前にしても御祖母様、おれは父上に亡くなられた屋敷をはなれるのは淋しいが、それもこれも時の次第で仕方があるまい」 「はい」 「どんなぼろ家でも、こゝにいて朝夕兄にがみ/\云われるよりは結構だろう」  お信も小さくうなずいた。  利平治が来たのはそれから間もなくである。行灯の下に、麟太郎は紅い蒲団を敷いて、すやすやと眠っている。蚊遣が焚いてある。 「おう、お、力強うぐんっと脚をお踏ん張りなされて大の字のお姿、小吉様、ひょっとするとこれは麟太郎様は親御勝りかも知れませぬなあ」 「おれがような男に劣られて堪るか、勝小吉は、男の中の下々の下だわ」 「そうではござりませぬ。が、麟太郎様はお産湯の時に、盥の縁を紅葉のようなお手でしっかりとお握りなされて、なか/\おはなしなされなかったので御座りますから——ほんとにお珍しいとその時からのお噂、唯のお人では御座りませぬぞ」 「といって鳶の子に鷹は出来ねえわ」 「飛んでもない、鳶が鷹を産む——ましてや、あなた様からが鳶ではござりませぬ、鷹でございますよ」  入江町の時の鐘が、ぼうーんと聞こえた。星空だが、雨でもはらんでいるのか、籠った音色であった。  みんな黙っていた。  突然お信が、わッと顔を伏せて泣出した。 「これよ」  と小吉が 「侍の家内は泣くものではないわ」  といって 「利平治。別れに来たか」  とはじめて顔を見詰めていった。 「はい」  と利平治は両手をついて、 「申し上げそびれておりました。御屋敷から御暇が出ましてございます」 「そうか」 「御屋敷へ御奉公を申上げ、お勤め仕ります間は双刀を帯して、武士らしゅうは致しておりまするが、御暇になりますれば、侍ではない、唯の市井の一|老爺《おやじ》。こう年をとりましては行末も凡そは知れておりまする。もう、お目にかかれぬかと思いますと、年寄りの愚痴で唯泣けて参りましてなあ。何にか申上げましたら、涙が出て口も利けなくなりはせぬかと、それが心配でいい出しそびれておりました」 「ふーむ」  小吉は顎を撫でた。 「死んだ老妻の縁辺《よるべ》のものが甲州街道柴崎というところにおりましてな、玉川のほとりでございますよ。こゝへ一先ず落着いて、それからゆっくりと死場所を定めますつもり。あんなところへ参りましては、もうお目にもかかれぬ事かと——」 「おいッ」  小吉はびっくりするような声を出した。お信もはっとして顔を上げた。 「利平治、お前は、そんなにおれに愛想《あいそ》が尽きたのか」 「は?」 「それあ、おれはなあ、先きが悪いとは云い乍ら、過失《あやまち》とはいえ人を殺し、皮一枚でやっとこの首が繋がって座敷牢入り、もう金輪際御番入の見込もなく、自然出世の望みもならぬが、これでも何んとか細々でも人がましく、この世を渡って行くつもりだ。どうだ、お前この先きこの小吉と、苦楽を共にして行ってくれる気はないか」 「え?」 「今度の家もどうせ狭いに違いないが、一つの夜具を半分宛に着ている気ならくらしも出来よう。利平治、おれが頼みだ、何処へも行かず、お前おれと一緒にいてくれろよ」 「は、はい、はい」  利平治のからだは二つに折れるようになって畳へうつ伏して終った。  麟太郎が眼をさまして泣き出した。お信はあわてて抱き上げて 「おゝ、よし、よし、よし/\」  小吉も一緒になって、あやし乍ら 「利平治、お前が泣いたりするものだから、麟太郎も泣くではないか。ほらよ、利平の爺ちゃんだ、泣いてはいないよ、笑ってる、笑ってる」  利平治は泣きじゃくりをして 「ほ、ら、ら、ら」  麟太郎へ笑顔を見せた。  こゝのところ雨一滴も降らず、夏の盛りのじり/\照りがつゞいて、庭草が枯れかゝったりしたが、彦四郎は精一郎をはじめ、家来達をつれて亀沢町へ引越して来た。噂では近々に越後の代官をやめて、二の丸御留守居格西丸裏門番頭になるという事である。  団野先生は去年とう/\亡くなられて、後は小吉の行かない時は門弟達でがや/\やっていたが、これからは、まだ若い精一郎が道場師範の座につく事になった。彦四郎は、平蔵の相続をすると共に、道場を買って、少し建増をした。先生の遺族は外へ引移って終われた。  今日は、さっきから空模様が少し怪しかったが、黒い雲の一方に青空がひろがって、そよ/\涼しい風が吹いたりしていて先ず大丈夫と思っていたら俄かにひどい夕立になった。篠をつく雨というのはこんな事か、一本々々銀の細い棒でも並べたような大降りである。 「おう、ひでえ」  両国橋の東詰、幾代餅《いくよもち》の太い縄暖簾を頭で跳ねのけるようにして、草履ばきの巾着切の松坂町の弁治が飛込んで来た。甕《かめ》覗きの手拭で頬かぶりをしているが、もうずぶぬれで水の中から出てきたような風態である。  ひょいと見ると、これもたった今、こゝへ飛込んで来て手拭で頻りに頭から顔を拭いている逼出し屋の柳島の五助が鼻先きにいる。 「おう、ひでえ。——手前《てめえ》もか」 「橋の真ん中で、ざあーっと来やがった」 「態《ざま》あ見ろ、おれなんざあ、こゝの暖簾の外でちょいとやられただけだ」 「へーん、それにしちゃ滅法なやられ方だな」  二人はいつの間にか隅っこの縁台へ集って、人目を忍ぶようにして、こそ/\内緒話をはじめていた。 「彦四郎ってもなあ、ひでえ野郎じゃあねえか」  と五助は 「おれあな、お妾をゆすり損ねて物置へ釘づけにされ、正に危ねえところを小吉さんがずばッとやって来て、口を利いて下さったから助かったんだ。あの人にゃあ、首をいくつ出しても足りねえ恩があるし、第《でえ》一、面目ねえが、おれああの人に惚れちまっているんだ。年あ若けえがあの口上はてえしたものだ。おれああの人の為めなら何んでもやる。彦四郎って奴あ、あの男谷の財産を一文残らず一人占めにして小吉さんを追出した。先代様の残した小判だけでも正味三万両あったてえ噂だ。どうだ兄貴、こ奴あ一つ何んとかしようじゃねえか」  弁治は眼をぱち/\した。一寸首をふって 「何んとかしようって、どうするんだ」  五助は一度黙ったが、今度はぶつ/\ひとり言のように 「第一、あんな古くせえ家へ小吉さんを追っ払ってよ」 「だからよ、どうしようってんだよ。おい、対手あお旗本だぜ。お負けに伜の精一郎てのは年は若けえが団野先生の道場の主に坐った剣術使いだぜ。それへお前どうしようってんだよ」  と弁治は苦虫をかみつぶしたような顔つきでごり/\頭をかき乍らいった。   木剣  五助はしかめっ面《つら》を、いっそ弁治へくっつけて行った。 「だ、だ、だからよ、相談してるんじゃあねえか。おれあね、あのお妾のでっぷりとあから顔の旦那と、火消の纏持《まといもち》を対手に、こう」  と急に反身になって 「落着いたもんだったぜ、刀を左手に下げてすうーと立ってね。江戸にはこんな虫けら見たいな者がうよ/\している。それを一々真面目に御対手になさっては、御主人津軽越中守様御用のお手間も欠き、兄ィにしても組の纏《とうばん》の汚れにもなろう、この際小吉にお預け下されば、後々きっと然るべく成敗を致しましょう。といった時のあの小吉さんのお顔が夜も昼も眼先きにちらついてね。ほんとにあの千両役者の一幕を兄貴に見せなかったのが口惜しいよ」 「馬鹿野郎」  と弁治は舌打をして 「同じ事を、これで何度云ったと思いやがる、虫けらにされて喜んでいやがる」 「ああ虫けら結構、げじ/\結構、みゝずだろうがおけらだろうが、おれあ、あの人に云われたのなら腹は立たねえ——と、ところで今の話だ、何んとか男谷彦四郎って奴を|ぐう《ヽヽ》といわせる法はねえか」 「あるもんか」  いわれて五助は、ぷうーっとした時だった。もう雨は小降り、やがてやもうという時に、どかどかと三、四人、餅屋の土間へ新しい客が入って来た。 「あッ……」  弁治の声が確かにした。五助ははっとしてその弁治を見た時は、もう、鉄砲玉の勢いで、姿は縄暖簾の外へ出て、往来を稲妻のように飛んでいた。 「いゝ、いゝ、構うな」  渋い太い声がした。白の小倉の袴をつけた若侍が三人、その中の一人は刀の柄へ手をかけて半分暖簾の外へ頭を出していたが、振返ってこっちへ戻って来た。若侍達の気負っているのを、一人はにや/\笑って 「あんな者を捕えたところで一文にもならぬだろう」 「しかし」 「まあ、いゝ」  どっかと腰を下ろして 「これよ、姐さん、茶を一ぱいくれ」  といった。黒の上布の着流しに突っかけ雪駄。長い刀を静かに傍らへ置いた。左手はこの暑いのに袂から内ぶところへいれたまゝである。  五助は、うつ向き加減で、ちら/\これを見ている。その一人のじろり/\と四辺を見る三白眼の上目遣いが妙に薄気味悪かった。  雨が止んだ。  侍達は餅を喰べると 「あゝ、やんだ/\」  そういい乍ら、往来へ出て行った。  これを向側の金物屋の大きな用水桶の下へ潜るようにくっついて見ていた弁治が、また平気で餅屋へ身軽くかえって来た。 「どうしたんだよ兄貴」  五助は、ほっと息をした。 「ふっふっ、巾着切にふところを浚われる位だから知れた侍だ。あんな片輪。滅多にやられる事あねえが、何しろ腕が立ちゃあがるから油断は出来ねえ。あ奴あな、元割下水の近藤弥之助先生の道場の食客をしていた剣術遣いでな、渡辺兵庫てえ奴だ。誰かに斬られて左の手首のねえ片輪ン坊だよ」 「ほう」 「道場も追ん出され、それからと云うものはあゝして碌でなしの門弟をつれ強請《ゆすり》詐欺《かたり》、ばくち場の用心棒。やっと三度の御飯《おまんま》にありついているてえ噂だ。おう、五助、手前の親分だあな」 「馬鹿にするな」  と、それでも五助は四辺を見廻して 「強請詐欺、物置へ釘付けにされたなんぞは昔の事、今は正真正銘の素っ堅気、虫売、しんこ屋、夜泣蕎麦、たゞ持った兄貴が巾着切たあ、おれも、飛んだ不仕合せな男だよ」 「はっ/\。やりゃがったな」 「そ、そ奴あいゝがさっきの話だ。どうだ彦四郎をやっつける法は」 「あるものか——おれあな聞いた事があるんだ。一ツ目の湯屋《ゆうや》でな、侍らしい人と品のいゝ隠居さんが話していた。小吉さんが、対手の自業自得、過ちとは云い乍ら人を一人殺して座敷牢位ですんだのはあの彦四郎が黄金をばらまき、昼も夜もなく四方八方へ奔走をしたからだよ。そうだろうと、おれは思うんだ。てめえなんぞの、ばた/\する場合じゃあねえや」  それでもこそ/\話をつゞけながら二人は並んでこゝを出て行く。  それから暫く。亀沢町の男谷道場の武者窓から、雨の後ちの焼きつくようなきら/\する陽が射込んで、どちらかと云えば薄昏い道場の床へ細長い銀の板を並べて置いたように見えていた。  若い主、精一郎信友は、奥の一と間で行儀よく膝を正して何にやら古い本を書見台へ置いて、じっとこれを見ているところであった。庭は余り手入をしていないので雑草や庭石の横に糸薄が延びたりしている。これがまた何んとなく涼しかった。  主人より四つも五つも年層《としうえ》らしい門人が鄭重に手をついた。 「先生、是非お手合を願いたいと申しますものが参りました」  精一郎は、眼を書物へ注いだまゝで 「どうぞ」  と静かな顔でいった。膝へおいた手の指がふっくりとして若い女のようである。  精一郎が出て行った時は、門人部屋にいた侍たちが十人もすでに出ていたし、一段高い細い畳を敷いた武者窓下には、さっき幾代餅にいた時とは違って袴をつけた渡辺兵庫が上席に、あの門弟達がみんな肩を立てるようにして並んでいた。  精一郎は、こういう他流試合に対しては、いつも決して門人などは出さず、いきなり自分で手合をする事に定めている。自分と手合をしたいと申しているのに門人を差出すなどは対手に対して礼を失するというのが、この人の持論である。  渡辺兵庫は、唇を目につく程にゆがめて低い声でゆっくりといった。 「当今剣術の麒麟児出づと噂の高い先生が、道具をつけ、竹刀をふるうは如何にもお気だるな事であろう。木剣にてお願い申したい」  そこにいる悉くの人の眼が一斉に精一郎の顔に注いでまたゝきもしなかった。  精一郎は如何にも邪心のない顔をにこりとほころばした。 「男谷は若年でもありその上未熟不鍛錬です。木剣の手合など思いも及ばぬこと。竹刀にて御対手を致しましょう」  露程も動じた様子も無かった。却って渡辺がぐっと呼吸を呑んだ。暫く無言。頬がぴく/\と動いて 「是非木剣に願いたいが」 「迷惑に存じます」  渡辺の門弟達が互に顔を見合せた。 「木剣を拒まれるなら、御門前の直心影流男谷道場の門札を引剥がして参るがよろしいか」  一人の鳶のような鼻をした奴がいった。 「ほう」  と精一郎はやっぱり笑って 「御所望ならどうぞお持ち下さい。新しく作らせても何程の物でもないでしょうから」 「なに?」  また一人のでっぷりとした奴が 「先生のお父上は分限者越後水原の代官男谷彦四郎殿と承知するが」  そういった。 「如何にも父は彦四郎。分限者かどうかわたしは知りませんが、それとわたしの剣術とは何のかかわりもないでしょう」 「さて/\」  とまた別の一人が如何にも、物わかりの悪い奴だというように、ちぇッ/\と二、三度もつゞけて舌打をして 「竹刀でもいゝでしょう、先生、思い知らせてやって下さい」  さっきの鳶鼻がそういうと、渡辺は、苦笑した。  その渡辺は突然 「帰ろう」  といった。 「え?」 「帰るのだ」  もう立ちかけた。しかし門弟達は黙って承知はしなかった。がや/\がや/\騒ぎ立てている中に渡辺はもう道場を出ようとしている。精一郎は唯笑っている。  渡辺達が門前へ出て来た。門弟は如何にも不服で 「先生、どうしたのだ」  と口々にいう。 「やってもおれは勝てない」 「何あにあんな若造を先生が——今日は先生はどうかしている」 「男谷精一郎は立派なものだ。将来必らず天下随一となる」 「将来はどうか知らんが、今ですよ、唯今やっつけて金にするのが、最初からの目的ではありませんか」 「やるなら、お前らでやれ、おれは嫌やだ」  渡辺はぐん/\歩いて行く。これ迄荒した方々の小道場の主は、木剣でと一と言いっただけで、いくらかの金を包んで謝って終ったし、ちょいとした道場の多少名の知れた人でも十人の中九人迄が、一応は木刀結構と肩を張った。未熟だから竹刀でなどというものは一人もいなかった。それをまだ二十歳をそこ/\の精一郎が、平気でこういっている。 「このまゝ帰ったのでは、今夜の酒の代《しろ》がないではありませんか」 「水でも飲んで置く事だ」  こう渡辺にいわれても門弟達は承知が出来ない。だん/\無茶苦茶に腹が立って来て、さっきの鳶鼻が、眼の前にある道場門札に手をかけて、今、正に引剥がそうとした。  丁度、こゝへ、ぶらりと入って来たのは勝小吉である。いきなり、その利腕をぐっとつかんで 「何にをするのだえ」 「え?」 「おう、あなたは」  と小吉は渡辺を見つけて、 「いつぞや、団子坂の太田家で秋山要介、酒井良佑両先生の——」  と声をかけたが、渡辺は知らぬ顔でそっぽを向いていた。 「あの時、今日の秋山は昨日の秋山に非ずと、人生の妙諦をわたしに教えてくれた。が、巷で度度噂にきくが、昨日の渡辺兵庫、今日の渡辺兵庫に非ずなようですね」 「な、な、何んだと」  門弟達がみんな刀の柄へ手をかけて、摺り足でじり/\と小吉へ寄って来た。 「馬鹿奴が——やる気かッ。こゝの主の男谷先生はな、お前らのような破落戸《ごろつき》剣術屋を対手にするような人ではない。お前らの対手にはおれ位の奴が丁度いゝかも知れない」  小吉はにや/\そういってから 「渡辺先生、こっちから所望する。一手御教授をいたゞきたいですね。本所深川ところの道場で、のっけから木剣勝負とやっつけられ、だいぶあなたらに金をとられた者があるというが、小吉なら骨が舎利になっても差しさわりのないからだだ。一つ、木剣でお願いしましょう」  渡辺も事こゝに及んではこのまゝ帰れない。その当人よりもごろつき門弟達が息巻いて、やがて小吉が先きに立って、道場の内へ戻って来た。  精一郎は如何にも迷惑な事が出来て終ったというような顔つきだが、対手が小吉では仕方がない。じっと師範の席に坐ったまゝ見ていた。  この直心影流の竹刀は三尺三寸、従って木剣もその通り。小吉はこゝの門人達に命じてそれを受取り、また渡辺にも渡した。 「あの時、同じ直心影の酒井先生を大したものではないような仰せでしたが、その後お逢いになりましたか」  渡辺は黙っている。しかしその無言の間に手首のない不自由から自分の門弟達に手伝わせて、たすきをかけ鉢巻をして、袴の股立を高く、木剣を持って道場の片側に立った。  小吉もこれに対した。木剣は固より真剣と同じだ。が渡辺は少し唇をけいれんさせているが小吉は別に変った様子もなかった。渡辺は相変らず、左の片腕は内ふところのまゝ、片手で木剣をさっと斜め上段に構えたものである。その切っ先きが、次第々々に小さく慄えて来る。  小吉は低目の星眼につけて 「門弟衆も一緒に来るなら来てもいゝよ」  さっと対手の気をぬいた。やがて渡辺の上段は頬へ拳をつけ、顔に沿って真っすぐに頭上へ押立てるような構えに変化した。  が、小吉は少しも動かない。 「やッ!」  渡辺の物凄い気合。敵味方の門人達は一瞬、物の閃めくのを感じて、思わずぱっと眼を閉じた。そして、開いた時。  道場の真ん中に、渡辺が人形でもころがしたように横たわり、木剣はその手をはなれて遥か羽目板の方へ飛んでいた。小吉の鋭い切っ先きがぴたりとその渡辺の肩の辺りについている。  渡辺の門弟達は脱兎のように道場から逃げ出していた。どうしたものか、抜刀が一|口《ふり》、落ちている。  精一郎も門人も暫くは、たゞ目ばたきをしているだけで席を動くものもない。  その夕方。一応の手当で息を吹返した渡辺兵庫は、それでもまだ死人のようにぐったりとして駕へのせられて、割下水の小吉の家へ運ばれていた。横には小吉がぴったり付添っていた。  鋭い鎌のような片割月が出ている。   天の川  まだ本当には正気づかない渡辺兵庫を、駕から自分で背負って連れ込んで来たのを見て、お信よりは利平治が顔色をかえて終った。ほんの三間に女中部屋と台所のついた程の小吉の家は、裏の地主の山口の高い塀で一方が閉ざされているためか、風の通いがなくひどく暑かった。 「介抱してやれ」  小吉はそういって、自分で裏井戸から水をくんで来て、そこへねかせた渡辺の額をぬれ手拭で冷やしてやったり団扇で風を送ってやったりした。 「如何《いか》がなされたのでございますか」  お信がきくと小吉は唯にやっとしただけで 「利平治は知ってるだろう、弥勒寺一件の男だ。左手首を見ろ」 「あゝ、さようでございますか。あの時に酒井先生に」  利平治は右の拳で左の掌を打って、はゝあーんというようにうなずいても一度しげ/\と見直した。 「そうだ、あの時は酒井先生に——。今日は精一郎の道場を荒しに来て、おれにやられたのだ」 「ど、どうしてまたそれをこちらへ」 「何あに一緒にぞろ/\ついて来たごろつき弟子がどいつも此奴もひどい野郎共でな、こ奴がおれの一撃をくらって道場へ転倒するのを見るや否や一人残らず逃げて終った。こ奴がたった一人道場の真ん中に投り出されているのを見たら、妙に可哀そうになってなあ」 「でも、それでは」 「黙って今夜一晩介抱してやれ。剣術遣いなどというはお互なものだ」  それ迄少しあっけにとられていたお信もやっとわかってそれからまめ/\しく介抱をする。唯、利平治は、時々首をたれてふと物思いでもするようであった。  一刻もして渡辺兵庫はむく/\と起きてじろりとみんなを見廻した。お信が狭いぬれ縁の軒先につるした風鈴が鳴っている。渡辺はずいぶん長い間無言でいた。 「どうだ、痛みはしないか」  小吉がいったが、渡辺は真っ蒼に血の気のない頬を少し苦笑にほころばしそうにしただけであった。 「ねてるがいゝだろう」  その二度目の小吉の言葉が終るか終らぬに渡辺はいきなり横に置いてある自分の刀を引ッつかむと、すっと立ち上った。 「誇らしげに、おれに情をかけている気か」  出しぬけに吐きつけて 「血|嘔吐《へど》をはいて死ぬ迄に、何故ぶって/\、ぶち抜かぬのだ」  凄い眼でじっと小吉を見た。右の肩口から首根へかけて紫色に瘤のように腫上っている。  小吉はにやりとした。  渡辺はそれっきり二度と物もいわず、ふり返りもせず、玄関から真っ暗な往来へ履物も無く出て行った。その間に二度程ふら/\ッとした。 「あ、もし、危のうございます」  お信は心配そうに追おうとした。  が小吉は坐ったまゝで 「お信、投《ほう》って置け。お互に鍛えてある、あれ位は何んでもないものだ」  そういってから、ひとり言のように 「好きなようにするもいゝだろう」  お信もこんな人ははじめてだ。思わず、がっくりと腰を落した。小吉はくす/\笑った。  利平治は隅っこに、さっきから、いつになくまるで木偶《でく》のように、そんなことどころではないようにぐったりと首垂《うなだ》れて坐っている。これを見て 「おい、どうしたよ」 「はい」 「滅法元気がねえが、どうしたのだ」 「はい」 「一体、何にが起きたのだ」 「はい」  といって利平治は、またがっくりと首垂れて 「相すみませぬが御新さんより申上げて下さいまし」 「何? お信から」  小吉は膝を寄せるようにした。お信は小さな声で 「申訳ござりませぬ。あの亡くなられました御|祖母《ばゞ》様が——」 「何?」 「申訳ござりませぬ」  お信は畳へ手をついて終った。 「御祖母様が一体どうしたというのだ。利平治、こういう事のためのお前ではないのか」 「はい。では、申上げます」  と流石に利平治はこんどは真正面に小吉を見て 「実は先日から、手文筥《てぶんこ》、お長持など御祖母様のお持物は固よりの事、紙きれ一枚も残さずお探し申したのでございますが御当家御家禄の御切手が見当らないのでございます」 「ふーむ?」 「余り不思議でございますので、念の為めと本日蔵米御役所へ参りましたところ、かねて知合の下役の者が折よくおりまして、その者の申すには、おれも内々の存じ寄りもある、屋敷を探すよりは札差上州屋惣兵衛へ参って見る方がいゝだろうという事で、わたしは真ぐにそちらへ参りました」 「知らぬ間に、御切手を質に札差から高歩《たかぶ》を借りていられたか。はっ/\、あの御祖母様ならそれ位はなさる、すでに亡いお方を悪口してはならんが何分にもこの小吉が気に喰わず、ひどい事ばかりなされたからな」 「そ、それもでござりますよ」  と利平治は泣きッ面になった。 「斯様申しては相済みませぬが、御祖母様は余りにひどいお方様でございました。書類万端を整えて五カ年、上州屋より利子天引で借上げておりました」 「五カ年?」 「これから五年の間、御当家には一合の御禄米も入りませぬ」 「はっはっはっ。そうか。詮もない事だ。御禄米がなくも、幸いおれは五体満足。真逆餓え死ぬ事もないだろう。はっ/\は、そうか、そうか」  流石の小吉も余程驚きはしたらしい。 「お信、落胆する事はないよ。お前がめそ/\しては、麟太郎の生気にさわる。元気で、まあおれに任せて置け」 「はい。申訳も——」 「お前が悪いんではない、詫びる事はない」  利平治は、顔を突出して 「しかもその五年分のお金は御祖母様のお里方へお遣しなされた——」 「もういゝ」  小吉はきっとして 「何にもいうな」  途端に、駈け込んで来たらしい草履の音がぴたりと玄関で止んで 「御免下さいまし、亀沢町の男谷より参りました」  聞き馴れた彦四郎の若党の声である。 「ほい来た」  と小吉はへら/\と笑って 「即刻参上と御返事を申上げて置け」  と立ちもせずに大声でそういった。 「兄上のお召しだよ、おれは行って来るが、お前らもこの先き五年一文の銭も入らないという事は忘れて終え」 「はい、はい」 「御祖母様が小吉憎さに溝へ捨てたと思えばいゝ。諦めが肝心だ」  小吉は、仕合をしたり渡辺を背負ったりして肌着から上まで、びっしょりと汗になっている。 「着替えるよ。その前に、おれは井戸で水を浴びて来る」  素っ裸で裏へ出た。ざァ/\とつゞけざまに水をかぶる音が聞こえる。  亀沢町へ行くと彦四郎は眉に深い八の字を寄せて莨盆を前に白い麻の座蒲団へ坐り、前へ坐って挨拶する小吉へそっぽを向くようにして莨を吸っては吐いた。 「今日の道場の様子をきいた。お前程馬鹿な奴は二人とない。すでに子まであるという人間が何んだ」 「は」 「精一郎に恥しいとは思わんか。自分では一かど道場の危機を救ったつもりか何んかでいるのだろうが、こ、こ、この大馬鹿者奴」  彦四郎はいつもの癖で大きな目をぎょろ/\させ乍ら 「精一郎は、すでにあんな強請などを真正面《まとも》には対手にしない程の人間に成っているのだ。それにお前は何んだ、あんな奴を対手に木剣の仕合など成ってない。わしは未熟だから竹刀にして下さい、門札でも何んでもお持ち下さいという精一郎の気持の鍛錬と、お前の愚かさとを比べて恥しいとは思わんか。あの仕合に勝って、しかも倒れた奴を引っ担いで、一かどのいゝ事のつもりで自分の家へかえるなど馬鹿気切っている。お前はもうあの道場へ出入をしてはならん」 「は?」 「お前のような毒っ気の多い奴は精一郎の側へ寄ってはならんというのじゃ」 「しかし、わたしは団野先生から」 「黙れッ!」  彦四郎は片膝を立てた。 「あの時はあの時、今は男谷精一郎信友の道場。父たるわしから確《しか》と断る」 「そうですか。わかりました。それでは然様致しましょう」 「忘れるな」 「は。それは忘れは致しませんが、兄上は今もなお剣術はほんの武士《さむらい》の片手間の物だと思召しでございますか」 「何?」 「それでは精一郎が可哀そうです。精一郎は心から剣術を修行している。もう十年もしたら江戸にあれの対手をするものが無くなりましょう」 「馬鹿、そんな事が侍の誉れと思うか。わしは、精一郎に一日の半《なかば》は剣術、半は学問をするように申しつけてある。わしは剣術の上達より学問の上達に眼をつけているのじゃ」 「そうですか」 「精一郎は男谷彦四郎の後嗣《あとつぎ》じゃ、剣術ばかりが如何に強くても、お前のように文字も碌に書けない人間は駄目じゃ。真の剣士ではない。また真の侍でもない。わかったか、お前はそんな無学未熟故無頼の剣術遣いなどを対手に道場に於て真剣にひとしい木剣試合などをやるのだ。重ねて確というが今日限り精一郎の道場へは出入はならんぞ」 「承知しました」 「用はそれだけじゃ、帰れ」 「はい」  小吉は一礼すると別に不服らしい顔もしないで帰りかけた。彦四郎はじっとそのうしろ姿を見詰めて 「おい、利平治がお前のところにいるそうだな」  といった。小吉は答えなかった。彦四郎はまた莨を詰めかえ乍ら、小吉は父上五十一歳、すでに老境に入られてからの子だ、甘やかすにいゝだけ甘やかした。その父上は亡くなったがあの爺がついていてはとんと拙いわ、そう心の中で思っていた。  小吉が割下水へ帰った時はもう更けていた。今夜はじめて気がついたが、星空に天の川がだいぶはっきり見えている。  小吉の足が不意にゆっくりした。下水に沿って町を右へ曲ろうとする角に、二人黒いものがしゃがんでいるのが眼に入ったからである。 「おい」  と笑いながら 「弁治だな」 「へえ」  黒い影が二人一緒に立上って 「五助もおります」 「碌で無しの相棒が今頃そこで何にをしていた。何処ぞへ盗ッ人にでもへえろうというのか」 「と、と、飛んでも御座んせん」  と弁治を押しのけて五助が出て 「お帰りをお待ち申しておりやしたんで」 「ほうおれが留守だとよくわかったな。だから手前ら物騒だというのだ」 「へッ/\。実あお屋敷を窺いて見ました」  と弁治 「お広いから一と目で留守とわかっちまった」 「この野郎、馬鹿にしやがる——が、まあ、おれもこの頃あ、こんな有様だ。おまけに今夜は兄によばれ、男谷の道場へも出入り留めよ。明日から、退屈で仕方あねえなあ」 「〆たッ!」  と弁治と五助、全く一緒に飛上って手を打って 「そう来なくちゃ面白くあねえ。いよ/\あゝたあ、あっし共のものになった」  小吉は大声で腹を抱えるようにして笑った。 「止しゃあがれ、いくら落ちぶれ果てたとて、おれあ天下の直参だぜ。手前ら見てえな巾着切や逼出し屋の仲間にされて堪るものか」 「とか何んとか脅かしたって、こっちゃあもうすっかりその気になっちまったから、どうにも出来ねえ」  と弁治。頻りに五助の肩を叩いて 「てめえこゝんところで、逼出し屋は余り外聞《げえぶん》が悪いから足を洗えよ」 「ふン、巾着切だって余り自慢にゃあならねえぜ」 「馬鹿奴。てめえは人の弱味につけこみ、げじ/\見てえな野郎だが、こっちはあっけらかんと油断をしている馬鹿な野郎を、見せしめの為めに狙うのだ」 「こらッ」  と小吉は大声で怒鳴りつけた。 「こんな夜更けに、阿呆見てえな間抜けな科白《せりふ》をいつ迄きかせて置くつもりだ。おれがところへ二人で来た用というのは一体何んだ」   亥の日講  弁治は肱でとんと五助の横っ腹を軽くついて、お前お話し申せというような顔をする。五助は五助で、一つ兄貴からお願い申して呉んねえなという様子で暫くの間埒があかない。小吉は家の方へ歩き出した。弁治があわてて袖を捕えて 「この野郎また飛んでもねえ失敗《しくじり》をやりやして」  といって、ごくりと唾をのんで 「猿江の摩利支天の講金を費い込みやがって」  と、今度は二人一緒にぺこりとお辞儀をした。 「おれにそれをどうしろというのだ」 「へえ」  といったが五助は当人だけにどうにもいい難い。弁治がじれて、 「こ奴の妹というのがなか/\別嬪でしてね。それが両国の水茶屋に出てましたが、もう二、三年も前から摩利支天の神主の吉田蔵人の妾になった。気だての優しい女なもんですから、大層可愛がられて、その縁で五助も摩利支天へちょい/\出入をしていました」 「逼出しをかけたか」  小吉はからかい顔である。 「飛んでもない」  と今度は五助が大きく手をふって 「逼出しどころか妹を可愛がっていたゞきてえと、こっちは滅法気をつかって、悪く思われまい、悪く思われまいで精一ぱい。たまには一杯飲めといってお金を下さっても固く辞退をして頂戴しなかったんですよ」 「ほう」  小吉は暗い中でじっと五助を見詰めた。 「本当にそうなんですよ」  弁治が勢いづいて 「それが半年ばかり前摩利支天もふところが余り良くねえといいましてね、亥の日講というのをはじめました。一人一と月三文三合。五助にもそれからそれと手蔓をもって、信心の者を加入させたら、いくらか小遣になるだろうとの仰せでしてね、こ奴が夢中になって駈廻った迄はいゝんです。歩合の事などではなく一人でも多く加入させて妹の顔をよくしてやりてえ一心なんだが、御承知のような貧乏、遂い知らず/\にその加入金を一文二文と費込んで終いましてね。今はにっちもさっちも行かなくなっちまったと申しますんでさあ。もしこれが神主にばれたら、折角可愛がって貰ってる妹に迄迷惑がかゝる、兄が悪い奴だからといって、もし嫌われでもしたらおのが身を切られるより辛い。何んとかして、|ぼろ《ヽヽ》の出ねえ中に、その穴を埋めてえという」  といった。  小吉は 「わかった」  と強い調子でいって 「摩利支天は侍の神様だ。そこら辺の剣術遣いを片っぱし引張り込めば、五助の費込みの穴埋め位はすぐに出来るだろう」 「へへーえ、存じませんでしたが摩利支天というのあお武家様の神様なんで」  と顎を突出すようにする五助へ 「馬鹿奴、何んの神様かも知らねえでお前講中へ人を入れたか」 「へえ」 「あきれた野郎だ。あれはな、お日さまの眷族だ。通力自在。昔から武家がこれを念ずれば一切の危難を免れる勝利の神様となっている。その神様の講金を費込んだのだから、今にきっと大罰が当るぞ」 「罰ですか」 「そうだとも。唯、そ奴を避ける法が一つある。お前、すっぱりと足を洗って堅気になり、名前もけえて神様をごま化して終う事だ」 「そんな事が出来やすか」  と弁治が顔をくっつけた。 「出来るとも。その代り、今迄堅気になりましたの足を洗いましたのといっては蔭でちょいちょい悪い事をやってやがる。それをやってると、やがて四ン逼いより外には歩けねえ犬見たような姿になるぞ」 「ほ、ほんとですか」 「嘘だと思ったら、好きなようにしろ」  やがて小吉に別れて戻る二人は、互に肩を抱合って、ぽろ/\涙をこぼし乍ら 「有難てえ/\」  と何度も/\くり返していた。  小吉が猿江の摩利支天へぶらりと拝みにやって来てから、もう三月《みつき》も過ぎて終った。少し夜更けになると冷え/\して、もう冬がすぐそこへ来ている。  神主は小吉の顔をみるといつも逼うように丁寧に礼をした。 「剣術をなさるお方々にお顔の広い勝様のお蔭で亥の日講も四百人にもなりました。来月の亥の日には、神前にて奉納の踊など神いさめを致し度く思いますから、何分にもどうぞ宜しくおたのみいたします」 「承知した」  小吉はうなずいた。誰にも一とこともいわないが講金の歩合は一文残らず五助に渡したし、四百の講中三百迄はみんな小吉が引入れた人達だ。江戸中の剣術遣いは固より、百姓町人、両国界隈の大道での小|商《あき》ン人《ど》、さては巾着切から掻ッ浚い、見世物小屋の若い衆までいる。固より弁治も骨を折ったし、幼馴染の緑町の縫箔屋の長太、深川油堀の前町蛤町の金太郎まで総出で骨を折った。  実はこの摩利支天は二、三年前どうした訳か不意に盛り出して、神主の吉田も金が儲かり、実弟の源太郎へ大竹という御家人の株を買ってやった。それから五助の妹を妾にしたが、それがまた妙なものでどう風向きが変ったものか、急に信心の者が少なくなったところへ今度また亥の日講をやって、忽ち盛んになったものだ。神主はいつも、勝様の方へは足を向けては寝られないといった。五助との関係は知らない。  十月の亥の日、朝起きたらそこもこゝも真っ白い霜だ。いつもより一と月早い朝霜だが、いゝお天気で、だが朝の中は時々頬を切るような冷めたい風がそよいだ。  その頃は本所猿江町といったが今は深川。小名木川に沿って猿江橋の舟会所前を通って左へ入ってもよし、菊川橋から真っすぐ東へ出て旗本の斎藤摂津守の屋敷に沿って右へ切れてもいゝ摩利支天堂。まだ霜の消えない中に、この前へずらりと大勢の小商ン人が見世を出した。  弁治が小吉を迎えに来た。紋付を着て来た。小吉はぷッと吹出して 「お前、紋付を着て参詣人のふところを掏るのか」 「ご、ご、御冗談でしょう。今日はあっしも摩利支天の世話人の一人、稼ぎどころの騒ぎじゃあござんせんよ」 「おゝ、お前も世話人か」 「三十八人の世話人、一人残らず紋付を着て来いというあゝたの仰せだから、いやもうあっちでもこっちでも大変な騒動だ。あゝたはね、あっしに足を洗え/\とおっしゃいますがね、どうしてどうして、うか/\とその口車にはのられませんよ。あっしと、五助と二人分の紋付を借りる損料屋の前金で、きのうまた久しぶりに稼ぎをしなくちゃあならねえ羽目になりましてね」 「馬鹿奴、そんならそうと何故おれがところへいって来ねえ」  弁治はにやっとしただけで無言だった。そこに利平治が立っていて、これもまた淋しそうに、にやっとした。  やがて二人が家を出る。出際に 「お信、お前もお詣りをさせたいが、麟太郎がひょいとして風邪でもひくといけないからね」  そういって行った。  摩利支天では神主は新調の立派なぴか/\した装束を着て正座に坐っている。講中がぞろ/\ぞろ/\入って行く。小吉は弁治と二人、門前の露店をひやかし乍ら 「賑やかだなあ」 「へえ、みんな摩利支天はじまって以来と眼を丸くしています。いゝ小前もンの助けになりますね」  この時丸髷の若いいゝ女が斜め横に立停って瞬きもせずにじっと小吉を睨むように見詰めていた。眦が切れ長に吊っている。小吉は知らない。  流石に弁治だ。これに気がついた。 「勝さん」 「なんだ」 「あ、あれ、あれを」  真逆指さす訳にも行かないので、ちょっと顎をしゃくって、その女の方へ眼を流した。 「おゝ」 「知ってらっしゃいますか。妙な怖い顔でこっちを見てますね」 「はっはっ。あ奴あな。おれが御|祖母《ばば》様にいじめられて家出をし、伊勢路で乞食をした時に道づれになった黒門町の村田ってえ紙屋のせがれの長吉というものの嫁になる筈だった女だが——いつかもおれがところへ不意にやって来たことがある薄っ気味の悪い奴だよ」 「立停って睨んでますぜ」 「参詣よ、ほっとけ」  小吉は、どん/\商《あき》ン人《ど》の前を通って摩利支天へ入って行った。  夕方になって催しが一段落になると、講中へ酒肴、後ちにはお膳が出てだん/\酔払うものがある。小吉は弁治と五助に 「お前ら、一ぱいも飲むなよ。こんな時の只酒に酔っ払うのは一番|見難《みにく》いものだ」  ときびしくいった。そんな事をいいながら見ると、神主の吉田がもう大変に酔っ払って、日頃はおとなしい人物なのだが、大声で喚き出している。 「この吉田蔵人には、かねてから金などは馬に喰わせる程もあるのだ。いくらでも飲み食いするがいゝ。この頃噂にきくと、亥の日講が盛って裕福になったなどといっているものがあるそうだが、こんな講中が何んだ」  弁治がもう顔色を変えて神主の側へ立って行った。 「もし神主様、あゝた、こういう席で申していゝ事と悪い事がございましょう。今日は亥の日講でございますよ。まして、あすこには勝小吉先生もいらっしゃる。お静かになさいまし」 「何?」  と神主はじいーっと弁治を見て 「お前は世話役の松坂町の弁治だな。世話役が何んだよ。勝先生が何んだよ。この摩利支天はな、常に神主の吉田蔵人と申すものの背に乗っていらっしゃるのだ。お前らには見ようとしても見る事は出来ないが、修行を積んだこのわしには何時でもお姿を拝ませるのだぞ。未熟のものにはお姿を見る事も捕える事も焼く事もぬらす事も出来ない。弓を持ち御剣を持ち天獣にまたがっていつも日の光の前を矢よりも早く駈けさせて来られる。そのこう/″\しいお姿を拝む事の出来ないお前らだ。講中が盛んになったのはそんなお前らの為めと思うたら飛んだ間違いだ。この神主の神通力によって、こうして人が集ったのだ。文句をいうなら、お前も、勝さんも、とっとと帰って終え。お前らがかえったって、講中が一人でも減ったら、吉田蔵人が江戸中を逆立で歩いて見せるわ」  いきなり、ぱっと平手で弁治の横頬を張った。  弁治が頬を押さえて引っくり返った途端に、小吉が神主の前へずばッと膝を揃えていた。 「おい、吉田、今の言葉をもう一度云って御覧」 「これは勝先生」 「おれは酒を飲まぬから知らぬが、生酔でも本性はあるだろう。おれがいなくなっても講中は一人も減らぬといったな」 「その通り。神の力で集ったものが、あなたがいてもいなくても、かゝわり合いのない事だ」 「そうか。それに間違いないな」 「間違いない」 「この大勢の人の中で、神主ともあるものが仮りにも講中の世話役を擲るとは不届千万。もう一度訊くが勝がいなくなっても講中は一人も減らぬな」 「減るものか」 「よし」  と小吉はすでに立ちかけて 「おい、勝小吉は御旗本だぞ。大人気ないが神主風情に然様《さよう》な太平楽を並べられて引込んでいては天下御威光に相かゝわる。おれは帰る」  といって、 「みんな、勝は唯今限り亥の日講はぬけた。お、弁治も来い」  堂の内はまるで蜂の巣をついたようになって終った。主立った講中は、みんな小吉の足許にまとわりつく、刀の鐺をつかむ。前へ立ちはだかる、袖をつかむ。 「酔っているんですよ勝様、勘弁してやって下さいましよ」 「いや酒が好きならいくらでも飲め。がその為めに取乱したからとておれは容赦は出来んのだ。この男の身状《みじよう》についてはいろ/\耳にした事もある。今日はもう勘弁がならぬ。勝は講をぬけた。みなさんは好きになさるがよろしい」  さっと振払って、もう小吉の姿は人々の渦の中にはいなかった。堂の段々を降りたところに、またあの長吉の許嫁だったお糸が立っていた。うしろから転がるようについて来た弁治が 「あの女、またいやがる」  そういったが、小吉はそっちを見向きもしなかった。  途中まで来た。 「真逆五助はついて来まいな」 「へえ。知らぬ顔でこゝにいろと叱りつけて来ました」 「お前にしてはそ奴は上出来。そうしなくてはいけない。あ奴の妹思いが無駄になっては可哀そうだ——が、弁治」  と暫くむっつりとしてから 「考えて見ると、おれもまだ一人前ではないようだなあ」 「え?」 「神主が西の久保で百万石も持ったような太平楽を並べるからとあんなところで腹を立てるようでは、はっ/\/\、兄に叱られるのが本当かも知れない」  が、心の中では何んだかおれもあの兄に似ているようなところがあるな、血の繋がりは争えぬものだと、ふと、そんな事を思った。   裏だな神主  東から横川沿いに菊川橋《なかのはし》へかゝろうとした時に、ばた/\ばた/\大勢の足音が入乱れて追って来る。地響きだっている。  横川へは月がぽつんと映っていた。橋の真ん中で小吉と弁治は前からも後ろからも身動きならぬように紋付羽織の摩利支天講中の世話役達に取りすがられて終っていた。 「勝様、神主も御承知の通りふだんはあんな人じゃない。今日は余りうれしいものだから遂い飲みすぎてあんな不始末になりました。すゝめたわたし共にも罪はあるのでございますよ。どうぞお腹も立ちましょうが、一つわたし共の白髪頭に免じまして、講中をやめるの何んのとおっしゃらず、御勘弁を願います」  そういわれると講頭《こうとう》になっている酒屋の伊兵衛をはじめ月の光で白髪が目立つ。 「勝様に抜けられては亥の日講はすぐに潰れて終いますよ。どうかまあ御勘弁下さいまし。頼みます、拝みます」  聾になる程がや/\いうが、小吉は前の人達を払うように押しのけて一とこともいわずに歩いている。 「天下の御旗本様が亥の日講にへえってたところで百文の得になる訳じゃなし、神主にあんな|の《ヽ》た言をいわれては、勝様はもうお許しはなさらねえ。さ、みんなけえった/\——え、おう、おとなしく道を開けねえかえ」  弁治が大声で怒鳴った。 「弁治さん、あゝた迄そんな事をおっしゃってはいけませんよ。あゝたはこっちの頼みの綱ですよ。え、お詫をしておくんなさいよ。どうぞさあ」  と一人の白髪頭が首へしがみつくようにしたが 「いけねえ/\」  弁治は頻りに首をふる。  このみんながとう/\割下水の小吉の家までついて来て終った。大層なさわぎだからお信が思わず顔を出した。  世話人達にとってはこれこそ幸いだ。早速狭い土間へ坐り込んで、手を合せて頼み出した。 「騒々しい、眠ってる子が起きるではないか」  と小吉ははじめて口をきいて、お信へ眼くばせして奥へ入った。  弁治は内心にやりとした。小吉はもう怒ってはいないと感づいたからだ。が 「けえれ、けえれ」  と、も一度声を張り上げて 「どうしてもけえらねえなら、おれがいう事をきくか」 「どんな事でも合点しますよ弁治さん」  と酒屋の伊兵衛が顔をくっつけて来た。  弁治は少々反り身になった。 「よし、それなら教えてやる。先ず第一に、講中世話役一統の添印をして、神主から誓文を入れる事だ」 「へ? 誓文」 「御旗本様へ対し今後決して慮外仕りませんという事だ」 「へえ、承知をいたしました」 「それからな、明日の朝、何んとかしてこのおれが勝様へお願い申し、もう一度、摩利支天へお出ましを願うから、世話役一統紋付で並び、神主は狩衣を着て門外までお出迎えしろ、その上で改めて今日の不調法をお詫びするのだ。どうだ、お前さんらこれが出来るか」 「へえ」 「神主は勝様の大恩を忘れて慢心している。それをこらしめなくちゃあ、だん/\講中が減るばかりだよ」  酒屋をはじめ、一統顔を集めてひそ/\相談をした。一人が 「よござんすとも」  と、いって 「その代り、弁治さん、きっと勝様をお連れ申して下さいましよ」 「そっちがいゝなら、こっちも一肌ぬいで見る」 「どうぞお頼み申します」  みんな帰りかけた。小吉へもお信へも挨拶をしたいが、子供が眠っているからといった時の小吉の眼が凄かったので、大きな声も出せず、尻込みの恰好でぺこ/\お辞儀をするだけで引揚げた。  途中で伊兵衛が、ぶつ/\いう。 「全く神主にも困ったものだ。明日はまた御馳走を出して、こんな事があった事が、後々外へもれないように勝様のお口をお留め申さなくては。摩利支天が潰れて終いますよ」 「そうですともさ。勝様が入れて下さった講中のいゝお方がぬけたんでは、すぐに火が消えますよ」 「全くです」  みんな真剣に眉を寄せては首をふり/\歩いている。  次の朝はまた霜だったが、弁治が先立ち、小吉が紋付姿で摩利支天へやって来た。世話人達は夜の明けない中から集って、見張を出していたから、それと知ると、残らず飛出して門の外へ並び、神主も狩衣で出た。真っ蒼な顔をしている。  小吉がこれをちらりと見ただけで、先ず堂へ入ろうとしたら 「勝様、神主さんの宅の方に些か用意がしてございます。どうぞ、あちらへ」  と伊兵衛が白髪頭を地へつけるようにした。  神主の家の広間。正面の床の間に小吉の刀をかけ、その小吉の前には神主の吉田蔵人が両手をついて、改めて昨日の詫びをいって、以来きっとつゝしみますと頭を下げた。  小吉は、右側の世話人席の一番上に、若い侍が一人坐って、腕組みをするような恰好で、自分を見ているのに気がついた。はゝあーん、こ奴だな、神主に御家人の株を買って貰った実弟の大竹源太郎というのは。顔も似ているし、同時に何にかしら、自分に敵意でも持ってるらしいものをちらっと感じた。何んという目つきをしているのだ。こんな奴に恨みを持たれる訳はないのだが——。  その為めに、小吉は妙にむかっとした。 「おい、神主さん、お前さんは、裏店神主だから何んにも知らぬと見えるね、御旗本へ対してあんな無礼をするのはひっきょう天下御威光を軽んずるからだよ。講中もやっと少々目鼻がつきこれからというところで、すでに心|慢《おご》っている。ぷっと一吹きすれば飛んで無くなるような五百や八百の講中を持ったとて、何様な気になっちゃあ困ることだ。くれ/″\も気をつけるがいゝね」 「はい」  神主は素直そうに頭を下げたが、同時に、ちらりと横眼が大竹へ流れたのを固より小吉は知っている。  何んとなく妙だ。世話人達も折角ここ迄お膳立をしてまたぶち壊れでもしては大変だと思うから、一生懸命お世辞をいって 「さあ、御神酒だ/\」  と急いで酒のお膳になる。  まただん/\皆々が酔って来る。小吉は固より酒は嫌いである。にや/\して四辺を見廻していると、突《だ》しぬけに大竹が席を立って、ずばっと小吉の前へ突立った。 「おい勝さん、御旗本はお前さん一人ではない、おれも天下の直参だ」 「そうかえ」 「おれは神主吉田蔵人の実弟。満座の中で実の兄が裏店神主などと恥をかゝされては、黙っている訳には行かない。さあ、これからはおれが相手だ」  大竹は立派な紋服を着ている。それがどうした訳か、ぱっと羽織をうしろへ飛ばして片肌ぬぎになり、向う鉢巻をしたものである。 「さ、小吉、表へ出ろ」  小吉は坐ったまゝで腹を抱えるように大声でから/\と笑った。 「はっ/\/\。口では天下の直参などと抜かすが、雑人《ぞうにん》の喧嘩を見たように向う鉢巻片肌ぬぎとは何という事だ。侍は侍らしくするがいゝよ。こっちは侍だから仲間《ちゆうげん》小者の対手は出来ねえよ」  大竹はいきなり片足で小吉の前の膳椀を力一ぱい踏みつぶした。 「こ奴、気が違ったわ」  と小吉はまだそのまゝだ。  大竹は今度はそこにある吸物椀を手にとると、坐っている小吉の顔を目掛けて正面からぶっつけた。  小吉の身がさっとかわると同時に、うしろの刀かけの自分の刀をとって、すぱっと横っ飛びに白髪の伊兵衛のうしろへ避けた。 「おい、神主」  一緒に怒鳴りつけて 「お前ら、云い合せたな」  神主は、ごくり/\と唾をのむだけで一言もいわない。 「よし、それなら望み通りおれが対手になってやる」 「糞を喰らえ」  大竹は抜放ってさっと斬込んで来た。 「馬鹿奴。江戸に住んでいて勝小吉を知らねえのか」  大竹の利腕を逆にとると、その広間のど真ん中にまるで大きな樽でも転がしたように投げつける。余力でずる/\と座敷の隅の方へすべって行った。 「逃げよ、逃げよ」  神主が泡を喰ってわめき立てた。と一緒にその神主は伊兵衛に抱きついて、二人ぐる/\舞いをしながら、勝手の方へ逃げて行った。  小吉は大竹を追おうとした。みんなその足へしがみついて 「勝様、勝様」  と叫び乍ら、一方大竹へ 「丸腰になりなされ、丸腰でお詫びをなされ」  泣くのかわめくのか、耳を裂くような声の中に大竹はもう早くも大小とも刀を投げ出し意地も外聞もなく鼠のように這って逃げて行って終った。  小吉は立ったまゝで 「おい、世話人達はこの小吉に、神主兄弟を斬らせようという算段か」  といった。伊兵衛が勝手方の大勢の人の間から這い出して来た。手を合せている。 「と、と、飛んだ事になりました」 「はじめから書いた芝居に何にが飛んだ事なものか」 「ち、ち、違います勝様。芝居どころか本当にあなた様にお詫びだったのでござりますよ」  慄えて言葉がはっきりしない。 「何んでもいゝ。大竹源太郎の家は確か五間堀の伊予橋だときいている。明朝勝が改めて形をつけに行ってやる。さ、弁治、帰る」  伊兵衛が夢中でまた小吉の脚へしがみついた。  小吉は一寸からかっているような顔つきである。伊兵衛は 「こ、こ、このまゝでは、あたくしも摩利支天講頭の顔がまるつぶれでござります。扇橋の酒屋の伊兵衛と云えば老ぼれながら少しは仲間内に知られたおやじ。江戸っ子の端くれが、こんな始末では他の講中は固よりの事、商売の仲間にも顔向けがなりませぬ。こゝで神主兄弟の事をはっきりしなくては何にか勝様に悪いたくらみをしておだまし申したようで、この年まで曲った事一つせず真っ直ぐに世渡りをして来たものの冥路《よみじ》のさわりになる。これからすぐに、神主と大竹様をこゝへ連れ戻して話をつけ、固よりわたしも今日限り亥の日講はぬけます。が、それから先きは勝様のお心次第、不届もの奴とこの白髪首を斬られましても決して異存はござりませぬ。勝様少々の間お待ち下さる訳には参りませぬか」 「いやお前が待ってくれというなら、待ってもいゝが、本当に神主兄弟をつれて来れるか」 「へえ、講中一統できっと連れて参ります。話の黒白をつけなくては、講中一統も承服出来ないと思います」 「よし、それじゃあ待とう——おい、弁治、その辺を片づけてくれ。酒肴で塵捨場《ごみすてば》のようなそんなところへ、おれは坐ってはいられない」 「へえ、へえ」  弁治と共に講中の人達が、勝手の方へ行こうとした時であった。  六十すぎた白髪を切髪にした老婆と、その手をひくようにした美しい丸髷の女が、狼藉の膳椀の中を泳ぐようにしてこの座敷へ入って来た。 「おや」  弁治がびっくりした。 「あ、あ、あの女だ」  小吉も固よりこれを見た。例の紙屋の長吉のお糸。これが落着き払った態度で静かに小吉の前へやって来る。小吉は知らぬ顔でこれを見詰めている。 「御免下されませ」  お糸は、老婆を先きに坐らせてから真っ正面から小吉に礼をした。 「こゝは女子衆の出て来るような場合ではないようだが、お前さんら何んだね」 「はい、あたくしは御家人大竹源太郎の家内糸。これは源太郎の母でございます」 「ほ、ほう、お前さん大竹の新造かえ」 「はい。あなた様とはじめてお目にかゝりました時は、町人紙屋長吉の許嫁でござりました。今は天下直参の家内でございます」 「へへーえ。偉えね」  流石の小吉もあきれ顔である。にたりとして 「それが何んでこゝへ出て来た」 「義母《はは》共々夫源太郎の不調法のお詫びに参りました」 「そ奴はとんと迷惑だ。こっちは仕掛けられた喧嘩だから、大竹源太郎は斬っ払うつもりだよ」   納戸の中  大竹の母は取りも直さず神主の母、おろ/\と泣いて 「お助け下され、お助け下され」  とまるで念仏でも唱えるように手を合せて繰返すだけである。哀れというよりも何んだか少し薄気味が悪い。お糸は 「勝様」  ときっぱりとして 「あなた様のお腕前では、大竹を斬るはいつでも出来る事でございます。あたしもあの者の家内、殺される前に、一と言、あなた様に申上げたいことがござります」  と小吉の顔を見詰めている。 「何んのこと。いうがいゝさ」 「みなさまのお出でなさるところでは如何とも存じます。どうぞ、ほんの暫しの間、あたくしと二人きりになっていたゞき度う存じます」 「そうかえ」  小吉はお糸について行った。勝手の手前の如何にも社家らしい立派な杉の広戸のはまった納戸の中へ案内すると、落着いて、その戸をすうーっと引いた。  納戸の中は薄暗くなった。お糸は無言でいる。薄化粧をした肌の匂いがほんのりしている。 「勝様」  とお糸は低い声ですっと側へ寄って 「どうしても大竹源太郎をお斬りなされますか」 「お前さんは知るまいが、あ奴はおれに吸物椀をぶっつけた。旗本を旗本とも思わぬ慮外、先ず斬ッ払うが当たり前だろう」 「さようで御座いますか。その御決心なら、それも止むを得ないことでござります。でも勝様、あれは兄の神主と馴れ合のことでござりますよ。あゝいう人達が斯うすれば斯うと、たくらんだ事に、本所深川へかけてお顔が売れ、ところの元締ともいわれているあなた様が見す/\おのりなさるのは少々大人気なくは御座りませぬか」 「うむ?」 「神主は、あなたのお蔭で亥の日講がこんなに盛んになったがその為めに毎月少なからぬ歩金をとられるばかりか後々は必ず講中を引っ掻き廻されて、神主はいっこうに頭が上らず、あなたの顎に使われる上に、行く/\はきっとまとまった無心をいわれる事だろう。こゝで怒らせて出て行って貰えば、後々歩金をとられる心配もなく、講中を引っかき廻される心配もなくなるとの黒い腹。大竹は大竹で、ところで顔を売って、剣術遣い、ならず者があなた様のお名前をきいただけでも手をひくという、そのあなた様と一応やり合ったという唯それだけの事でも、結構名が売れて幅が利き、ぶらりとふところ手をしていても金儲けになる。固より正面からぶっつかっては赤恥をかくだけだが、大勢講中のいる中で吹っかけて行く喧嘩なら——」  とお糸はまたいって近々と小吉の側へ寄って来た。  小吉はにや/\笑い顔できいている。お糸は色っぽい声で 「喧嘩はきっとみんなに留められ間違っても小吉に斬られるような事はないというつもり。こんな人達を対手に、あなた様が本気で喧嘩をなさっては、余り馬鹿々々しいではござりませぬか」 「へーん」  と小吉は反るような恰好をして 「そうきけば一々合点も行くようだが、お前は大竹の新造《しん》さんで、神主には義理の妹。味方の腹をそうあけすけにぶち開けるのは妙ではないか」 「さようで御座います。でもね勝様、あたくしは。ね、ね」 「うむ?」  お糸は上目遣いに小吉を見た。 「ほほゝゝ。申しませぬ。申しませいでも何れはあなた様に、はゝあん、こうかと察していたゞく時がござります。あたくしは、亥の日講の歩合は一文残らず五助とやらに渡り、あなた様がそれに手もつけてはいられない事を存じて居ります。神主も大竹もそれはよく知っているのでございますよ。それだけに、いっそあなた様が怖い——あなたは立派なお方でござりますねえ」 「そうかねえ」  と小吉は頭を叩いて、ぷっと吹出した。 「あたくしは、もう/\、あの人達が嫌やになりました。自分の夫、大竹源太郎の如何にも醜い卑屈な心を見て、その時から口をきくも嫌やになりました。あたくしは侍というものがこんな卑しいものだとは思いませんでござりました」 「へへーえ」 「勝様、あたくしは、長吉さんとの許嫁を破談にしたのは——実は永代橋で、あなた様のお姿、それからお噂を長吉さんからきいて長くもない一生を人の妻で送るなら、そうしたお侍のお側で——ほほゝゝ、町人の家に生れ町人の家に育っても、心さえ通うたらお侍の御新造にもなれない事はござりますまいと決心を致しまして」 「お前《めえ》、少し馬鹿だねえ」 「え?」 「長吉のようないゝ男を捨てて、株を買って侍になった神主の弟のところなんぞに嫁入るとは、ほんに余り利口じゃあねえよ」 「如何にも仰せの通りでございました」  とすぐにお糸は 「今日限り離別のつもりでございます」  といった。  小吉は流石に目を丸くした。 「離別だと」 「はい。もう大竹のような侍とは一夜を共にするにも忍びませぬ」 「ふーむ。早えね」 「はい。あたら女の身をとんだ損もうを致しました」  お糸はうつ向いて 「勝様」  思い余ったように、小吉にくっついて、ふっと熱い呼吸が小吉の頬へさわった時は、小吉はもう杉戸を力一ぱいに押開けて燕のような早さで、元の酒の坐へ戻っていた。  神主の母親が、そこへ行く板の間へべったりと坐って両手を合せて小吉を拝んだ。 「何にもかもわかった。お袋さんもう心配はいらないよ。小吉は子供の腕はねじねえからね」  講中がみんな飛蝗《ばつた》のように頭を下げている。 「大竹の新造から芝居のからくりをきいてみんな知れた。おれはもう帰るから、お前さんらの考げえで、詫びをしたいというなら明日昼までに、神主と大竹が揃って、おれがところへやって来い。但し手ぶらではいけないよ。誓文を持って来るのだ。昼まで待って来なければ、その時限りあの二人はこの深川から本所へかけ、勝を対手に張合うつもりだと、おれは思うからそう伝えてくれろ」 「ま、ま、勝様」  伊兵衛が何にかいい、神主のおふくろも何にかいいたそうに身悶えして近づいて来たが、小吉はもう玄関へ帰りかけた。弁治がすぐついて来て、さっきから唯小さくなっている五助もついて来そうにしたが、これは小吉にじろりと睨まれて、へた/\とまたそこへ坐った。  次の朝。神主と大竹は、おじ/\しながら首を縮めて小吉の家へやって来た。酒の上とはいえ、これからは決してあなたの仰せに違背しませんというような誓文をもって、外には講頭の伊兵衛と他に主立った二、三人、内の様子を案じていた。 「おい、大竹、お前買った株にしろ何んにしろ、座敷牢へ入って生涯御番入の見込みのないおれなどとは事違って、まともな侍ともあるものが、ところに顔を売って遊んで飯を喰おうなどというは、飛んでもない量見違いだ。御支配方の権門筋へ日勤して、一日も早く番方、役方何れなりとも、御上の御奉公をしなくてはいけないよ。おれがような侍の屑見たような男が御説法もないもんだが、事の道理は先ずそんなようなものだ。今日|向後《こうご》は気をつけるがいゝね」 「はあ」  大竹はそういって、神主と一緒に頭を下げた。 「そうでなくては第一あの御新造が承知をしまい」 「はあ。あれは」  と大竹は唾をのんで 「昨夜家出をして終いましたよ」  あんな事はいっていたが、真逆と思っていたので小吉もびっくりした。 「喧嘩でもしたかえ」 「そんな事もありませんが」  と大竹は 「遅かれ早かれ所詮はこんな事になるのでしたろう」  神主が横から口を出した。 「何あにね、あれは町人より武家、武家も旗本で強くて偉くなる人というだけを自分の亭主の目安にしてる女だから、少しでも自分の気持に満たないと逃げ出すのですよ。ゆうべもあれから母が大変なさわぎで、自分で里へ行ってみたが戻っていない。今朝も暗い中に一度使者をやったが戻っていない。そして二度とは戻らぬという書置が大竹にあった訳で」 「それは心配なことだな。云わば一枚の紙きれだが武士が持参の誓文だ。おれが方はこれでとくと承知をしたから、早くけえって、ともかく御新造を探さなくてはいけないな」 「有難うござる。では亥の日講の事は何分よろしく」  二人は連立って外へ出る。世話人達も一緒になって、冷めたい中をみんな急ぎ足で去って行った。 「馬鹿奴ら」  小吉がひとり言をいって、お信の方へ行くとお信に抱かれた麟太郎が、眼をぱっちり開いてじっと入って来た小吉を見た。利平治は何にか用達しに出ていない。 「旦那様」  お信はいつになく、じっと小吉を見て切口上な口調でいった。 「あ」 「お願いがござります」 「ほう、改まったな」 「はい。わたくしは、先程からこの麟太郎の黒瞳勝ちな澄み切った眼を見てつく/″\考えたのでござります。あなた方のお話声をこの子はきいておりました」 「はっはっ。それあ人の声だ、聞こえもしようよ」 「さようで御座います。それ故にお願い申したいのでござります。人のいざこざ、世のいざこざ、人の醜さ、世の醜さ。凡そ正しいお方が正しくこの世に生きて行くにはいりもせぬそのような事は、この麟太郎の耳へは入れたくないのでございます」  小吉はぎょっとした眼つきをした。 「小普請の者はとかく世の人方にうとまれます。それというが貧しい為めもございますが、暇にかまけて日頃の行状がよろしくないからなのではございますまいか」  日頃は唯おとなしく自分に従って物優しいだけのお信が正面切ってこんな事をいうなどとは夢にも思わなかった小吉は、まるで平手で顔の真正面からぶたれたようにびっくりして眼をぱちぱちして首を突出すような恰好をした。 「麟太郎にはそうした事は、ほんとうにほんとうに聞かせ度うはござりませぬ。唯今のようなあのような人が来て、何にかと話す一つ/\が湧き出す清水のような麟太郎の心に、いつ、ふと墨を落すような事にならぬとも限りませぬ。彦四郎兄様がいつぞや仰せでございました。お前の祖母様は世にも珍しい意地の悪い人じゃ、お前のからだにもその血が伝わりまた子供にも伝わる、気をつけよと——この節また改めて仰せでございました。この子にはいつももろ/\の不浄を見せ、またもろ/\の不浄もきかせてはならんぞと」 「何? 兄上が」 「はい」  小吉は黙ってうなずいた。そして心の中ではその通りだと思った。が 「お信、お前兄上にかぶれるもいゝがおれはな、子供には不浄は不浄のまゝに見せ、清らかなものは清らかなまゝに見せる。詰りは世の有様を、その在りのまゝに見せて育てて行くがいゝと思うんだ。本当に穢れた世の中に浄らかなものばかり見て成人して、さてはじめて穢れた世の中を見て、その時戸惑いするような人間ではいっこう物の役には立つまいよ」 「いゝえ、違います旦那様。成人をすれば穢れたものと、浄らかなものの区別は自分でつくものでござりましょう」  小吉はにこっとした。 「そうかねえ」  おれがお信は思ったより偉い奴だ。これあこの母親の力で麟太郎は物になる。小吉はしみ/″\そう思った。 「お願いと申しまするは、いゝお話ではないようなお人とは、この家ではお逢いなさらぬようにしていたゞき度いのでございます」  お信をまじ/\見て 「わかったよ、しかと承知したよ」 「有難うございます」 「鳶でも鷹を産む、おれもこ奴を鷹にしたいわ」  途端に玄関で声がした。 「御免下さいまし」  小吉は 「ほい、五助だ」  とあわてて立って 「こ奴も不浄の組だ」  飛んでそっちへ出て行った。   雪の夜  鼻っ先きが幅二間そこ/\の割下水。疎口《はけぐち》のない青錆のういたじいーっとした水面に狭い板橋がかゝっていて、それを渡ると津軽屋敷の裏塀になる。そこ迄五助を引っ張るようにして行った小吉は、不意に 「お前が、おれが仲間だと、神主共に感づかれては拙いじゃねえか。当分来ねえが良くはないか」  とそういって 「おい、泣く事はない、蔭へ廻って、おれや弁治が、またどん/\と講中を寄せて歩金をお前にやる事だから心配するな」  五助を抱くようにしてとん/\と肩を叩いてやった。 「あっし故に勝様にあんな迷惑をかけては死んでも申訳ないのですよ」 「何にをいってる。とんと腹の悪い奴は神主と大竹だ、お前はかゝり合うな」 「へえ。でもねえ。元々あゝたが亥の日講に骨を折って下さるのは、あっしを助けて下さる思召しからなんですから」 「強請屋が気の弱いこったの」  と小吉は笑って 「ところで、弁治もそうだが、お前もおれがところへ姿を見せてはいけない。おれがお信に叱られたわ」 「へ?」 「巾着切だの強請屋だのは固よりの事、凡そ人相のよくねえが、麟太郎の眼に映ってはいけないと、お信が兄にきびしく云われている様子よ」 「へえ。と申したところで」 「黙ってそういう事にして置け」  日が経つ。  詫びはいれたが小吉はどうにも神主と大竹の腹が気に入らないので、自然に摩利支天へも足が進まない。人の噂では、小吉が連れ込んだ連中は固より、だん/\講中が減って眼に見えて大層なさびれようだという事だ。  この年の瀬が近づいて来る。  小吉は石原町の大旗本徳山五兵衛の稽古場にこの頃柳剛流をよく使う大川という摂州人が滞在して、望みのものには喜んで教えているということを耳にした。近くもあるし早速出かけて行った。  その晩はひどく寒く時々ぱら/\と大粒の雨が降ったが、更けたら霙にでもなるかも知れない。  徳山の裏門を入り、稽古場へ近づくとわあ/\と大勢の人声がする。 「柳剛流かあ」  小吉は、途端にふふンというような顔をした。 「江戸っ子が脚を払う剣術を考え出したかえ」  流祖岡田惣右衛門は江戸人だ。これがはじめ伊庭家の心形刀流《しんぎようとうりゆう》を学んだが、所詮剣術は戦場の実用に適すべきである。道具を備えたところばかりの撃合《うちあい》をしていても、いざという場合には何んにもならぬ。従来の剣法をあき足らずとして新たに脚を斬るの術を工夫して自ら一派を名乗った。  小吉はかねてこの流儀には余り胸糞はよくなかったが、今夜は一つひやかして見るつもりもある。それに一度流祖の惣右衛門に出会って見たいと思っていたのがいつも諸国を修行中で、とうとうその顔を見る機をさえ得ずにいる間に、去年俄かに病んで歿して終った。それやこれやでやって来た。  小吉の姿を見ると、勝先生だ、勝先生だ、そんな囁き合う人々の声がした。  柳剛流の大川は四十をすぎた色白の人物だったが、木剣の一応の型を披露してから、今、巻藁を出して、居合斬りを見せようとしているところであった。好人物のようであった。  道場の真ん中で真剣を頭上に真っすぐに押し立てて、心機合一、そしてぱっと気合の裂けるのを待っているところであった。  小吉は一礼して、一隅に坐ってじっとこれを見た。 「出来る」  思わずつぶやいた。敵の脚を払うなどという吝ン坊な剣術と、一見もせずにふだんひどく軽蔑していたがこの大川の居合の構えをちらりと見ると、それだけで頭が下った。  実に見事な巻藁斬であった。その一つ/\が恐らくは長さが一分とは違っていまいし、その早さもまた眼にもとまらぬ程であった。  小吉が山田流据物刀流を大成した名人首斬の五世山田浅右衛門吉睦のところへ通い出したのはその次の日からである。それ迄は剣の中に見のがしていたものがあったのだと、それからのちよく逢う人毎に話した。  もう年の暮で正月に間もないというのに一夜も欠かさず麹町平河町の山田へ通った。江戸中で何処の大名屋敷よりも一番多く燈芯油を使ったといわれるこの家は、浅右衛門は刀法の外に文字も深く「蓮の露集まれば影やどるべし」と辞世を残した程の人物だが、夜を徹して酒を飲み、いろいろな町の遊芸師匠が織るように出入していたが、それでもまるで遊び事のようにして教える据物斬、居合抜刀の術は実に精妙を極めたものであった。  正月になった。  朝から薄どんよりと曇って、妙に底冷えがしていたが、小吉が割下水を出る頃にはまだ降り出してはいなかった。  それが今夜に限って浅右衛門がまた大変な上機嫌で、まるで自分の子供にでも教えるように一生懸命稽古をしてくれて、だいぶ更けてから、その屋敷を出ようとしたらいつの間に積ったのか、四辺は真っ白い雪景色だった。  でっぷりと二十二、三貫もある肥った浅右衛門は酒焼けのした赫ら顔をほころばして 「ひどい雪だ。これから無理をして本所まで帰る事もあるまい。今夜は屋敷へ泊ったらどうだ」  といった。  小吉は 「は。何あにあちらで合羽を拝借して参ります。子供の頃に深川油堀から駿河台の鵜殿甚左衛門先生のところへ通いましたが、家へ帰る迄にからだ中真っ白になり、正体もなくたどりつき、ほっとしたので、泣き出しましてな、その時に兄の彦四郎に、いざという時の役に立ついゝ修行だ、泣くとは何んだといって、ひどくぶちのめされた事がある。先ずそんな処で今夜は帰りますよ」  といった。泊めて貰うのも有難いが、そうなったら、一滴ものめない自分が夜っぴて大酒家の対手をさせられるのは明らかだし、第一、家では麟太郎を抱いたお信や利平治が、心配しながらいつ迄も/\も待ち明かすだろうと思うと、それも気になる。 「そうか」  浅右衛門は三段に折重なっているような襟首をそらせて 「酒の伝授もしようかと思うたが駄目か」  から/\と笑った。  門を出て気がついたら何処かで時の鐘が鳴り出した。 「おや、もう|四つ《じゆうじ》だわ」  小吉は、下郎の合羽でも借りるつもりが、浅右衛門が、羅紗の合羽、頭巾も同じ羅紗のを貸してくれた。贅沢極まるものだ。寸法が子供が大人の物を着た程でもないのは、当の浅右衛門の物ではなく、この人の伜三人の中の二人までが家出をして終っているので、その誰かのであったのかも知れない。  ちら/\ちら/\雪が降りしきる。しかし両国橋をすぎる頃は、べっとりと汗ばんで時々頭巾の前をひろげて、頬へ雪を受けたりした。  下谷辺りに火事があって、ぱあーっと雪空が紅くなったが、いゝ塩梅に一軒焼けだったと見えて、そのまゝ空がまた元の黒さにかえって終っている。  両国橋を渡って広小路の右側が尾上町、左側が藤代町でこゝへ渡るのが昔は本所七不思議、片葉の葦の小さな駒留橋、その橋の袂に夜泣蕎麦屋が二人、雪の上へ同じような荷を二つ下ろし、もう一人赤合羽に饅頭笠の橋番らしい老人の男が立って頻りに首をふり乍ら話している。  小吉が、思わず、ぎくっとして立ちすくむと、藤代町の町家の角にからだを隠してじっと瞳をそっちへ定めた。  お定まりの大きく的を書いてその真っ心《しん》へ矢の通っている当り屋という行灯。その灯が不思議に流れて一人の夜泣蕎麦屋に当っている。頬かぶりをしているので、はっきりとはわからないが——これがどうも利平治だ。  こっちで小吉は、ためつ、透しつ 「あ、やっぱり利平治だ」  胸がこみ上げてすうーっと涙が瞼に溢れて来た。涙を払ってまたじっと見る。もう一人は強請屋の五助、一人はやっぱりなじみの橋番のおやじらしい。 「ふだんお前さんには世話ンなるんだ。銭なんざあいらねえよ」  というのは五助。 「いや、商売もンをそんな事をして貰っちゃあいけねえよ。さ、銭をとっておくれ」  橋番は何文か鐚銭を出すがこっちは受取らない。暫く押問答をしていたが、とどの詰りは橋番が敗けた。 「あした松坂町の弁治兄貴が通ったらね、あっしのところへ寄ってくれるようにことづけをしてお呉れよ」 「いゝとも——しかし弁治も近頃はお役向の通りもよく大層ないゝ顔になったが、それだけに気をつけなくちゃあいけねえよ。茅場町の屑寅さんがにらんでるようだから」 「屑寅が?」 「江戸八百八町に何百てえ岡ッ引だが、あの親分は」  と橋番は四辺を見て、 「少々、銭に穢ねえ方だからね。弁治も付届けを怠っちゃあいけねえよ」 「そう/\。よく云って置く」  橋番は橋の方へ戻って行く。 「寒いから気をつけなよ」  声だけが、本当に寒そうに後へ残った。  利平治と五助とそこへしゃがんで何にやら小さな声で少し話合っていたが、やがて二人が一緒に荷を肩にした。利平治はちょっと腰が定まらない。  立った途端に、小吉がぱっとその前へ飛出して行った。 「利平治」 「あッ!」 「すまない。おれは手を合せて拝むよ」 「と、と、飛んでもない」 「おれは馬鹿だ。斯く迄お前に苦労をさせているとは今が今まで気がつかなかった」 「小、小、小吉様」  利平治はへた/\と崩れて、蕎麦の荷からはなれて雪の上へ坐って終った。小吉はあわててそれを抱き起こし 「勘弁しろ、あしたからおれも働く——五助、礼をいうぞ。定めし利平治がお前に面倒をかけた事だったろう」 「い、い、いや/\」  といいかけて、五助は、わっと大きな声をあげて泣き出した。  小吉も泣いた。 「お前達のそんな苦労も知らぬ顔に、剣術の居合のと、毎夜家をあけ歩いているおれが事を思うと、身を切られるようだ。利平治、明夜からその夜泣蕎麦はおれが売る」 「何にを仰せられます」  と利平治は 「この利平治なれば何にをしたとてよろしゅうござりますが、旦那様は御旗本、こんな事はなりませぬ」 「御旗本であろうが何んであろうが、蕎麦を売歩いてならぬという事があるものか。まして、おれがように、生涯この世の下積みで送らなくてはならぬ男がよ」 「いゝえ、なりませぬ。そのようなことを遊ばして、麟太郎様が夜泣蕎麦売りの子だと云われてもよろしいのでござりますか」  小吉はがくっとして口をつぐんだ。  利平治は深川の冬木弁天の社家内で毎夜近所の子供を集めて学習をしているといっては、雨の日も風の日も割下水を出て行っていた。 「この頃は追々と弟子子《でしこ》が殖えましてな。近所の商家のものが店を閉めてから参るものなどありまして、とても四つまでに戻る事は出来なくなりました。その代り、ほら、このように謝礼なども多くなりまして」  そういっては、わざ/\水引をかけた銭などを、毎夜のようにお信の前へ出してよろこばせた。その話がそのまゝ小吉にも伝えられていたのである。  かねて利平治は文字が上手だ。小吉はその話をそのまゝに受けて、馬鹿な話だが本当に少しも疑わなかった。  妙な顔で連立って家へ戻って来た二人を見てお信が 「何事かござりましたか」  ときいた。利平治は、ちゃんと袴をはき、大小をさして雪をよける傘をさしていつもと変らぬ姿になっていた。 「途中で逢ったわ」  と小吉は作り笑いをして 「どうだ、これを見ろ、貧乏の身に染みたようなこのおれでも、羅紗の合羽に頭巾を着たら立派であろう」 「ほほゝゝ」 「山田浅右衛門という人も諸家の依頼で罪人を試斬り、大層な金になるそうだが、それにしても贅沢なものだ。が、そうは云うがあれだけの据物の腕は何百年に一人というものだろうからなあ。あ、そう/\利平治、お前はおれと違ってこの雪に薄着、まして寺子達の面倒で骨が折れた事だろう。さ、遠慮なく先きにねるがいゝ。寝るといっても夜具も薄く、炬燵、あんかもない境涯、すまねえなあ」   白梅  お信が、すっかり手をかけて渋紙へ包んでくれた羅紗の合羽と頭巾を抱えて、小吉が次の日、暮れたばかりに平河町へ行ったら浅右衛門は若い美しい女を二人はべらせてもう酒をのんでいた。坐っているうしろの床の間に神まつりがしてあってその前の刀架に新しい白鞘が五振かゝっていた。定めし今日も試し物をしたのだろう。丁寧に借用物を差出して頭を下げ礼をいったら浅右衛門は 「それは返して貰わぬつもりだ、粗末な品だがあなたがお使い下さい。どうせわたしのところにあっても用のないものだから」  という。そうかといって真逆こんな高値《こうじき》な物を貰うという訳にも行かない。  浅右衛門は酔った気配などは少しもなく、直ぐに立って、屋敷つゞきの道場へ出ていつものように稽古をつけ出した。が、途中でふと小吉の顔を見すえて 「おい勝さん、あなた、今夜限り、もうわたしがとこへは来ないつもりだね」  といった。びっくりして、思わず小吉も息を呑んだ。 「いいんだ、あなたはね。はっ/\/\。とっくに山田流刀法の極意皆伝という奴だよ」  浅右衛門は肥った腹をゆすって笑い乍ら 「毎日のように人の首を斬るので、いつの頃からか人間が本当の決心をした時の気持が、こっちの胸へ自然にぱッとうつって来るようになって終ってね。合羽や頭巾を貰っていたゞこうというのは実は心中お別れのつもりなのさ」  小吉は何かしら強い力にぐん/\押されて、背中にべっとりと汗がにじんでいた。 「山田家には昔から口伝があるという。幼少の頃これがどんなものか、修行を積んでいつかはその奥の院の御本尊をじかに拝める時が来ると一心不乱にやったがね、いざ当主となり、さて父から口伝の伝授となったら、何あんだ屁を見たような事さ。唯勿体をつけていただけの事でな。勝さん、今迄あなたに御伝授申した柄元の握り方、間をおいて指一本一本を出す息、吐く息に合せて静かにおいて行く、あれがその口伝だ。あんな口伝は弓術にもあり、馬術のたづな捌きにもある。あれを教えて終ったから、実をいうとわたしはもうあなたへ教えるものは何んにもないのだよ」  浅右衛門は大声で笑いつゞけて 「人間の世の中なんてえものは、みんなこんなようないゝ加減なものなのさ。底をついて見れば凡そは馬鹿々々しい」  といった。  一稽古終って、とにかくお別れだから一ぱい飲めといってきかない。小吉ははじめて盃を受けて、途端に引っくり返る程にむせて終った。浅右衛門は面白がって手を打って喜んだ。この家を辞した時は小吉は息も出ない程喉の内が腫れて終っているような気持がしてならなかった。  外へ出ると満天の星が青く凍って実に寒い。雪はきのうの名残がところ/″\に残って夜目に真っ白く浮んでいる。 「不思議な人だ」  小吉は、今別れて来た浅右術門の事を改めて思い出して、どうしても差上げるといって受取らない羅紗の合羽と頭巾の包を横抱きにしたのを撫でて見た。  途中から急ぎ足になった。今夜もまた芝の辺に小火があったような気配だ。  両国橋を渡ってひょっと駒留橋の方を見る。 「おや」  小吉は思わず駈け出した。 「五助、利平治はどうした」  橋の袂に手拭で頬かぶりの五助が、夜泣蕎麦の荷を下ろして、そこへしゃがんでしょんぼりと手を組んでいる。 「あゝ、勝様」 「今夜は利平治もこゝへ出て来て、おれと代る約束になっているが、荷がないではないか」 「へえ、待っても待っても来ねえんです。お家《うち》の方へ伺って見ようかと思ったんですが、来てはならないとの厳しいお言葉だからそれも出来ません」  小吉は動悸っとするものを感じた。 「もうほんのさっき弁治兄貴が来ましたからね、実は、こう/\いう次第で、こゝで勝様が利平治さんの荷をとって、それから先きは御自分でお売り歩きなさるって事を云いやしたらね。天下の御旗本にそんな事をおさせ申す事あ出来ねえ、それじゃあ今夜からおれが蕎麦屋になるといいやして、荷元へ飛んで行きました。もう帰る頃です」  荷元というのはその頃あった夜泣蕎麦の蕎麦は固より荷道具一切をいくつも揃えてあって、一晩いくらといって売子へ貸してくれる元締である。 「ひょっとしたら荷元で、利平治さんと兄貴が一緒になってるんじゃあねえでしょうか」  小吉は出しぬけに、力一ぱい地を踏んだ。 「利平治!」  と叫んで 「五助、あれは、もう、来ないよ」 「へ? ど、ど、どうしてで御座いますか」 「おれが馬鹿だからだ」  小吉の瞼がうるんだ。途端に、夜泣蕎麦の荷が一つ、向うの方から右へふら/\左へふら/\、危ない調子でやってくる。  五助が駈けて行こうとした。 「じッとしていろ」  と小吉がうるんだ声でこれをとめた。  やって来たら弁治だ。荷物を水だらけにして自分も川から上った人間のように汗である。 「り、り、利平治さんが見えませんからね。今夜は、わたしが商売をします」 「馬鹿」  と小吉は 「巾着切なんぞがその荷を担いで物の二箇町《にかまち》と歩けるものか。それより五助、頼みがある。お前、これからすぐに江戸を発ち——」 「え、えーっ?」 「甲州街道の柴崎というところへ行ってくれ。日野の手前の玉川ぶちだ。こゝで利平治を探すのだ」 「え?」 「弁治は江戸で顔も広く、かねて抜け道横露路、隅から隅までも知っている事だから、今夜の中にも緑町の縫箔屋の長太だの蛤町の金太郎にもよく頼み、手わけをして利平治を探すのだ。あれはもうおれが家にはいねえだろう」 「へ、へえ、へえ」  二人はうなずいたが突拍子もなく急なのでたゞ眼をぱち/\しているだけである。 「何んにしても先立つものは銭だ。おい、弁治。これあな、おれが御恩のある人から今夜頂戴したばかりの羅紗の合羽に頭巾だ。こ奴を持って一ツ目通りの上総屋へ行き、割下水の山口鉄五郎地内の勝に頼まれて来た。目一ぱい貸してくれろと質に置き、それを費用に働いて呉れ」 「そ、そんな御心配にゃあ」  と弁治のいいかけるのへ 「及ばないと云いたいだろうが、及ばなけれあ手前は他人様のふところを掏るより外に芸のない男だ。五助とても似たり寄ったりだ。弁治、店を閉めない中に、早く上総屋へ行け」 「へえ」  蕎麦の荷を置きっぱなしで弁治はすぐに飛んで行く。五助は一人で合点して、抽斗から蕎麦玉をつかみ出すと細長い|つけ《ヽヽ》笊へ投り込んで湯へ入れ、しゅッ/\と水を切って丼へ移すと下地をかけて 「勝様、お寒いですから一つ如何です」  と新しい割箸を添えて、小吉の鼻先きへ出した。小吉は黙って受取って、前歯でびしッと箸を割り、無言でその蕎麦を喰った。時々箸を止めて、何にか考え、また思いついては喰った。  小吉の察した通り、それっきり利平治は割下水へは戻らなかった。 「おれがところは余りひどい貧乏だから、あ奴も驚いて逃出したのだろう」  ある時小吉はひとり言をいった。  お信はひどく嫌やな顔をしてじっと小吉を見てつぶやくように 「旦那様、本当にそのように思召しでございますか」  といった。小吉は黙っている。 「わたくしは、利平治は、この家の貧しいのが嫌やになったのではなく、自分《じぶん》扶持《くち》を減らそう為めに家を出たのだと思います」 「そうだよ」 「ほほゝゝ、口では何んとおっしゃっても旦那様もやっぱり然様に思召しなのでございましたか」 「知らぬ顔で蕎麦屋をさせておくがよかったかも知れない。でも、あの年ではなあ」 「それもこれも、祖母様《おばゞさま》があのような——」 「これ、その事はもういうな」  小吉が珍しくきびしい声でお信を叱った時であった。 「いるか」  戸が開いていつも呼びつけるだけでかつて一度も自分から訪ねた事のない彦四郎の太い声がした。 「兄上らしいな」  小吉は低くそういってゆっくりと立って行った。 「利平治がいなくなったそうだな」  彦四郎は相変らず眉に八字を寄せて玄関へ立ったまゝのっけからそういった。 「は」 「いゝ事だ。これからはお前が、本当のお前を見る事が出来るだろう」 「は?」 「故父上に甘やかされ、その後は利平治に甘やかされ、お前は本当のお前というものを知らん。わしは、今日はその喜びに来たのだ。いゝ事だ、目出たい事だ」 「は」 「時にお信は在宅《うち》か」 「居ります」 「逢いたい」 「お上り下さいますか」 「いや、こゝへ出て貰おう。お前は退れ」  いわれる儘に小吉は引込んでお信が出て来た。彦四郎は口をへの字に結んでじっと見ていたが 「大そうやつれたの」  といって 「麟太郎は?」 「はい。あちらに」 「一寸顔を見せてくれ」  小吉の時は上らないといったがお信についてつか/\と奥へ通った。煤ぼけた破れ畳に彦四郎の白い足袋は銀のように白く光った。  麟太郎はねていた。彦四郎は 「よし。この子は穢れてはおらん、お前の丹精だな。褒めるぞ」  彦四郎は、ふところから紙へ包んだものを取出して麟太郎の枕の下へ差込んだ。金であった。  その外には一とこともいわず、ふと思いついたように 「小吉もこれからは裸のおのれを良く見極わめる事が出来るだろう」  そう付け足すとさっさと帰って行って終った。戸の外に若党仲間小者が待っていた。  小吉は彦四郎の置いて行った金には眼をくれようともしなかった。 「裸のおれか」  といって 「おれが為めにはそれがいゝかも知れないが、年をとったあの利平治を投っては置けぬわ」  と唇をかんだ。  万事に小気の利いた弁治が、それからそれと糸をたぐって、利平治が谷中の観音堂の世話になっているのを発見したのは、その年が明けて、もう梅の咲く頃であった。五助はその間に、柴崎と江戸とを何度往復したか知れやしない。  弁治が利平治を見つけた時は、利平治はあの頃から見ると、もう十も年をとったようにがっくり老けて、堂守と二人、炉辺に坐って柴を燃やしているところであった。その淡い柴の煙の中に浮んでいる利平治に 「やあ、とっさん」  と声をかけた時は流石にびっくりしたがすぐにうつ伏して泣き出して終った。  とにかく割下水へ一緒に行って話はそれからだといっても、利平治は首をふって 「小吉様は固よりですが、御新造《ごしん》さんの御前へ出ます顔が何処にござりましょう。実はもう老い先きのないからだでございます。いっそ今日は死のうか、明日は死のうかと思っておりましたところで御座いますよ」  と、どうしても行こうとはしなかった。その時は丁度いゝ塩梅に蛤町の金太郎が一緒だったので、これへ利平治を預けて、自分は本所《ところ》へ飛んで来て、知合の小旗本の下男を使にして、小吉を家から呼出してこの事を告げた。 「そうかあ、いたか」  小吉は崩れるような顔つきになってすぐに弁治と一緒に谷中へ出て行った。  七つ下りで、斜めな陽が、観音堂の梅を妙にくっきりと浮き出させている。  小吉は無言で、利平治の前の炉の向側に坐った。 「雲松院様は、本当に梅がお好きでございましたなあ」  利平治はまるで小吉を忘れたように表の方を見ながら眼をしばたゝいてぽつりとひとり言にそういった。雲松院は故平蔵の戒名である。 「そうだ、おれはお前の背で、父上が瓢《ひさご》を下げられ、向島の新屋敷まで梅見に行ったことがあった。覚えている」  小吉もじっと梅の方を見てそういった。  外には弁治も五助も金太郎も縫箔屋も来てしゃがんでいる。   じり/\照り  それっきりで言葉は跡絶えいつ迄もいつ迄も黙っている。突然利平治は 「わッ」  と叫ぶような大声で泣いて、転がって小吉の膝へしがみついた。小吉も泣いた。 「探したぞ」 「は、はい、すみません、まことに申訳がござりませぬ」 「帰ってくれ、おれは、お前がいなくては駄目な男だ」 「いゝえ違いますでございます。わたくしはあなた様のお手足まとい、おのれでは気がつきませんでしたが寄生木《やどりぎ》でございました。小吉様はお一人でお立派な方、ましてや御新造《ごしん》さんが御利発なお方故、もう、何んの御心配もないのでござります。それを、わたくしは、何にやら思い違いをして」 「お、利平治、お前、亀沢町の兄上に何にかいわれたな」 「と、と、飛んでもない——彦四郎様が何にも」 「そうか、うむ、そうか。いわぬならいわぬでいゝ。が、帰ってくれ、おれが頼みだ」 「そ、それはなりませぬ。あなた様にお許しをいたゞいても、あのような自儘をして、如何に厚かましくもわたくしは御新造さんの前へ二度とお目通りは出来ませぬ、朝夕の御勝手仕事など、この冬はどのように御苦労をおかけ申したやら」  叱って見たり、なだめても見たり、小吉は口を酸っぱく口説いたがどうしても帰らないという。終いにはぼろ/\泣いて 「小吉様どうぞこのまゝわたくしを死なせてやって下さいまし」  と手を合せる。自分の考えている事と同じ事を他人も考えているとは限らない。引戻そうとする事が本当は迷惑なのかも知れないとふと思いついて、小吉はその話をやめた。 「それではおれは帰るが、お前を探すに弁治らあ、去年からお正月もなく滅法な苦労をしてくれた。今夜、御堂を拝借してみんなで飲むがいゝ」 「はい、有難う存じます」 「堂守さんにもお仲間入りをいたゞいてな」 「はい、堂守は喜びましょう、まことに酒には目のない男でござりますから」 「そうか」  と小吉は立って、隣りの広戸の外にいる堂守に逢って 「利平治が事はどうか宜しく頼みます。わたしにも多少の考えもありますから、御迷惑になるような事は致さないつもりだ」  堂守は利平治と同じ年恰好。頻りにお辞儀をして 「はい、宜しゅうございますとも。わたくしは利平治とは同じ多摩の郡柴崎村の生れでござりましてな、母方の縁つゞきでござりますよ」  といった。  小吉が白梅の咲いた間を縫うようにして帰って行く。利平治は途中まで送って、ぼんやりとそのうしろ姿を見ていた。本当をいうと、あの家出の日に、お竹蔵裏の堀っぷちでひょっこりと若い家来をつれた彦四郎に逢ったのである。彦四郎は顔を見るとすぐ往来をもはゞからず馬鹿奴と怒鳴りつけた。小吉は本来立派なものを持って生れて来た男なのだ、それを父上やお前が芽を出せぬようにぐるぐるに包んで終っている、そのために小吉は自分の正体を省みる暇さえなしに成人し、たゞ剣術だけ強い坊ちゃんに育って終った。 「お前はまだあれにつきまとって本当の男になるのを邪魔する気か。ましてや禄米の一合も入らぬ家にいるとはいゝ年をして何んという思慮の足りぬ男だ」  そういうと、泣いている利平治を二度と見もせずに行った。尤もなお言葉だと、この時はじめて気がついた。それに夜泣蕎麦も知られた上は、もう、小吉様自らおやりになるに定っている。利平治はとても割下水へは戻れなかった——あの時の事を思い出して、また涙が出て来る。 「小吉様は、それを直ぐにお感づきなされた」  利平治はうれしくなった。うれしくなればなるだけ涙が頬を伝わった。  弁治や五助やで炉を囲んで酒をのんだが、その時の堂守の言葉がそのまゝ小吉に伝えられたのは、その夜の中である。  往来へ呼出して、辻行灯の横へしゃがんで弁治がいった。 「へえ。あの観音堂というものは、おかしな事にあの堂守のものだそうでございましてね。それをあの堂守は近々に売払って柴崎村へかえるのだそうで御座いますよ。伜のたっての頼みだという事で」 「ふーむ」 「そうなるとまた利平治とっさんの行きどころが無くなりやすんで」  小吉は直ぐにいった。 「よし、おれが堂を買ってやる」 「え? でも勝様、ど、どうしても五両は要りますよ」 「兄から貰うた今のおれが家もその位には売れるだろう」 「で、でも、そうなったら勝様は」 「何んとかなる。が、おれが買うというな。お前《めえ》らで買ってやると利平治にはいって置け」 「へ、そ、それはよござんすがね。だ、だってあなた様のところが」 「ではまた他人様のふところでも狙うか」 「えッ? よ、よ、よござんすか。そのお許しが出れあ、五両が十両でも屁を見たようなもんだ」  相好を崩す弁治の横頬へ、ぴしゃっと小吉の平手が飛んだ。 「馬鹿奴、手前まだ盗《ぬす》っ人《と》が胸の中から本当に消えない。ちょいと冗談でもいうとすぐその気になりゃがる。そんな事でもして見ろ、今度はこれ位では済まないぞ」 「へ、へえ」  頬を押さえて、ふくれッ面をしながら 「勝様は時々|いかさま《ヽヽヽヽ》をやるからなあ」  五助へそういって苦笑した。  小吉が割下水の山口鉄五郎地内から、かねて剣術の事で知っている入江町の千五百石の旗本岡野孫一郎の地内へ引移ったのはもう初夏になってからであった。何処にもここにも青葉が匂って、殊に岡野の屋敷は露路を出て行くとすぐに大横川だったし、右へ折れると竪川だから、何んとなく本所《ところ》を感じさせた。  いゝ塩梅に観音堂が手に入って利平治はこゝの堂守になって、参詣の人へ渋茶などを振舞っている姿を、小吉は時々遠くからちらりと見てはよろこんで帰って来た。  夏になって朝からからっと晴れ上った空がちか/\光っている。小吉は川を渡った横堀の御弓同心の組屋敷に剣術の仲間が一人いるので、そこへ訪ねるつもりで家を出て、入江町の角を曲ろうとして、ぱったりと珍しい男に逢った。  男は紺の腹掛けに、肱が曲らない程にきち/\に詰った印物の半纏、それに真白いぱっちをはいて、道具袋を左手に下げた。何処から見ても左官の職方である。 「おう、紙屋の長吉さんではないか」  小吉は思わず、なつかしそうに側へ寄ったが対手はすでに死人のような真っ蒼な顔をして眼を血走らせ口をひん曲げて、身慄いしている。小吉はちょっと首をふった。 「その後はわたしもいろ/\な事で、無沙汰をしたが、お前さんもずいぶん変ったね。やっぱり望み通り左官の漆喰絵をやってるように見受けるが」  長吉は、そういう小吉を焼きつく程睨んで、不意に道具袋へ手を突込み、錐のように細く出来ている鏝を一挺つかみ出したが、そのまゝまたそうーっと蔵って終った。 「長吉はね、い、い、許嫁は人に奪われ、う、う、家は勘当されてこの通りの有様だ。それに引きかえお前様は、天下の御直参だから、人の許嫁を奪い取り仕たい放題の事をしても、大小をさして威張って往来が出来る。お羨ましい御身分ですよ」 「はっ/\/\は」  小吉は大声で肩を左右にふって笑い出した。 「こ奴あ大笑いだ」  といって 「長吉さん、お前さんの許嫁は確かお糸さんとかいったね。わたしは、あの人には何んのかゝわり合いもないよ」  長吉はきゅうーっと口をゆがめて 「へゝん」  と鼻先で笑った。 「お糸は、勝小吉の御新造様になるのだと、わたしに唾を引っかけて出て行った」  ひどい慄え声だ。小吉はやっぱり笑いつゞけて 「そ奴はわたしの知ったことではないが、わたしの家内はお信、麟太郎という子まである。外の事ならともかく、そんな思違いは迷惑だよ。な、長吉さん。も少し落着いて考えなくはいけないね」 「何?」 「お糸さんはね、株を買って御家人になった男の新造になっていたのと図らずも逢った事があるが、それももうその男に出世の見込がないといって出て行って終ったときいたよ。わたしがお前さんなら、失礼ながら、あんなものを家内にしなくて、まあ仕合だったと喜ぶねえ」 「そ、それは本当?」 「かゝわり合いもないのだから嘘をいう訳もないだろう。探したいなら猿江の摩利支天の神主吉田蔵人というもののところへ行ってきいて御覧」  長吉は何んと思ったのか、急に道具袋を引っ担いで、踵をかえすと飛んで行って終った。 「おれがお糸を奪《と》ったかえ。わっはっ/\、さて/\世の中というものはいろ/\な事があるわ」  小吉が大横川から横堀へかゝった北中之橋を渡りかけた。青い夏空へ真っ白い雲の峰が盛り上ってこれがぴか/\光っているのを頭へのっけるようにして堀に沿って弁治がとぼ/\と歩いて来るのが目に入った。だいぶしけてるな、小吉はそう思って、 「弁治、小判の百両でも落したか」  と声をかけた。弁治がびっくりして顔を上げ、途端に豆絞の手拭を出して忙がしそうに顔中の汗を拭いながら 「へッ/\/\/\」 「何にを笑ってる」 「落すような百両を生涯一度でいゝから持って見てえ」 「馬鹿野郎、この真っ昼間のかん/\照りに手前と往来で掛合をしてる程暇じゃあねえ」  小吉はすり抜けて行こうとした。弁治はあわてて袂を捕えた。 「実あ大変な事になったんですよ」 「へーえ」 「勝様がお世話をして下さらねえというので、摩利支天の亥の日講がとう/\潰れてしまいました」 「知った事か」 「ところがそれで困ったのが五助なんですよ。今あ奴ンところへ相談に行って来たって訳でしてね」  小吉もはっとした。 「神主が貧乏になりゃがって、五助の妹に暇を出したか」 「勝様、そうなんですよ。それにあ奴ももう講中を集める事も出来ず、歩金《ぶきん》もへえらねえ事ですから、がっかりしちまいやがって、褌一本で大の字になってあの乞食小屋見てえな中で不貞寝をしてやがった。可哀そうでしてね」 「妹というはどんな女か知らねえが、まだ年も若いのだから、何んとでも奉公の口はあるだろう。何処ッか川ッぷちの水茶屋へ茶汲女に出たって、別に兄貴を困らせるような事はあるまい。お前、心配する事はないだろう」 「ほう、そうだ」  と弁治は 「勝様、五助の奴あ馬鹿ですね、あんなに落胆《がつかり》する事あねえんだ。わたしも一緒に心配して、こ奴あ飛んだ馬鹿を見やした」 「はっ/\。お前らと話をしてれあ、このおれ迄が馬鹿になる」  小吉は、袂をふり払って、とっ/\/\と同心組屋敷の方へ行く。弁治が追っかけたが、もうてんで対手にしない。  亥の日講の事もはじめは五助のために講中を集めてやる気だったが、神主兄弟の腹の黒いのがどうにも気に喰わない。五助の事は別に何んとかなるだろうと思って、講頭の伊兵衛をはじめ、百度を踏むが、小吉は出て行かない。その中に講頭の伊兵衛がぽっくり死んで、とう/\亥の日講は無くなったはまだいゝが、摩利支天のお詣りの人も、近頃はまるで見掛けないという噂である。  ぽっくり死んだといえば平河町の山田浅右衛門も、夏のはじめに、酒をのんでいてやっぱり、急死した。小吉はおくやみに行ったが、仏の前へ坐って、あの時貰った羅紗の合羽と頭巾が、あのまゝまだ質屋の土蔵の中に入っているのが、どうも相すまないような気持がして堪らなかった。  歳月は音もなく流れて行く。  世の中が夢のように変って行く。  文政十二年の正月が来た。徳川将軍は十一代|家斉《いえなり》。やがて十二代となる世子公《あとつぎ》家慶《いえよし》はこの時すでに三十六歳。内大臣従一位に叙せられていた。  小吉二十八歳。麟太郎七歳。  兄彦四郎五十三歳。相変らず西丸裏門番頭だが養子精一郎は近々には御書院番組に番入することに定った。これは将軍家の親衛隊で腕の立つものだけが集っていた。  雨も雪も無く拭ったようないゝお天気の如何にも気持のいゝ松の内。空一ぱいに凧が揚って、女子供の追羽子の音、手毬の唄が日がくれる迄毎日つゞいた。その松のとれる日に彦四郎が上下姿で出しぬけに小吉のところへやって来た。   喧嘩剣術  獅子舞の笛太鼓が何処からか聞こえ出した。お信が急いで玄関へ出て行った。彦四郎はまじまじと見て 「暫くであった。小吉、麟太郎とも在宿か」 「はい」 「些か謹しんで仰せ聞ける事がある。二人とも礼服《かみしも》に改めるよう」 「はい?」 「お信、小吉が心がらとは云い乍ら、御旗本の新造《おく》が、ひゞ、赤ぎれのそなたの苦労もやっと報いられる。喜べ」 「はい?」 「花は時が来れば咲くものじゃわ」  奥の一と間。僅かばかりの庭に苔ののった古い石の燈籠がたった一つ。突当りは地主の岡野の庭との仕切りの塀。障子を開け放してあって、こゝへ来るととろ/\とろ/\獅子舞の太鼓の音が手に取るようだ。岡野の屋敷へ舞込んでいるのだろう。  端然と彦四郎は上座に膝へ両手を置き、下手には小吉と次に麟太郎、少し下ってお信がいた。 「先ず改めて御慶を申す」  彦四郎はそういってから 「来る十一日|具足開《おかゞみびら》きの|四つ《じゆうじ》巳之刻《みのこく》、わしが麟太郎を召連れて御城へ参入する。固より上下、万端整えて刻限までに亀沢町まで参るよう」  小吉が上半身を伏せるようにして何にかを訊こうとした。彦四郎はじろりと見下ろして押しかぶせるように 「阿茶の局、重々のお骨折で、麟太郎、かたじけなくも従一位様(家慶)直々のお目通りが相叶うのじゃ」 「え、えーっ?」  小吉は思わずこくりと喉を鳴らし少しのけ反って瞬きもしない。彦四郎もまた瞬きもしない。お信ががっくりと崩れるように手をつきうめくように泣いて終った。  ずいぶん長い間、無言がつゞいた。 「小吉。お信の苦労が実ったと思え」 「は」  やがて彦四郎は帰って行った。玄関を降りる時に、一寸、足が不自由になっているように感じられた。  阿茶の局は故父平蔵の実妹である。男谷検校が子九人の中の一番末で、検校がその財力に物をいわせ権門筋へ手を尽くして若くから御城へ登った。今は大奥方になか/\勢いがある。いわば小吉にとっても叔母だが、こうした生活をしている小吉にはこの叔母に逢う事もなく、若い頃に、油堀の屋敷で二度逢ったきりでお顔もはっきりとは覚えていない位である。  しかし彦四郎は代官に出る前、表右筆《おもてゆうひつ》をしていたから、この人と逢う機会は多かった。  彦四郎を見送って玄関へ坐ったまゝ小吉もお信も、腰を落して石像のようになっていた。 「ほんとうに」  とお信がぽつりとそういって 「兄上様はお偉いお方でござります」  小吉は何にかいおうとした。がそのまゝ口をつぐんで立ち乍ら 「おい」  出しぬけにいって大きな声で笑った。が一緒にぽろりと涙が落ちた。  彦四郎は阿茶の局にはずいぶん手を尽くした。今日まで長い間運動をつゞけて来たのである。  家慶様はやがて征夷大将軍となられるお方だが、その第五子春之丞君のお対手役として一応麟太郎を御覧賜わるという。 「春之丞君は、一橋家御相続と相定まっているお方。麟太郎が万に一つ、従一位様お目がねに叶い奉り、御対手役を仰せつけられれば、申す迄もなくやがては君にお従い申上げて一橋家に入り、行く行く御重役衆ともなるべきもの。小吉。お前もわしも、容易にはお目にもかゝれぬ方になるぞ」  さっき力をこめていった彦四郎のそんな言葉が腹の底までしみ/″\とこたえた。小吉は一度奥へ入ったが、いつ迄経っても玄関の寒いところに坐っているお信に気がついて、あわてて引返し 「おい、麟太郎様へ改めて御祝膳を奉れ」 「ほほゝゝ、そんな事を申されても、時分時《じぶんどき》では御座りませぬ」 「いゝから奉れ」 「まあ」  麟太郎は、両親のよろこびも知らぬ顔に、奥へ入ると、上下をぬぎすてて、丁度入って来た岡野の家の三毛猫の首根っこを鷲づかみに、ぴっ/\と髭をぬいている。猫はその度に、ぎゃあぎゃあとあばれる。が、暴れるだけで、麟太郎の手からぬけ出す事も、引っ掻いて逃げる事も出来ないようだ。 「ほう」  と小吉はこれを見て 「お前、大そうな術を心得ているな。お信御覧な、こ奴あやっぱりおれがようだよ」  といった。  その夜、道行く人の息は煙を吐くように白い。一度さらッと粉雪が降ったが、それが止んで、真っ黒い空に撒いたように星が一ぱいであった。  |九つ子之刻《じゆうにじ》すぎ。小吉は思い立って中之郷横川町能勢妙見堂の御手洗井戸で下帯一つで水垢離をとっていた。ざざーっとかぶる水が星を映してそのまゝ砕けて氷になってきら/\と肌をすべり落ちて、石畳から逆にまた跳返るのが一本々々錐が光るように見えた。  四千八石旗本能勢熊之助の下屋敷地内。松の内だけに堂籠りの人もなく南に向いた大本堂の燈明がちら/\もれて四辺はしーんと静まり返っている。それだけに、この寒夜の水の音はむしろ凄惨だった。 「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」  休みなく題目を称え、時には「南無北辰大菩薩」の称えも交る。  能勢屋敷の妙見の本殿は熊之助の知行所摂州能勢の郡(今は豊能郡)にある。江戸のは安永三年にそれを分体したものだが、天明、寛政の頃からどういう訳か、開運|除厄《やくよけ》の霊顕あらたかといいふらす者があって俄かに売出した。冑をかぶった武士が受太刀の構えをした像で、はじめは刀を真っ向に振上げていたのが、余りにもあらたか過ぎて俗人が御仕えする事が出来ないというので、後世この姿にしたものだという。  まことは北斗の主星北辰で、他の星は動いてもこの星だけは動かない。これを中心に天体の星が動くのが即ち主人に家来が仕えている姿そのものだというので、その頃の本所深川《ところ》の小普請の侍達が立身出世を頻りに祈願した。  小吉も前に一、二度は来た。が、手を合せた事もないのだが、今日はどうしても、家にじっとしている事は出来なかったのだ。  少し風邪ッ気であった。が、そんな事も忘れて、水を浴びる度に、からだは凍るようになって行った。 「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」  時々、ふら/\ッと目眩いのようなものも感ずる。  小吉は入江町の時の鐘|八ツ《にじ》をきいて、からだを拭い、着物をまとって本堂へ入って行った。  誰もいない。その真ん中に坐ってじっと本尊を拝して畳へ額をすりつけた。 「わたしは下らない侍でございます。一と頃は立身出世を願い、天晴れ将軍家《だんな》へ御奉公をと励みましたがそれもこれも今日となっては悉くうたかた。しかし伜麟太郎だけはどうにでもして世に出してやりたい。そしてわたしが嘗つて心にひそめた夢を、あ奴に実らせて貰いたいのでございます」  はじめ心の内に念じていたのが、知らぬ間に次第に大きな声になって終っていた。 「わたしがように、生涯の小普請で父子二代|塵芥《ちりあくた》に埋もれては、余りに可哀そうで御座います。来る十一日、御目通りの砌は、幸いに従一位《いえよし》様のお目がねに叶い、春之丞君御対手役を仰せつかりますようお願い申上げ奉ります。その為めにはこの小吉の一命を召上げられましても決して否やは申しませぬ。南無北辰妙見大菩薩。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」  繰返し繰返し、もうそこには自分のからだというものが無く、気持だけが、菩薩の膝にしっかりとしがみついているような心地であった。 「十一日迄は必らず御祈念に参ります、何あに死んでも参ります」  うつ伏したまゝ、気を失ったのか眠ったのか、小吉が、不審に思ってやって来た痩せっこけた堂守のおやじに声をかけられた時は、もう堂の外に夜が明けかけていた。  次の夜はいゝお天気。次の夜は風、次の夜は雪。しかし小吉は水垢離を欠かさなかった。しかし五日目はからだ中に火がついたように熱かった。小吉はお信へ 「風邪をひいたわ、が、おれは欠かされねえよ」  と、にっこり笑顔を残して出て行こうとしたが、まるで物につまずいたように、玄関先きでふらふらっとした。 「あなた、お危のうござります」  お信が鶴のように首を延ばして延びあがる。 「何んでもない」  小吉はそういって、元気に足音を立てて出て行った。 「夜が明ければ、いよ/\麟太郎が御城へ出る。従一位様にお目通りが叶う」  小吉は、井戸端で心の中に堅く祈念しながら、大きな声で題目を称えつゞけている。  雪が降って、時々、それがつむじになってさっと小吉のからだへ吹きつけて来る。 「勝小吉、五日が間の必死の御祈念、どうぞ哀れと思召して御照覧下さいますよう」  水垢離とって、ふと気がつくと、いつの間に来たのか、そこにはお信と麟太郎が立っていた。しかも麟太郎は、今、袴をぬぎ帯をといているのである。 「こ、こら、何にをする。明日という大切の日を控えて、お前」  小吉は眼をむいて怒鳴りつけたが、麟太郎は着物を脱ぐ手を休めなかった。  しかも女の身のお信までが——。妙見は明和五年迄女人禁制であったが今この親子三人の水垢離が、菩薩の大慈悲に通じない筈はないであろう。  夜の明け方から雪は止んで、雪晴れの江戸の朝は、風も動かない。  上下姿の小吉が、同じ姿の伜を送って真っすぐ亀沢町へやって行った。男谷の門前にはもう大勢の家来達が出ていたし、駕も二挺用意してある。丁度二人が玄関へ着くと同時に、彦四郎はうしろに精一郎を従えてすぐに出て来た。彦四郎の刀は精一郎が捧げて来た。 「小吉、精一郎が麟太郎の行く手を祝福して今日は道場を出て参りわしの刀を捧げて送ったわ」 「有難う存じます」  そういって小吉は精一郎の方へ改めて頭を下げた。  二人の駕が発った。  小吉と一緒に精一郎も門前まで送った。駕が雪道を踏んで遠退いて行く。両国橋際の藤代町までは真っ直ぐの道。二人は他の家来達と共に、駕が見えなくなる迄、じっと身動きもせずに見送っている。駕が左へ切れて、 「叔父上」  精一郎がはじめて口をきいた。 「わたくし道場へお立寄り下さいませぬか」 「立寄りたいにもそなたの父に堅く禁じられているわ。それも、思えば久しゅうなるなあ」 「父上はこれ迄剣術は侍が世渡りの一方便と、学問の事のみ仰せられましたが、この程、わしの説は間違っていたかも知れん、学問を忘れてはならんが剣術も悪態にのみは申されぬかななどと仰せで御座いました」 「ふう、そ奴あまことに妙だ」 「それにこの先き道場の事については一切口を出さぬ。お前の思う通りにせよと、口を出さぬとはっきり申されました」 「いよ/\もって妙だ」 「道場はわたくしの自由、わたくしは是非共叔父上にわたくし道場の総支配を致していたゞきたいと存じますが」 「いやあ、そ奴あ駄目だ、今のおれが剣術は町剣術、悪く云えば喧嘩剣術にすぎない。それに引きかえ直心影直統と大そう評判の男谷が道場には却って邪魔になる。兄上があの時堅く出入を禁じられた訳も、おれはこの頃になってやっとわかった位のものだ」 「叔父上にも似合わぬ事を仰せられますね。剣術に町剣術、喧嘩剣術などというものが御座りましょうか」 「ある」 「御座いませぬ。それではわたくしの剣術は道場剣術という事に相成りますか」 「いや、お前のは違う。もう古い事になるなあ、渡辺兵庫を対手にしなかったお前の剣術は、あの時からもうこのおれの何枚方も上であったわ。おれは、あ奴をぶちのめしたあの時と、今の今と、少しも変っていない。だから町剣術、喧嘩剣術という——」   登竜  小吉はそういってから突然大声で笑って、 「こゝでお前と剣術の論をしていても仕方がない。機会《おり》があったら邪魔に出る」  といったのは、急に目まいがするようで、何にか物を嘔きたくなって来たからである。何れにしても麟太郎が帰る迄は、こゝで待たなくてはならぬ。そのまゝ急いで兄の屋敷へ入ろうとして、足元がぐらついた。 「粗相をしてはならん」  小吉は腹の内でそう思って、ぐっと力を入れたが、その時、すでに精一郎がうしろからしっかりと抱いてくれた。 「大した事はないが、ちょいと風邪《かぜ》の塩梅《あんべえ》だ」 「いけませぬ。暫くお臥《ふ》せなさるがよろしゅう御座いましょう」 「そうさせて貰おう」  男谷の屋敷の一と間に臥せて、女どもに命じて精一郎が薬湯などをすゝめると、小吉はいつになく素直にのんで、そのまゝとろ/\としたようであった。顔が次第に紅くなって、汗を一ぱいかいたのを精一郎が枕元をはなれずに介抱した。  彦四郎と麟太郎が帰って来たのは夕の|七つ刻《よじ》であった。駕が門を入る時に入江町の鐘が響いた。  この気配を知ると、小吉は飛び起きてあわてて上下姿になり、廊下へ飛出して手をついて迎えた、斯うしなくてはいられない不思議なものが胸の中に咄嵯に渦を巻いている。精一郎はすでに玄関へ出て行っていた。  彦四郎の足取りは軽かった。すぐうしろにくっついて麟太郎は子供に似ず落着いた瞳を輝やかせていた。 「小吉、上乗の首尾だ」 「上、上、上乗の首尾?」 「奥へ参れ。ゆるりと話す——これよ誰ぞ祝儀の用意をいたせ」  怒鳴りつけるような調子でそういうと、もう歩いていた。麟太郎は 「父上」  と小吉の前で 「御城はお広うございますねえ」  といった。小吉は唯瞼をうるませて、呟くように 「上乗の首尾——」  と繰返した。  障子を開けるとところ/″\に雪を残した広い美しい庭が見える。故平蔵が縁近くに出て、若い女どもに酌をさせ乍ら、よく月などを見ていたあの座敷の一番上座に、彦四郎は麟太郎を坐らせた。  小吉|父子《おやこ》が、入江町の家へ帰ったのは、もう|五つ《はちじ》に近い頃だった。お信は小紋紋付に着かえて出迎えた。 「お帰りだ」  小吉はそういって 「お信、麟太郎は二十四日から御城へ上る事になったぞ。春之丞君家来だ。もうおれらが子であって、おれらが子じゃあないよ」  途端にがく/\と膝が崩れて、そのまゝ上り端へ前|倒《のめ》るようにしがみついて行った。  それっきり、何にも彼も夢うつゝで、ひどい高熱は流石の小吉の正体を全く無くして終っていた。  夜の|八ツ半刻《さんじ》になって、川から上ったように汗をかいて、ふと小吉はおのれに返った。枕元のお信をみて 「お前起きていたのか。おやすみな。どんな高熱だろうが何んだろうが、ほったらかして置いたところで勝小吉が、こゝでぶちのめされて堪るものか」 「さようで御座りますとも」 「麟太郎はどうしている」 「先程までお城の大奥のおはなしなど申して居りましたが、眠らせましてございますよ」 「びく/\しちゃあいないか」 「びく/\どころで御座りますものか。従一位様《いえよしさま》は、こういうお顔、春之丞様は斯ういうお顔、御家来衆は斯う/\、御女中衆は斯う/\、お小姓がこういう拵えの立派な御刀を捧げてうしろについてなどと詳しく話して居りました」 「落着いてやがるなあ」 「その上阿茶の局様は大叔母上との事ですが、どうして麟太郎がところへはこれ迄遊びにも見えないのかなどと」 「こ奴あ閉口だ。お前何んといったえ」 「お局方などはなか/\町々へお退りの事などはないものだと申しましたところ、麟太郎も御城へ上ったら、やっぱりこの家へは来れないのですかと訊きました」 「で?」 「そうだと教えましてござります」 「そうか。お信、ひょっとしたらあ奴は鳶が生んだ鷹どころか、天へ登る竜かも知れねえよ。はっはっは」  一と言いっても息が切れる。固より早急に熱の下がる事はないのだが、小吉はむく/\と起き上った。 「何にをなさるのでござりますえ」 「夜が明ける迄にゃあまだ半刻《いちじかん》の余はあるだろう。おれは、妙見堂へ行って来る。お礼言上だ」 「そ、そのおからだでそれは御無理でござります」 「といって、頼む時は頼んだわ、首尾はいゝわで、さて知らぬ顔でいられるものか。罰が当る」  いくら小吉でもこれは無理だ、玄関を出ない中に、どうしても諦めなくてはならなかった。  夜が明けて来る。前の日一日雪晴れの暖かさで、その前夜の雪はもう日蔭の辺りに忘れられたように残っていて、今日も天気か空が銀鼠色にぱあーっと光っている。  お信はとう/\まんじりともしなかった。庭へ出て、明けて来る空をじっと見ていると、いつの間にか、それが、あの帰って来た時の小吉の如何にもうれしくて堪らないというような笑顔に変って来る。麟太郎のこうぐっと肩を張って、わが子ながら、びくともしない胆の坐った顔つきに変って来る。  何処からか彦四郎の声が聞こえてくる。——花は時が来れば咲くものじゃわ——と。  お信は泣けて来た。  朝になって、粥をすすめたが小吉はとても喰べられない。麟太郎は御飯がすむとすぐに出て行こうとしたが 「これ迄とは事違って、お前は大切なからだ、御城へ上る迄は、もう、何処へも出てはなりませぬ」  とお信にとめられた。 「お母上、それは困ります。麟太郎は、今日は約束があるのでございます」 「どなたと何んの約束?」 「この間横堀の御賄組屋敷の奴らと小梅代地の奴が一緒になって入江町のものへ喧嘩を売ったのです。その時、わたしの方は大勢いたので勝ちましたが、多勢《たぜい》で勝ったのだ、入江町の奴らは弱い弱いと大層法螺を吹いていますので、今日はこちらは唯十人だけで乗込み、あ奴らを叩きのめす事になっているのです」 「こらッ!」  ねている小吉が鐘を割るような大きな声で怒鳴りつけた。 「馬鹿奴! 尊いお方様の御家来が、町家の奴らと一緒になり、喧嘩たあ何事だ、麟太郎、こゝへ来い」 「で、でも——それでは侍の子が嘘をついたとみんなに笑われます」 「笑われてもいゝ、喧嘩なんざあ、馬鹿のする事だ」  お信は、小吉の横顔をちらりと見て、にこッとした。  ところへ 「男谷様からの仰せ付けによりまして駿河町の越後屋から参上いたしましてござります」  もう腰を二つに折っているらしい人の声がした。  小吉とお信が眼を合せた。そして、二人ともほっとした面持があり/\と見えた。彦四郎からの話のあった日から、二人とも互に何んにもいわないが、もし麟太郎にそんな目出たい日が来たら、一体これはどうしたらいゝのだろう。今の貧乏ではとても御城勤めをする仕度は出来ないのである。それが、こうぐうーっと二人の胸に棒を立てたようにつかえて、互に話し出す事が怖くて——といって、話さずにはいられない切羽詰った事なのであった。  小吉は、ふっふっふっふと苦笑した。 「兄上が越後屋をよこしたわ」  お信は手を合せる恰好をして、一寸、眼を閉じすぐに立って行った。 「江戸一の呉服屋が、おれがところへやって来た。とんと兄上には、頭が上らなくなりゃがった」  彦四郎は阿茶の局と打合せてすでに細かく指図をしてある様子。年をとった番頭と若い手代が二人、麟太郎をおもちゃのようにして衣裳一切、下帯の果てまでの寸法をとって帰って行った。  このどさくさで、麟太郎はとう/\喧嘩に出て行く鼻をくじかれて、そのまゝ有耶無耶で家を出る事は出来なくなって終った。ひどいふくれっ面で、その日ばかりか次の日まで不機嫌でやゝともすれば大の字に引っくり返って駄々でもこねる気配であった。  二十五日は初天神。  その前日の二十四日に麟太郎は、彦四郎と駕で御城へ上って行った。仕度荷物の吊台が三台、後へつゞいた。小吉も風邪はどうやら癒ったというものの、まだ顔色も蒼かったし、腹に力がなく足許もふら/\したが、この駕側へ供侍のような恰好でついて行った。  麟太郎は明日の初天神に春之丞君の御対手御供をするのが御奉公初めで、それからはずっと大奥の御側に起臥《ねおき》して入江町へは一年に一、二度位よりは帰れない事になる。送り出す時に、お信はきっとしていたが、却って小吉の方が今にも泣きでもしそうな気配であった。何処からきいたのか大勢近所の者が集って、麟太郎の日頃の喧嘩対手の子供達も、みんな土下座をして送った。そのわい/\いう人のうしろには、弁治もいたし五助もいたし、金太郎も緑町の長太も確かにいた。  屋敷では大名同様の仕度い放題をしている彦四郎だが供侍をつれて駕で御城へ上れる身分ではない。御門のずっと手前で下りて肩を並べて御城へ向って歩いて行く麟太郎と、彦四郎が、いい合せでもしたようにふと一緒にうしろを向いた。小吉ははっとして礼をした。お櫓に朝日がさして、それを背景にそこに立つ麟太郎の姿は親の目には一人前の大きな立派な/\侍に映った。 「おゝ、竜が登るわ、登るわ」  小吉は心の中で思わずそうつぶやいた。  彦四郎が御城を下って来たのはお昼近く、途中で待っていた小吉を睨むようにして 「わしは阿茶の局の取りなしで遥かこなたの御廊下端で拝したんだが、春之丞君が御老女と共にお待ち兼の御様子でな、御書院御縁までお出ましであったぞ。小吉、斯くなってはお前も今迄のような事ではいかん。自分は僅か四十俵の小普請だが、伜は尊いお方の御家来。もう自儘は出来ぬ。立派な侍らしいその日を送らなくてはならぬ。いゝか、これからは剣術ばかりではなく学問に出精しろ。わしがいゝ師匠へ添状をつかわす」  といった。  入江町へ帰って来た。 「おかしなものだなあ、奴が一人いなくなって火が消えたようだな」  いわれたお信も如何にもがっかりと力がぬけた顔つきをして 「あれの素読の声が耳についていて離れませぬ」  といった。 「素読で思いついたが兄上はおれに学問に通えという。この年でとんと文字のねえおれが、子供のような物を教わるも気まりが悪いが、麟太郎が偉くなって、おやじが文盲も閉口しようからなあ」 「学問をなさるはよろしい事でござります」 「だが本当をいうと、おれや嫌やなんだ」 「え?」 「死んだ父上が、兄上を、あ奴は生きた本箱だといった。おれも学問をしたとて、所詮は兄上のようなもんだろう」 「それは違いましょう。学問というはそれを積んだ人間によって、生きもし、死にもするとよく御父上様がおっしゃりました。お前さまは生きた学問をなされませ」 「そうだなあ」  しかし、何んだかんだといっては小吉は彦四郎へ添状を貰いに行こうともしなかった。それで何にをしているかといえば何んにもしない。唯朝からぼんやり家の中でごろ/\している。妙にこう深い水の底のように淋しいのである。お信とて気持は同じ事だろうが、小吉はとてもいつ迄この辛抱は出来そうではなかった。日がくれかけるといっそ淋しい。近所の子供達の歌う声などが、ぴん/\と耳へ入って、時々、いきなり、表へ出てっては 「うるせえ」  と大声で怒鳴ったりした。その度にお信にたしなめられた。  行灯を中に針仕事のお信と向い合っている時など、ほんとうに麟太郎のいない淋しさは、小吉でなくてはわからなかったろう。  よくこんな時には、小吉は突然家を出て、大横川ッぷちを真っすぐに四町ばかりの、妙見堂へ飛んで行った。  みんな講中などがいる時はそのみんなが——能勢家の人々は固より堂守なども 「勝様だ、勝様だ」  そういって下へも置かぬもてなしをする。大勢に取囲まれて居心地がいゝし、第一、麟太郎今日の出世は、御利益だと時々不意にそんな事を思ったりもする。小吉はこゝにいる事が多くなった。お信にはその気持がよくわかる。が、いっこうに学問の師匠への添状を貰いに来ない小吉を、彦四郎がまた怒り出した。  道場へ精一郎を呼びにやった。そして精一郎を見るや否や 「お前、小吉奴をぶちのめして呉れぬか」  といった。精一郎はほうーというような顔をした。 「あ奴は馬鹿ではないが、父に甘やかされて育ち剣術に憑かれているから、今日に至るも心が大地を踏めぬのだ。一度死ぬ程ぶちのめされたらきっと正気づくだろう」  彦四郎は本気でいっているようだ。   かげ富  流石の精一郎も、父のこの言葉にあきれ顔であった。 「とても/\」  といってから 「ぶちのめすどころか、叔父上はわたくし輩の仮初《かりそめ》にも打込める対手ではありません。いやわたくし許りではない、江戸中に大勢いられる諸流の師範にも先ず歯の立つ方はいられない。云わば古今の名手でございます」  にこりと笑った。 「ほう」  彦四郎は口をへの字にして暫く黙ってから 「ほんとか」  と顎を突出して訊いた。精一郎は 「父上にいつわりを申して何んと致しましょう。先般も父上に申上げました恩師団野真帆斎先生の年回追悼のためわたくし道場での諸流門の試合について、総行司《しんぱんちよう》はどなた様にお願い致すべきやと内々の相談をいたしましたところ、誰一人として、それこそ勝小吉と申さぬお方はありませんでした。これを以てしてもおわかりいたゞけるかと存じますが」  彦四郎はまた 「ほう」  今度は少し反って、同時ににこりとした。 「あ奴が——」  精一郎も父の心の内にこみ上げて来る微笑らしいものを早くも見て、自分もうれしそうにした。 「精一郎も、早く仰せによって叔父上をぶちのめす程の腕になりたいもので御座います」 「そ、そうか」  さっきは本当に怒って精一郎にあゝいったのが、いつの間にか、それを忘れた。また 「そ、そうか」  といった。 「実は叔父上に、わたくし道場へお越しをお願いいたしましても、父上より堅く出入を禁じられた身だと申してお出でがいただけません。父上から何んとかお言葉をいたゞきたいと思いますが」 「道場へ来なくては総行司《しんぱんちよう》は勤まるまい」 「そうです」 「そうですではない、道場へ来なくては総行司は勤まるまいというのだ」 「はい、わかりました」 「死んだ父が、わしを生きた本箱と蔭口をいっていたときいた事がある。小吉が剣術以外に取柄がないように、わしも学問以外に取柄のない人間かも知れんとこの頃時々思う事がある。剣術の事はな、道場の事はな、悉くお前に任せてわしは知らん、口出しはせんと先日も申したろう。あの道場がお前のものである上は、わしが禁じた事など何んになる」 「はい。確《しか》とわかりました」  彦四郎は精一郎のその言葉を小耳に一人で何度もうなずいていた。  文政十二年は正月十八日の江戸開府以来と噂された程の大雪をはじめとして、もう桜の咲く日を数えるというのに、よく雪が降った。春の雪は、さしている傘をさらさらとすべって、足許へさあーっと一度白粉をはいたようになると途端にすっと消えて行くという。  小吉ははじめの内は、彦四郎から学問の事で今日は何にかいって来るか、明日は何かひどい叱言があるかと、いくらかはそれが気になっていたが、あれっきりなので近頃はこっちもすっかり忘れて終った。  その日はまるで定《きま》り事のように、朝の中にさらっと淡雪が降ったが、それっきりお天気になって雪の跡形もない。小吉は縁側へ出て、爪をきっていると、ぽん/\と隣り屋敷の地主の岡野から小鼓の手の立ったいゝ音がした。 「お珍しく今日は岡野の殿様はお屋敷でござりますね」  とお信が居間の方から声をかけた。 「そうらしいな。千五百石とはいいながら、岡野がところもせがれの主計介《かずえ》が、父に輪をかけ滅法もねえ道楽だから、おれがところに優る貧乏だ。たまに帰って来れあ呑ん気そうに鼓を打ってやがる。その心根はうらやましいが奥様《おまえさま》ばかりが可哀そうだなあ」 「さようで御座います。主計介様に御番入の日勤をなさるお気でもあれば、御本家岡野出羽守様は固より御祖父様がお勤めなされた役筋の権門方に手蔓もあるに、いっこうその気もありませんのでは、昨日も奥様《おまえさま》がおっしゃって、ほろりとなされてお出ででござりましたよ」 「御祖父様は大そうな切れ者で、追々立身の噂だったが、乱酒が祟って亡くなってからは、今の殿様の女道楽がはじまって、家重代の目ぼしい物さえ売払うという有様ではもうどうにも法がつくめえ」  ほんの少しの間で鼓の音がぱったり止んだと思ったら、間もなく裏口からじかに庭へ廻って 「おい、勝さん、何処か面白いところはないか」  と、たった今噂をした岡野孫一郎が顔を出した。肥った目の大きな人だ。 「これは驚いた、あなたの面白がるようなところを、この勝が知るものか」 「いやあ、噂にきいたぞ。おのしこの頃は能勢の妙見で大そうな羽ぶりだというではないか。一つ連れて行ってくれ、その御威光にあやかりたい」 「これはます/\驚いた。神仏を遊びどころと思っていられるか」 「そうじゃあないさ。あすこは開運除厄の神というから、おれもあすこへお詣りをして、少々運を開いて貰いたいのだ。こう貧乏ではやり切れない」  どういうつもりか、小吉は 「よし」  と諾いた。  岡野は一度屋敷へ引返して仕度をすると、二人は肩を並べて出て行った。小吉は 「あなたは今日がはじめてだから、黙ってこの勝についていればいゝ。あすこはあれで慾の深い色々な奴が集るから下手に口出しをすると、どんな事が起きないとも限らない。心得ていて下さい」 「はい、はい。委細承知」  と岡野は上機嫌で大きく頭を下げた。雪はない。風は少し冷めたいが爽やかである。  妙見へ行くと、いつもに無く大勢人が集っていた。小吉が顔を出すか出さないに 「勝様だ、勝様だ」  早くもそんな声が聞こえた。岡野は如何にもなあというような顔をした。小吉は本堂へ上って、ひょいと見ると、法華の行者のような風態の四十がらみの男が、尤もらしい顔をして上座にずばっと坐っている。 「おい、何にがはじまるえ」  立ったまゝ堂守へきいた。 「はい。あの行者様は殿村南平様とおっしゃいましてな。真言の荒行を積まれたお方でございます」 「何にをするのだと訊いているのだよ」 「はい。今日は富ケ岡八幡の富の日でございます。皆様が|かげ《ヽヽ》富の寄加持《よせかじ》をしていたゞくとおっしゃいましてなあ。殿村様が清明様とおっしゃる女の行者様を使ってお寄せなさいます」 「云い出したのは誰だ」 「神鏡講の弥勒寺橋の勘太さんがかげ富の箱子をなさっていまして」  かげ富は富札の当りに賭けてやる|ばくち《ヽヽヽ》で何処かに胴元があって、八方へ箱子というのを出し自分拵えの札の好きな番を売って置く。これが当れば箱子が二分の手数料をとって買った札の十倍の金を届けて行く仕組である。当らなければ胴元の丸儲け、当ってもいわば二分の寺銭が上るようなものだから、手を代え品を代えて一生懸命売りつけるのだ。 「寄加持をして貰うと当るかえ」 「さあ」 「出鱈目放題か」 「そうとも定まりません、当る事もあり当らぬ事もあり」 「まあいゝ、その寄加持を拝見しよう」  小吉はにやっとして、傍にいる岡野の袖をひいて、二人並んで坐った。  殿村は、やっぱり行者の風態をして房々とした黒髪を紫の紐で結んでうしろに長く垂れた若い女を本堂へ廊下つゞきの別間から呼んで来た。面長な二十二、三のいゝ女であった。 「いゝ女だな」  岡野は早くも目をつけて、しかし流石に低い声で小吉に囁いた。小吉は黙っていた。 「これあ当世三美人両国の水茶屋難波屋のきさ女に似てるな」  またいったがやっぱり小吉は対手にしなかった。  殿村は女に幣束を持たせて妙見の正座に据え、一応の神いさめをしてからこれへ向って何にやらわからない祈りをしながら護摩を焚き出した。紅い火が焔を立てて、煙が濃く堂へ籠った。  神鏡講の人達が平伏して一緒に祈っている。小吉は顎を撫でて、にや/\しながら護摩を眺めていた。女行者清明のからだがだん/\慄えて来るようである。殿村の祈りの声も次第に高く大玉の珠数を砕けるように力強くすり乍らその声がやっぱり慄えて来る。女の声は遂に悲鳴のようになったと思ったら、突然叫び出した。 「本日は六の大目。富は六番、十二番、十八番よろし、よろし」  みんな、思わずうわうというような声を上げた。まるで講中が気でも違ったようなそのうめき声が静まるにつれて、殿村の寄加持の護摩も終って、女行者は悠々と立って廊下伝いに別間の方へ戻って行った。 「勝さん、あれあ全くあんな事をさせて置くは惜しいわ」  と岡野はまたいって 「顔の利くおのしだ。何んとかならぬか」  小吉は眉を寄せて、今度はじろりと岡野を睨んだが、すぐに余り馬鹿々々しいというような顔つきになってそっぽを向いた。みんなは、雪崩のように勘太の前へ行き、われ勝ちに六番のかげ富を買っている。  殿村が得意気に小吉の前を通って、やっぱり別間へ行こうとした。小吉は 「おい。殿村さんとやら、おれは、入江町《ところ》の勝小吉というものだが、今のを拝見していて、ほとほと感心した。しかし、こ奴あおれにも随分出来る事だろうねえ」  と声をかけた。殿村は振返って、ちょっとおどしつけるような顔を拵え 「いや俗衆が容易には出来ぬ」  嘔きつけるようにいった。 「どうしてだえ」 「寄加持は悉く法がある、修行をつまなくては出来ない」 「はっ/\、そうかね」  といって 「だがよく積っても見ろ、お前がような何処の馬の骨だか知れねえ者に、あのように器用に出来るを、おれあね、生れながらの御旗本だよ。そのおれが一心を誠にして寄せたら、神様は速やかに納受ある筈じゃあねえか」  殿村は眼を吊上げた。歯をがち/\鳴らして 「御旗本かは知らぬが、行者には行者の法がある。あなたは出すぎた事をいう人だ。神前、御無礼であろう」 「無礼か無礼でねえか、論より証拠だ。どうだお前、おれが前に出て両手をついて礼をしろ」 「え?」 「おれが許すといわねえ中に、お前の額が上ったら、おれは今日からお前の飯炊になる。さあ、来い」  余り剣幕が烈しいので箱子の勘太が真っ蒼になって小吉の前へ逼い出して来た。 「勝様々々」  掌を鼻っ先きへ合せて畳へ額をすりつけている。 「おい勘太、てめえは講中の世話焼きだが、この殿村という行者たあ所詮同じ穴のむじなだから、定めし困る事だろうが、勿体なくも妙見を餌につかった|いかさま《ヽヽヽヽ》は、おれは勘弁ならないのだ」 「そ、そ、そんな事はござりませぬ」 「てめえは、煮豆屋が渡世だというが、かげ富などを種にして、そんな悪事をするよりも、例え利鞘は少なくとも塵も積って山となるのだ、地道に稼ぐがいゝではないか。これ、それが堅気というものだぞ」 「へ、へえ、何にはともあれ、ど、どうぞ、この場はわたくしに免じて御勘弁を願います」  四辺の人達ががや/\騒ぎ出して、小吉との遣り取りのこんな言葉が殿村には聞こえなかったらしい。  馬鹿が少うし図にのって 「そんなことを云われて、わしもこのまゝ引っ込んではいられない。それ程に大言を吐くならば、さ、この目の前でそなた寄加持をして見ろ」  と吐きつけた。 「いゝとも。その先きに今の女に逢って来る」  小吉はすぐそこを立って奥の別間へ駈け込んだ。女は手あぶり火鉢の前にぼんやり坐っていた。 「こら女、貴様、何処の奴か知らねえが、小ばくち打ちの勘太を手先きにあんな行者と腹を合せ、今日は六の大目だなどと白っとぼけて目をよんで、堅気の人達をたぶらかし、富が開いたら違ってたと、まる/\あの銭をふところへねじ込む算段に定まっている。場末の講中をそれからそれと荒し廻っている野郎だろう。え、お、てめえ清明などと勿体ぶってあの行者の嬶《かかあ》か」  女はぶる/\慄えながら、ちらっと眼を廊下の南に向いた窓の方へ流してやった。小吉も自然それを追った。  窓に内ぶところ手の左の肱をかけ、土火鉢に右手をかけて知らぬ顔で外を見ている少しやつれた黒羽二重、月代の延びた侍がいる。渡辺兵庫だ。はゝあん、こ奴|懲性《こりしよう》もなくまだこんなところにまご/\してやがる。これが用心棒影武者か。小吉は内心少し驚いたが笑って 「おい、女。とにかく本堂へ来い。お前が来なけれあ、殿村も勘太も唯じゃあ済まないよ。これからおれが水垢離をとり寄加持の護摩を焚いて祈るから、お前、心に感じた目を云うのだ。さっき云った大目は六と思ったら、そう云ってもよし、違うと思ったらそっちをいうのだ」  小吉は本堂へ戻ると、下帯一つになってすぐに御手洗井戸へ下りて行った。行き乍らふり向いて 「堂守さん、新しい褌を一筋用意しておいておくれ」  といった。   女行者  水の音がするとみんな首を縮めた。身にしみて寒くなった。小吉の祈念の声が大きく聞こえて、やがて飛んで戻って来た。  それからはさっき殿村がやった通り、幣束を持たせて女行者を据えて、護摩を焚いて何にやら早口に祈祷をした。大づかみにどん/\柴をくべるので、火炎も煙も大袈裟で、火の粉が本堂の天井へ飛んで行く。みんなはら/\している中に、小吉が慄え出し、女行者も慄え出した。脇差をさし、刀を傍へ引きつけた侍の祈祷姿は、まことに不思議だ。  小吉が途中でやッと烈しい気合をかけた。それに応じて 「今日は八の大目、富は八番、十六番、二十四番——」  女行者が口走った。 「あっ」  誰となくそう叫んで、堂の内の者はみんな呆っけにとられた。 「そ、そ、それではさっきの大目の六番はどうなる」  札を多く買ったもの程青くなって、みんなきょろ/\四辺を見ている。  小吉はすっと護摩壇へ突立った。 「どうだ、御旗本の御威光というものはこんなものだ。何にが真言の行者だよ。みんな——わかられたか。得態の知れねえこんな奴らの寄加持祈祷などとは凡そ|いかさま《ヽヽヽヽ》だ。加持祈祷で金が儲かれあ、誰が汗水かいて働くものか。え。さ、買った札を勘太に返して、すぐに金を受取んなさい。これから先きもある事だから、余り法に脱《はず》れた慾はかゝぬがいゝね」  殿村と女行者が、転がるようにして廊下を逃げた。 「おい、みんな勘太の奴は逃がさぬように」  小吉はそういってから、二人の後を追った。 「先生、渡辺先生」  殿村はまるで泣声だ。渡辺は刀を下げて立っていた。追って来る小吉は見ず、泣ッ面の二人へ 「おれは帰る」 「え? かえるのでございますか。あ、あ、あの男を此儘に」 「帰る。お前ら好きなようにしろ」 「そ、それあ殺生だ。先生、あ奴を、こゝでこの儘にしておいては、この先き飯が喰えなくなります」 「そんな事は知らん。帰る」  渡辺は二、三度、ぴく/\と頬をふるわせたが、そのまゝすうーっと出て行って終った。  小吉はにやりとした。 「おい、渡辺さん、帰るのか」  その声に渡辺は、一度ふり返ったが、何んにもいわなかった。  岡野が来た。 「勝さん、あれは何んだ」 「何処かの剣術遣いだろうね」 「妙に凄味にしているな」 「そのようだが」  殿村と女行者が逃げて行くうしろ姿が見えている。  岡野は少しあわてて 「惜しい女だ」 「どうだ。あなたもいかさま行者の仲間に入っては」 「何処へ行くか、わしは後をつけて見る」 「それも面白いでしょう」 「本当だよ」  どうも驚いたのは、如何に寄合でも千五百石の旗本岡野が、本気になってたった一人のそ/\と女行者の後をつけて何処かへ行った事だ。  小吉もこれには苦笑した。引きかえして本堂へ来て 「これ勘太、てめえ二度とこんな|いかさま《ヽヽヽヽ》を仕掛けて来ると、首を取るがいゝか」  怖い目でにらみつけた。勘太は慄え上って 「へ、へえ。別にそのいかさまの何んのという気持はねえんですよ。みなさんに一儲けおさせ申してえというわたしの考えが間違いの元で、——大目を六といったり八といったり、あんな行者達とは知らなかったもんですからね」 「黙りゃがれ。ぐるでやがるに——札を換えたらとっとと消えろ」  べっとり汗で勘太は身動きも出来ない。やがて帰って行く。本堂前の御手洗井戸の蔭まで行ってやっと堂の方をふり返った。 「余計な事をしゃがる。唯で置く奴じゃあねえのだが、何しろべら棒に腕っぷしが立ちゃがるから」  ぺっと舌を鳴らしてすご/\と姿が無くなった。  堂の方では講中の人達が、今度は小吉をまるで御本尊のようにあがめ出して、勝様々々と大層な人気だ。 「だが勝様が寄加持を遊ばすなんぞとは夢にも存じませんでしたね。あんな行者などを招くと、余計なお金もかゝりますし、当り番でも箱子に二分の手数をとられる。どうでしょう皆さん、これからは富の日には勝様に寄加持をお願い申し、大目を読んでいたゞく事にいたしましては」  如何にも慾の深そうなおやじがそういい出した頃は、小吉はもうそこにはいなかった。  その晩、お信と御飯をたべていながら、小吉はふと思い出して 「岡野の女好きもあれあ気違い沙汰だねえ」 「さようでございますか」  いってるところへ、例によって庭先きから、当の岡野孫一郎がぬうーっと入って来た。  縁の外から 「勝さん、頼みがあって来た」 「おや、岡野さん」  庭の障子を開けると、空は星が一ぱいで、天の川が息を吐いたように白い。小吉はにや/\笑って 「どうでした」 「それについて頼みがあってね」 「まあお上がりなさい」  岡野はのこ/\上がって、それでも少してれ臭そうにお信に一礼して小吉の上座についた。 「実は、女のいどころを確かめてな」 「で?」 「話の脈はありそうだが、おのしのような界隈に顔のきいた人に口をきいて貰わなくては後々うるさい事の出来るも嫌やだ」 「それが心配ならお止めなさるがいゝでしょう」 「いや、そうは行かん。元来おのしは、女には木石だ。兼好法師のいった珠の盃底無きが如しという人だから、ちと話難い対手だが、風流もまた男の本懐というものだよ。一つ、骨折を頼む」 「真っ平だ。小吉には女の事は苦手だ。それにあの行者にはどうやら悪い紐がついている」 「どんな悪い奴がついていたとて、こちらも千五百石の岡野だ。女の心はすぐにこっちへ通うて来る」 「それならなおの事、人手をかりる事はないでしょう。男女の事は他人を交えずその男女で取仕切るが本筋だ」 「まあそう云うな」 「嫌やな事だ」  小吉はちらっとお信を見た。お信は眉を寄せていた。  岡野はずいぶんくどくいう。が、とう/\嫌やだ嫌やだの一点張りで、やがて、岡野はとんだ不機嫌でぷり/\しながら帰って行った。裏木戸を力強くぱたーんと蹴るように閉めた音がした。 「麟太郎がいなくてよかったわ、あれあ不浄の第一だなあお信」  小吉もにや/\して 「岡野さんもいゝ年をしてとんと困ったものだ。馬の骨やら牛の骨やらわからねえ行者女なんぞに使う金があったら、家来の一人もふやすがいゝにな」 「さようで御座いますとも。全く困ったお方でござりますねえ。日々の物にさえお困りなさる奥様《おまえさま》の御苦労をお察しいたしますとほんに涙が出て参ります」 「うむ。ひょっとしたら、あの人は気が違っているのかも知れないなあ。お信、こ奴は或は困ったことになるかも知れねえぞ」 「どうしてで御座いますか」 「いつかおれが家へ担ぎ込んで来た手首のない剣術遣いの渡辺兵庫、あ奴が女のうしろにいる様子だ」 「あの不気味な人が? それは大変な事にならなければよろしゅうございますねえ」  小吉は少し考えていた。 「おれも、あ奴が事はとんと忘れていたが思わぬところで顔を合せてびっくりした」  とつぶやいた。 「でも、そうした人達の事には二度とお触れなさらぬが宜しゅうございます。兄上様のお耳にも入らば、きついお叱りを受けましょう」 「うむ」  仮りに兄などの事はいゝとしても、そんな下らない事が、何処をどう麟太郎の身の上に響いて行かないとも限らない。小吉が、今、お信の顔を見て、それへ思いつくと、背中が冷めたくなる程ぞうーっとした。天へ登りかけている竜へ、邪魔をしてなるものか。 「はっ/\は、桑原々々」  と小吉はぺしゃ/\頭を叩いて 「今日もおれは、ちょいと余計な事をしたかも知れねえ」  とひとり言をいった。  次の日、門の外で仲間を供に何処かへ行く岡野の伜の主計介に逢った。主計介は 「父上が大そう不機嫌でねえ、勝さんは薄情者だなどと一晩中ぶり/\云ってましたよ」  と笑った。 「そうかえ」  と小吉も笑った。 「わたしはね、次第によっては父上に隠居をしていたゞこうかとも思っている」 「え?」  主計介は行って終った。おのれが事を棚に上げて、実のおやじに何にをいってやがる、馬鹿奴。小吉はそのうしろから唾でも吐きかけてやりたいような顔をしてじっと見送った。  男谷精一郎が、勝のところへやって来たのは同じこの日である。もうすぐ御番入だが、今は一介の道場の主だから、これはいっこうに気軽だが、襟筋一つゆるがせにはしないきちんとした着こなしは、その人柄を現しているようであった。  お信の出す茶を 「頂戴仕ります」  といって押しいたゞいて一喫してから、笑い顔で 「叔父上、父はわたくしに、あなたを打《ぶ》ちのめせと云いました」 「ほう。どうしてだ」 「叔父上が学問をなさらぬは剣術に浮かれて大地に足がついていぬからだ、一度死ぬ程ぶちのめされたら正気づくと申すのです」 「はっ/\は。それは兄上の飛んだ間違いだ、おれはいかにぶちのめされても学問は嫌いだからしないよ」 「ところがその父も近頃は一飛躍いたしました。おれは雲松院《そふどの》から生きた本箱だと蔭口を云われた。小吉もそうなってはいかんから、学問はまあよかろうと申されます」  小吉は手を打った。 「そうか。それあ助かった。その代り今度はおれが兄上に生きた刀架とでも云われるかも知れないな」 「いゝえ、叔父上にはそうは申されませんでしょうが、わたくしのような剣術は、そう申されるかも知れません」  精一郎は、むしろ無邪気にくす/\笑った。 「ところで、兄上がやかましかろうに、今日はまたお前、何んでこゝへやって来たのだ」 「はあ、五月六日、御節句の次の日、団野真帆斎先生御追慕御追悼の諸流手合の会をわたくしの道場で開催いたしたいと思います」 「その噂は実はおれも内々できいていた。いゝ事だ。先生は有徳《うとく》の長者だったから諸流の方々も大勢御参加というではないか」 「はあ。今のところ三百七十余方」 「それあ豪儀だ。剣術遣いを集めるなら、予めおれにもそう云ってくれれば、蔭ながら何にかの手助けも出来たろうに、お前、とんと水臭せえね」 「そうではありませぬ。叔父上にさような事でお手数はかけたくなかったと共に、今度の手合総行司をお願いしたかったからでございます」 「総行司? お前、真剣でそんな馬鹿をいうかえ。兄上のおれを怒鳴る顔が、眼の前に見えるようだよ」 「わたくしの申すのをきいて、父上も結構とよろこんでおられました」 「へーえ。そ奴あ風向きが変ったねえ」 「はあ。父上も剣術というものに、多少御理解が参られたようでございます」 「仮りに兄上はいゝとして、諸先生方がうんと云いやんしょうか」 「参加諸先生方が一人残らず、叔父上を総行司に御推挙でございます」 「こ、こ奴あ驚いた。とんと手廻しのいゝ事だ。お前には叶わねえよ」  精一郎は、しっかり頼んで、お土産の鮨折を置いて帰ったが、小吉は、縁へ出るといつになくぴたりと、西に向って端坐して 「おい麟太郎や、今度あ、おれが総行司だとよ。故団野先生へはじめての御恩返しだ。この先きはおれもやる、お前には敗けねえぞ。お前も命かんまず御奉公、きっとおやじに敗けるなよ。聞こえるか、え、聞こえるか」  大きな声であった。  三日つゞいて雨が降った。  岡野の屋敷からは、あれから一度も鼓の音が聞こえない。 「どうしたろう」  ふと小吉がそう思った。   ごろつき  玄関で人の声がした。 「御免下さいまし」  小吉は、ちらりとお信を見てから、のっそりと立って行った。 「何用だ」 「へえ」  と玄関の土間の隅に小さくなって立っているのは弁治と五助の二人である。いつもの風態ではなく、紺の腹掛け股引に新しい突っかけ草履、背中はわからないが襟に「玉本小新」と染めた半纏を着ている。小吉はにらんだ。 「何用だ」 「へえ」 「両国で小新という軽業の女太夫、大そうな評判だてえが、お前ら、それに喰いつきやがったか」  弁治は少し後ずさりをしながら揉み手をして、 「仲間の奴が興行は一、二カ月だろうが、大阪下りで人手が足りねえ、どうだ、働かねえかといいやすもんでござんして、五助にも話したら、どうせ見世物小屋は昼の間だけだから、夜は夜で蕎麦が売れる、こゝんところ、摩利支天の神主から暇の出た妹が、ちょいっとからだを悪くしてるから、医薬や何にかでどうにもふところが苦しい、働こうという訳で、二人が手間取りをはじめました」 「そ奴あ結構だ。が、おれがところへ何にをしに来たのだ」 「へえ、五助が申しやすんですよ。どうにもこの太夫というものあ別嬪だ。まだ十六でございますが、その美しいことったら江戸中の評判に間違いはねえ。勝様はとんだ女嫌えだが、一度お目にかけて置くがいゝと」 「ふん、馬鹿奴ら」  小吉は鼻先で苦笑した。 「そうなんですよ勝様」  と五助はもそ/\口の中で 「大振袖の初々しい姿でごぜえやしてね。元結《もといい》渡りの曲芸で綱の上でこうからだを横たえて肱枕をしますが、それがまるで天女でございますよ」  という。 「それに他の奴らと一緒に猿猴の遊びというのをやります。天井高く組んだ大竹から三人のものが手に手をとってぶら下がり四方へふらり/\と身を動かす。これが青柳の風になびく風情でございましてね。かてて加えてこ奴の口上をいう半八という男の道化がまた至極の妙で」  小吉がにや/\し出したので弁治が少し図にのって前へ出て行くと途端に 「馬鹿野郎」  こんどは大きな声で目の玉の飛び出る程に叱りつけられた。  二人ともぱっと後ずさりに飛退った。 「この勝がうぬらのたくらむ位の事の、わからねえ程|木偶《でく》と思っていやがるか。こら、うぬらあ小屋のおやじに頼まれて、おれをそこへ引っ張り出し、この小屋には勝が出入と、ところのごろつきが小銭《こぜに》強請《ゆすり》のまじねえ札にしよう算段、滅法な太い奴だ」 「と、と、飛んでもねえ」  と五助はもう往来へ飛出していた。 「何にが飛んでもねえものか。こら二人ともよっく聞けよ。おれが伜の麟太郎は、勿体なくも春之丞君御対手役に御城へ上っているのだぞ。この小吉を唯の小吉と思いやがるか」 「へ、へえ、へえ」 「うぬらを屋敷へ寄せてはならぬと、おれがお信には云われるが、麟太郎がいない事だから、まあまあ不浄の声も聞こえまいと、こゝんところ大目に見て」  と、小吉はちょい/\、奥のお信を気にしながら 「出入を許してやれあいゝ気になり、おれを|だし《ヽヽ》にうまい事をしようなんぞは、大それた量見だ。まご/\してれあ首あねえぞ」 「そ、そんな」  弁治も額に脂汗をにじませて、手の裏で忙がしくこすりながらやっぱり外へ出て終った。出たと思ったら、二人ともぱっと身をかえして、足で自分の頭のうしろを蹴上げるような勢いで逃げた。  ものの二町も来て、大きな旗本の下屋敷の前。 「あゝ、びっくりした」  と弁治が立停った。 「全くだ」  とやっぱり五助も脂汗をかいている。 「あゝしてすぐにこっちの腹を見抜いて終うんだから、やり切れねえよ。が、困ったねえ。軽業の親方に胸を叩いて引受けて来ッちまったんだ、これが駄目となれあ、こっちはお払箱だよ」 「困ったなあ。あゝして法外な給金を出そうてえのも、おれ達のうしろに勝様がいるのを知っての事だものなあ」 「そうともよう。だが仕方がねえや。首になったらなった時のことだ」  と弁治は頻りに唇をなめて 「こんな事なら最初《はな》っから勝様に、実あ斯う/\とお頼み申せあよかったなあ」 「とんだ大|失敗《しくじり》だったえ」  しょんぼりと歩き出して、それからまた二町ばかり。津軽屋敷の表門前を左側へ寄って通っていたら 「待て」  遠くで声がした。振返ったら遥かに小吉である。 「おッ」  と二人は引っくり返る程に驚いて 「て、て、大変だ」  真っ蒼になった。  一ツ目通りの四つ辻まで逃げたが、五助は自然に足が立ちすくんだ。 「兄貴いけねえよ。お、お前、に、に、逃げたって追っつかねえよ。何処まで逃げて見たところで勝様に睨まれたんじゃあ所詮江戸にゃあいられねえ」 「そ、そうだ、その通りだ」  弁治も立って 「こ、この上は謝まるより外あ法はねえ。うまく小屋へ引っ張り出して、案山子《かがし》にしようなどと考げえたのが重々こっちの間違えだ。お、五助、坐れ」 「え?」 「土下座をするんだ。二人こゝへ土下座をしてな。斬られる覚悟をするんだ」 「えーっ!」 「腐ったって江戸っ子だ。いまわの際にばた/\しては見っともねえ」 「そ、そうかあ」  二人はそこへ並んで行儀よく坐って終った。  小吉がやって来た。 「おう、手前ら、そんなところで何にをしてやがるんだ」  弁治は、手を合せた。 「二人とも覚悟をいたしました」 「何んの覚悟だ」 「勝様に斬られるつもりです」 「そうか、おれは人を斬るが大の好きだから、斬れというのなら斬ってもいゝが、これから軽業の玉本小新という女の小屋へ行くところだ、お前ら、けえる迄、そうして待っていろ」 「へえ?」 「待っているが嫌やなら、うしろに附いて来い」  弁治、五助は坐ったまゝでぱっと二人抱き合った。ぽろっと涙をこぼしてやっと立ち上った時は、小吉はもう亀沢町の先きを歩いていた。  夢中で追いかけて、 「勝様、勝様」 「聞きゃあがれ、お信がなあ、行ってやれと云ったのだぞ」  やがて三人が東両国の見世物小屋「玉本小新」の大きな看板の出ている木戸口へ行った。 「どうだ、おれが此処へ立っていようか」 「と、とんでもござんせん」  といってから弁治が、精一ぱいの大きな声で 「おいらが可愛がっていたゞいている御旗本勝小吉様が御見物下さるよ」  と叫んだものだ。流石の小吉もこれには閉口した。  かねて話があったと見え舞台にいる芸人も楽屋にいる者も、あわててそこから飛出して来て太夫元の惣左衛門という、でっぷりした赤禿のおやじが土下座をする恰好で小吉を楽屋へ案内した。人気ものの小新をはじめ芸人が代る/\挨拶に出る。 「狐につままれている塩梅《あんべえ》だ」  と小吉は苦笑した。  用意がしてあって酒の膳を出したが、小吉は 「太夫元さん、弁治も五助も余り利口な方じゃあねえが、頼まれても首の無くなるような悪事も出来ない奴だから、どうか可愛がってやって下さいよ」  と、立ったまゝだった。太夫元は水引のかゝった金一封を、三宝へのせて持って来た。小吉は笑って 「おれも滅法な面というものだ」  見向きもせずに行って終った。太夫元と弁治が何にやらもめている。  小新が小吉について来た。小吉はふり向いて 「お前、別嬪だねえ」  といってから 「女は綺麗なれあ綺麗な程に身を過りやすいものだ。殊にこんな世界にいる事だから、よく/\慎しむがいゝねえ」  五助が眼を丸くした。小吉が女へ言葉をかけるのを見たのが、これがはじめてだ。 「はい」  小新はそういって、素直にうなずいた。 「お前らね、おれが本所《ところ》の顔役ででもあるように、あゝして銭を出したりしているが、おれは御旗本だ、|ごろつき《ヽヽヽヽ》じゃあねえんだよ、おれが家内のお信というのは、よく出来た女だから、よくしき詰った相談があったら来るがいゝ。いゝかえ、重ね/″\女は身を慎しむが第一だよ」 「有難うござります」  小新の顎が匂うように白かった。  少し行った往来へ弁治がまた追って来た。小吉は、また怖い目をして 「大馬鹿奴、銭を持って追って来やがったな。ほしけれあ手前らに呉れてやる。ぐず/\云うと斬ッ払うぞ」 「へーえ?」  弁治はさっきの水引包を持って縮み上って膝ががく/\した。 「じゃあ、これはもう出しません」 「当たり前だ」 「お屋敷まで送って参ります」 「いらないよ。お前らなんぞに送られては、近所隣りへ|ふう《ヽヽ》が悪くて仕方がない」  が、弁治は後から追いついた五助と二人何処までも何処までも送って来る。 「勝様、お隣り屋敷の岡野の殿様の御様子、おききでございますか」  弁治は利口だ。がらりと調子を変えた。 「お前、何にかきいたか」 「へえ、いやもう大変でございましてね。亀戸の不動院、あすこの院家が柳島の梅屋敷にありやすがね。化物の出るようなひどく荒れた小さな家ですが、そこへ巣喰っている|いかさま《ヽヽヽヽ》の行者がいる」 「殿村南平という奴だろう」 「へえ、然様《さよう》で」  小吉はちょいと立停った。 「わかった。そこで岡野の殿様が、女行者を対手に日夜酒をくらっているのだな」 「さよです。勝様のお隣り屋敷でもあり、千五百石の御大身にしては、誠にどうも御乱行で、かねて勝様ともお親しい事は承知してますもんですから、他人事《ひとごと》とは思われません。何にしろその女行者って奴の周りには悪い奴が大勢いる。今にひどい目にお逢いなさると思って、ちょいとお耳に入れやしたが」 「お前が怖え渡辺兵庫もいる筈だ」 「渡辺?」 「左手首のねえ男よ」 「いゝえ、あ奴は見かけませんよ」 「あの行者は殿村の嬶か」 「いや、本当の妹だという事です」 「よし/\。投《ほ》ったらかして置け。元々岡野が、刀の差しけえもねえ貧乏たあ知らないから、金にする気でかゝっているのだ。馬鹿を見るのは、岡野ではなくあ奴らだ」 「へえ」  途中で二人に別れ入江町へ帰って、一寸びっくりした。岡野の奥様《おまえさま》が来ていた。  挨拶をしてふと見ると、瞼に涙が一ぱいにたまっている。お信もうつ向き加減にしている。 「勝様、御願いがあって、お帰りを待たせていたゞいておりました」  奥様は、消え入るような小さな声だった。 「御願いなどと恐れ入ります。先般主計介様のお話で、殿様に御隠居をおさせ申し、自分は、天領の御代官を勤めたいなど、仰せでしたが、何にかその事で」 「はい、それも然《さ》る事では御座りますが、実は殿様から、斯様な書状《ふみ》を持参の者が屋敷へ参りまして」 「ほう。で、その使者は」 「一先ず戻り、|七つ刻《ごゞよじ》頃に改めて参上と申しておりました」 「風態は?」 「御浪人のように見受けました。この書状《ふみ》を御覧下さいまし」  孫一郎からの書状を見たら、この書状持参のものに、金子五十両を渡して呉れと書いてあった。 「お遣しなされますか」 「そのような金子など——」 「はっ/\。殿様も飛んだお方だ」 「どうしたら宜しゅうござりましょう」  小吉は腕を組む恰好をしてお信と顔を見合せた。   こゝろ  小吉が岡野へ行って待っていたら、どうした訳か|七つ《よじ》というのが遅れて|七つ半《ごじ》になって、如何にも月代を延ばした色の浅黒い浪人風の男が返事をとりにやって来た。  すぐに小吉が出て行って、 「殿様に少々家事方の急用がしったい仕りましたので御面倒ながらわたくしがお供をさせていただきます」  と鄭重に挨拶した。浪人はしかめっ面をして 「何、供をする?」 「お願いいたします」 「金子を渡すが不信用というのだな」 「飛んでもございません、毛頭そのような次第ではありません」 「金子は持参したか」 「は」  小吉は内心おかしかったが、白っ呆《とぼ》けて、やがて浪人について屋敷を出た。  大横川ッぷちを法恩寺橋まで二人とも無言だった。足元が何んとなく靄立って来て、黄昏が近い。 「お前は岡野どのの家来か」 「は」 「金子は確かに持っているな」 「はい」  浪人は橋を渡りかけてじろりと横目に睨んだ。うっそうとした法恩寺の森に幾組も/\鳥の群れが次から次とふるように下りて行く。  横十間川の天神橋まで来るとすぐ亀戸の天満宮。こゝの前から不動院の方へ曲ったら、本当に日が暮れた。  梅屋敷の奥にある院家には、もうぼんやり灯がついていた。 「あすこですね」  小吉がひどくおとなしい声できいた。 「よく知ってるな」 「何んだか、そんな気がしました」  浪人は小急ぎに、がたぴしした戸を開けながら 「岡野どのの家来が金を持って来たよ」  と内へ声をかけた。 「ほう、そうか」  誰か出て来る。小吉はぱっと浪人の先きに出た。びっくりして、うしろから引っつかもうとしたが、こ奴をぱっと払われて、浪人は打たれた手首を持ってのけ反って終った。 「静かにしろッ」  怒鳴りつけて、土間へ。小吉は、つゞいて出て来た二人の侍へぐん/\顔を押しくっつけるようにして、奥へ上って行って終った。侍達は刀の柄に手をかけたが、どうにもこうにも仕様がない。縮んで終っている。  さっきからの侍は剣幕に驚いて真っ青になった。  白の行者着で、殿村南平が出て来た。出て来てこれもまたいっそうびっくりした。 「お、あ、あ、あなたは」 「あなたはも無いものだ。お前も一かどの|いかさま《ヽヽヽヽ》行者で、荒い稼ぎをしてるにしてはとんと目端《めはし》の利かない人だよ」  小吉は肩をゆすって笑った。 「妙見へ岡野の殿様をつれて行ったはこのおれだ。それにおれは殿様の地借人《じがりにん》、塀一重の隣り合せだよ」 「うーむ」 「千五百石に相違はないが、こゝのところ人に云えない訳があって滅法界《めつぽうけえ》な大世話場でね。五十両は愚かな事、一両の金もあるものか。黙って殿様をおれへけえせ。その代りにはこの勝も、満更のわからず屋でもないつもりだ。折角お前が見込んだ山がみす/\崩れるも気の毒だから、今日明日とは行かないが、近い内にきっと何んとか外の事で埋合せはしてやるよ」  殿村は薄暗い中で瞬きもせずにじいーっと見ている。実は立ちすくんでいるのである。 「今日は渡辺兵庫はいないのか」  対手は声も出さない。小吉はさっ/\と襖を開けて灯のある方へ入って行った。  |しめ《ヽヽ》縄を張って、床の間に形ばかりの神祀りをした祭壇。その前に、岡野の殿様がもうぐったりと酔いしれて、きっちりと坐った女行者清明の膝にだらしなくもたれかゝっている。前にはうすよごれた膳椀に酒の徳利などが狼藉だ。 「殿様、勝だ。お迎えに来やんした。帰りましょう」 「おう」  岡野孫一郎は、はじめて正気づいた恰好で 「勝さんか」  と首をふって 「帰れ? いや、そうは行かんよ」  唇をなめた。 「殿村どのが大そうな馳走でな。それに、はっ/\/\、岡野、些か本望を達したわ。この男冥加の天にも昇るよろこびを、本来木石のおのしは知らん。十日二十日は帰らん、帰りませぬぞ」 「そうか」 「この人は天女じゃ。わしはこれ迄にいろ/\な女を知っている、が、このような女は知らぬ」 「そうか。が、あなたはお屋敷へ五十両この者に渡せと仰せでしたが、その金子は何処にあるのですか」 「わしがおらんでも千五百石にそれ位の融通のつかぬ事はあるまい」 「一朱の融通もつかぬそうだ。奥様《おまえさま》から確《しか》とさようにおことづけですよ」 「ちぇッ」  と岡野は、がくりと頭を下げて 「糞奴が」  と舌打をした。 「主計介《ごしそく》も、差替の刀もないといっている。金子の融通をなさるなら、やっぱり当主たるあなたが一番だ。だから一応帰りましょう」  小吉は、ぱっと岡野の側へ寄ると、素早く脇へ腕を入れて抱え上げた。  小吉は、すっかり度胆をぬかれてまだぼんやり立っている殿村へ 「南平、岡野さんには勝がついている事を忘れるな。その事を、渡辺兵庫にもしかと云ってお置き」  そういい乍ら、岡野をずる/\と引きずるようにして襖の前へ来た。さっきの浪人風の外に二人ばかり、何れも人相の余りよくない男が立ちふさがるようにした。  小吉は、くすッと笑って 「お前ら、田舎ッぺえだな。勝小吉を知らねえかえ」  といった。殿村は、その男達に、手出しをするなというように目くばせをした。 「お前らも、ちいーっと対手を見損った。岡野の殿様を金にしようなどとはとんだ量見違いだったよ」  この時、殿村が、急にきっとした態度になった。 「勝様、話がある」 「話? 謹しんできゝやんしょう」  殿村は、しかしいえなかった。 「よし、この場の仕儀では話したい事も話せまい。おれはこれから殿様を、お屋敷へおつれして奥様《おまえさま》を御安心おさせ申してから、すぐに引っけえしてまた此処へ出て来る。その時は話はおろか、浪人共を狩集めて斬るなと突くなと勝手放題。どうだ、それでいゝだろう」  小吉の顔を見たまゝ、諾いた。  岡野は頻りに何にかぶつ/\いっているが小吉は対手にせず、腕を自分の肩にかけて戻って来る。何気なしに、ふと振返ったら、院家の窓の下にしょんぼりと立って、こっちを見送っている女がある。どうも清明らしかった。  何んだかあっけない。小吉を算盤に入れずにあ奴らのやっている事もどう考えたって腑に落ちないし、あの院家に、間違いなく凄味を利かせているだろうと思って行った渡辺兵庫のいないのも少しおかしい。岡野に五十両持参の書面を書かせたにしてはやっている事が一から十まで馬鹿に辛子がきいていない。小吉がそんな事を思い乍ら肥った岡野を担いで来る。  天神橋へかゝった頃は、人の苦労も知らずに岡野はまるで下司の町人のように鼻唄かなんか唄っていたが、やがて鼾をかき出した。  小吉は少しむしゃくしゃして、その辺へおっぽり出してやりたい程だった。  馬へ乗ったきりっとした年配らしい侍が槍を立てて、提灯を突出した若党を一人つれ、法恩寺の門前ですれ違った。  小吉が梅屋敷へ引返したのはもう|四つ《じゆうじ》亥の刻であった。 「おい、殿村、約束通りやって来たが、外がいゝのか家の中がいゝのか」  戸の外からこういった。  内で静かな物音がした、そして戸が開くと 「お入り下され」  殿村が腰を折って頭を下げている。 「仰せの通りよ」  小吉はずばッと入ると、上り端に清明が手をついている。 「ほ、ほう、こ奴あ妙な塩梅《あんべえ》だね」  そのまゝ、さっきの奥の間へ案内された。綺麗に片づいている。 「渡辺兵庫はどうしたのだ」 「あの人はいない」  といって、殿村は 「勝様、わしは、あなたへお手向いをするような気持は少しもない」 「ほーう。妙見が時とは、だいぶ様子が変ったが、薄ッ気味が悪いんだねえ。ま、どっちにしても、とにかくさっきのお前が云った話というのから聞こうかねえ」 「先ず第一に渡辺兵庫先生、あの方は、妙見堂であなたにお目にかゝってから、どういう訳かここへもお寄りなさらず、そのまゝ何処かへ行かれて終った」 「お前の加持が偉《きつ》いから、天にでも昇ったか」 「さようなおからかいは困る。わしははじめの中は何糞ッとも思いましたが、あの時のあなたの御威勢にはすっかり恐入って終った。御旗本の御身についた御威光というは、大そうなものです」 「はじめてわかったか」 「以来、わしの気持も動きました。もう余りあくどいことは致すまいと決心をした。といって、寄加持をし、護摩を焚かなくては御飯をいたゞく事は出来ない。真言多少の修行に基きあれはあのまゝやります」 「それと、このおれが何んのかゝわり合いがある」 「この先きわしのあの加持だけは、見て見ぬふりをしていたゞきたい、そのお願いが一つ。尤も悪い事をした時は、すぐに斬られても否やは申さぬ」 「ほう、お前《めえ》、案外いゝ男だねえ。それにしては妹の女行者をおとりにして、岡野の殿様などをたらし込むはどういう訳だ。岡野はねえ、おやじと伜が揃いも揃った道楽もので、それあひどい貧乏だよ、お気の毒は奥様《おまえさま》お一人。お前にあの奥様の帯の前からぼろ/\と糸のたれているのを見せてえものだ」  いつの間にか隅へ入って来ていた清明が、ちらりと小吉を見て、その眼を南平へ流した。南平は割に大きな声で 「あの殿様をたぶらかそうなどという気持などは少しもござらん。あの殿様が余りの御執心なので、清明もそれにほだされたと申すだけ——五十両の御書面をお書きなさってお使を出されたのも、みんなこちらから一とこともいった訳ではない。殿様が御自分で|斯々《こう/\》となされた事で、わしは、お留め申した位だ」 「うむ?」 「殿様は、痩せても枯れても千五百石だ、屋敷には五十や百の金子はいつもある。清明にも行者などはやめさせ、女一通りの修行をさせてやるというお言葉で」 「はっ/\/\。殿様はな、決して悪い人ではないが、対手が美しい女となるととんと阿呆になるのだ。気違いさ。由緒ある屋敷を今の始末にしたもその女故のこと。清明さんとやらも若けえ身空だ、事一場の夢とあきらめ思い切るがいゝねえ」  殿村は、少し考えて 「実は殿様、こ奴は」  と頻りに清明の方へ気がねの様子で 「わしが申しても信用していたゞけぬかも知れないが今日まで男嫌いで通して来た。それがあの殿様にとう/\手折《たお》られて終うた。あの方の口説き上手、唯今、気違いさと申されたが、清明はあの殿様に敗けた。兄の身としてはこの縁はつゞけてやりたいのです。くらしの支えはさゝやか乍らわしが致す。殿様から一文のお手当が無くともいゝ。勝様、この事だけは見逃しておいてやって貰いたいのだ。このお話を申したく——お察し下さい。女心の不思議、兄の身として、これを断ち切る事は出来ないので——」  小吉は自分の頭を押さえた。 「いや、わかった。殿様もとんだ色男で、そ奴は仕合せな話だが、おい殿村、殿様はな、ひとり者じゃあねえんだ。貧乏屋敷を身を切る思いで遣繰りしている奥様《おまえさま》というものがあるのだよ。こっちはそれでよくっても、奥様の手前にこのおれが、何んとも返事は出来ないね。がどうせ女が病いの人だ。こゝんところで清明さんが、うまく轡をとってくれれば、どっちかと云えば大助かりさ。おれも、そっぽを向いていてもいゝかも知れねえ」 「お願いする。勝様、本心から慾得ずくではない事を信じて貰いたい」  この時、裏口の辺りで、こと/\と誰やら人のいる気配がした。殿村はそっちへちらりと目を走らせた。 「勝様、それにもう一つ——」   横十間川《てんじんがわ》  何にかいいかけた殿村が、出しぬけに 「勝様、屋外《おもて》へ出て下さい」  といった。小吉は無言で、刀を鷲づかみにすると先きに立ってどん/\出て行った。ちらりと見たら裏口の暗い土間に四、五人侍らしい姿がうごめいている。  右手遠くに境町の辺りの灯がちら/\と見えるが左右は柳島の畑地、しかも細い道をへだてて鼻っ先きには光明寺だの普門院だの大きな寺が並んで、境内の森が、真っ黒く空から頭へ押しかぶさるように見えている。  途で小吉はふり返ってうしろについて来ている殿村を見た。殿村はすぐ 「勝様、あなたはかねて聞きしに優るお方だ。この殿村がどんな奴か、もう心底をお見届け下さったと思います」 「いや、わからねえよ」 「いゝえ、わかっていらっしゃる。だから申上げるのだ。わしは、元来あんな|かげ《ヽヽ》富の寄加持など、いかゞわしい事の嫌いな人間です」 「ほう」 「ふと金銭の慾に迷ったというのがそも/\わしの愚かさだが、実はあの渡辺兵庫にすゝめられた。一度柳島の白蛇の妙見へ押しかけて渡辺が睨みをきかせあれをやると、たやすく金が入ったのでその後はちょい/\加持の押し売りをして歩いた。そうしている中に、いつ何処できくものか毎日のように渡辺を訪ねて、いろ/\な風のよくない浪人が集って来ましてな」 「おい、殿村、あ奴ら一人残らず、みんな本当の侍じゃあねえよ」 「あゝ流石だ、お目が高い」  と殿村は大仰に首をふって 「当人達は結構上手に化けたつもりでいるが、何にかにつけてちょい/\尻っぽを出す。上総下総辺りのばくち打ちもいるようだし、甲州の大工くずれのやくざの化けたのも居る事がわしも感づけた」  亀戸から天神橋まで来て、小吉はぽーんと殿村の肩を叩いた。 「もういゝよ。わかった/\。事の成行とは云いながらお前があ奴ら小悪党共に喰いつかれ、心にもないいかさまばくちの寄加持などをやり廻っているはきいて見ると気の毒だ。兵庫がみんなをおっぽり出し、何んにも云わずたった一人で何処かへ行って終ったは、お前と同じにやっぱりあ奴らのあくどさに閉口しての事だろう。悪党は小《ち》っちえ奴程脂が強い」 「小っちゃい奴程脂がねえ。そうなんでしょう。いやもうほんとに堪らない。わしもあの人達に今のまゝでいつ迄も取巻かれていたのでは、遠からず自分で自分の首を絞めるような事になるのだ。どうしたらいゝか」 「いゝ鴨になっているという奴だな。因果応報、自業自得。よくある奴よ。まあ当分病気とでも云って加持祈祷などには何処へも行かぬ事よ」 「わしもそうも考えるが下手に奴らに楯をつくと命が無くなる。わし許りか妹も危ない事になりそうでしてね」  小吉は早口にさゝやいた。 「あ奴らどうやら後をつけていやがる。お前、気をつけてけえるがいゝよ」  そういわれて殿村が、ふり返ると、如何にも横の畑道の低い林の蔭から四人見えがくれにやって来るのがわかった。みんなさっきの奴らだ。 「お前もいかさまの寄加持などで、堅気の者のふところを痛めつけていた事だから、少しはその酬いはある筈だ。ぱったりとその悪事のきずなを断切れば、その後は罪も消えうるさい事もなくなるよ」 「あゝ、如何にも仰せの通りだった」 「とにかく気をつけて帰るがいゝね」  殿村は一礼して引返した。あれに万一の事があっては、あのいかさま浪人達が明日から喰えなくなる、間違っても殿村兄妹へ何んという事のある筈はない。何処の馬鹿が金蔓を|ふい《ヽヽ》にする筈はなし、何にかしようとしているのはおれに対してだと小吉はにや/\して天神橋を渡るとすぐ横十間川に沿って川ッぷちを左へ切れた。川幅が丁度十間あるということになっているが本当は十四間位だった。本当の名は横十間川だが、土地《ところ》の人は天神川という。すぐ側に亀戸天神があるからだ。  風もないし、川面《かわも》が星を一つ/\はっきりと映してそれが珠のようにくっきりと光り輝やいている。  橋を渡ったところに信州飯田の堀大和守の広い下屋敷があってこの辺は殊に真っ暗だ。小吉が見ると、背中を丸めて逼うような恰好をして橋を渡る四つの影が星明りでかすかに見える。 「馬鹿奴、あんな事で隠れたつもりでいやがる」  ひとりごとをいい乍ら暗がりの川ッぷちへ突立って悠々と小便をやり出した、川へ映った星が砕ける。  いつの間にか四人がすぐうしろへ来ていた。小吉は小便をしながら振返った。 「みんな一緒にやったとて川の水あ溢れねえ。遠慮なくおやり下さい」  四人は、ごくりと唾を呑んだようだ。 「おい、勝、手をひけ」  一人がいやに鼻につんぬけて、それでも当人は一応凄味を利かせたつもりの声をかけた。 「何んの事だよ」  と小吉はやっと小便が終った。 「呆《とぼ》けるなッ。岡野孫一郎の一件からだ」 「わたしは怖い事は大嫌いでね。何にも好き好んでの事ではないよ。実はとんだお気の毒なお人から頼まれてねえ。だから手を退くという訳には行かねえのだ」 「それが御節介というものだ。黙って手をひけ」  肥った大柄な丸顔な男だ。 「出来る事ならそうしたいがねえ。どうも」  小吉はにや/\笑っていた。 「とにかく行者の殿村南平の身辺には近寄るなという事なのだ」  また別の奴がそういった。 「それはいゝだろうが、それは却ってこっちで」  と小吉の声は尻上りに次第に強くなって行って 「云いたい事だ。聞いていれあ言葉の訛はあっちこっち、どいつもこいつも田舎ッぺえだがお前ら一体、何んだ」 「何?」  一人が耳の裂けるような大きな声で怒鳴りつけた。 「おゝ、びっくりした、静かにおしよ」  小吉はいよ/\へら/\笑って 「風態は侍だが、刀が腰で遊んでいる。二つ三つから腰にして育った者の真似を、きのう今日田舎から出たばくち打ちやら土百姓が何んでからだにつくものか。侍に化けるは一番愚かな話だ」 「何、この野郎」  いきなり刀をぬいて斬りつけて来た奴があった。 「はっ/\は」  その利腕を小吉はまるで子供でも押さえるようにしてちょいとつかんで 「おいッ。こゝを何処だと思ってやがる。江戸だぞ。しかもおれあ天下の御旗本だ。肥桶をかついで慾張る外には物を知らねえ新田《しんでん》の甚次郎兵衛たあ訳が違う。はい御無礼を致しましたと黙って詫びれあそれもよし、然《そ》うするが嫌やなら、川ん中へ飛込んでこの刀で鰻の首でも斬って来い」  夜が更けている。投り込まれた水音が凄かった。次の奴、次の奴、懲り性もなく立向って実に他愛もなく続けざまに四人が四人。十間川へ投込まれて、どうした訳か、その後は四辺が妙に薄気味悪くしーんとして終った。  小吉は川を覗き下ろした。誰も顔を上げない。浮かんでも来ない。向う岸へ泳いでもいない。満潮で六尺、干潮の時は三尺とない浅い川だ。 「ひょっとしたら」  小吉は脳天から|ひばら《ヽヽヽ》でも打って、死んじまいやしないか、そう思って今更不覚にもぶる/\ッと身慄いした。出しぬけに座敷牢へ入れられたあの深川料亭若戸の庭で金子上次助擲殺一件がはっきりと見えて来た。と一緒に麟太郎が朝日を受けて御城へ登って行ったあの時がぱっと眼の前に浮かび出て来る。彦四郎の顔が、そしてお信の顔が——。頭の中で燃え盛った焔のように渦を巻いた。 「失敗《しま》った」  小吉はきょろ/\四辺を見廻した。人の気配もなかった。  柳島の本通りを法恩寺橋へ向って夢中になって駈出していた。 「こ、こ、こんな奴らと心中をして堪るか。ど、ど、どうせおれはいゝ。が、麟太郎はどうなる」  小吉は実に唐突に自分でもわからない不思議な恐ろしさに襲われて駈けている脚が時々がくがくッとして前|倒《のめ》りそうになったりした。  駈け乍ら何度も/\うしろを振返る。法恩寺の前へ来た。門前の高い大きな題目塔の前で犬が喧嘩をしていた。  小吉は、側へ行って 「しッ、しッ」  その喧嘩を取鎮めでも出来るような手恰好をしたが、犬の喧嘩はもつれ合って橋の方へ行って終った。小吉は黙って立っている。 「おれはあんな蠅見たような奴らと餓鬼共のような喧嘩をして終った。何んてまあ馬鹿だろう」  このまゝすぐ家へ帰る気にもなれない。今になって考えて見ると、はじめから充分こんな覚悟でわざ/\梅屋敷へ出て行ったのだ。今更何にもびく/\する事はない筈である。 「おれあこの馬鹿故に、ひょいと麟太郎が出世の邪魔でもしては——」  流石の小吉もしょんぼりとして、殆んどぶら/\と法恩寺門の潜りを入った。何んという考えもない。足が自然にそっちへ行く。門から本堂までずっと石畳、その左右には子院が黒い門を構えて並んでいる。その合間々々に、大きな銀杏だの、松だのが枝を張っている。  小吉はあっちへ行ったり、こっちへ行ったりして、大銀杏の下には、ずいぶん長く幹へ背を持たせて立っていた。 「どうなりゃがったろう。死んだら死んだで今頃あ町方の奴らでも出張っているかも知れねえ」  ぴーんと衣紋を直して、左手は内ぶところ手。やがて半刻もして法恩寺を出ると、またさっきの道を逆戻りに横十間の川ッぷちへやって行った。  しーんとして、川へ映った星の色だけがさっきに増して冴えている。何んの変りもない。  橋を渡って向側を、ずっと川下まで覗き乍ら歩いた。こっちへ引返してまたずーっと竪川の旅所橋《たびしよばし》まで行って見たが、変りもない。人一人出てもいない。  小吉は肩を窄《すぼ》めた。 「おれも臆病よ」  ふゝんと鼻で笑って、今度は別人のように大手をふり、肩をゆすって大股に家へ帰って行った。  次の朝。小吉は寝起きに 「お信、岡野さんが来たら、出たっきり戻りませんといって断ってくれ」  といった。お信はにこっとして 「でも、じかに庭からお通りでございますから、居留守などは通じませんでございましょう」 「ほい、そうだ——あすこの潜りを釘づけにしようかね」 「入口出口は一つだけでは御座りませぬ、それは無駄でござります。岡野の殿様は逢うといったら、どのような事をなさってでもお逢いなさる御気性でございますから」 「御大身の悪いところ許りを身につけているなあ」 「ほほゝゝ、御旗本衆はどちら様も、そのようでは御座りませぬか」  小吉は黙って終った。まご/\してあなた様も御同様ではござりませぬかといわれぬだけが拾いものだ。  この日は岡野から二、三度、間をおいて鼓の音が聞こえた。昨夜の事などはけろりと忘れたか、こっちへは世話になった挨拶などは爪の先程もない。 「いるな、何にか云って来なければいゝが。おれは、もう/\喧嘩は嫌やだ」  小吉はしみ/″\そう思った。  それから四日ばかり、鼓の音が聞こえない。何事にもくゎッとする性質《たち》の人だ、あの女行者のところへ行っているのだろう。もし、あの四人が川へ投込まれて死んででもいたら何にか知らせがありそうなものだ——小吉はたゞそれだけがいくらか気になった。  あれ以来、奥様もぷっつりとやって来ない。岡野家は大体が少し身勝手な人達ばかりではあるが、奥様は割に並のお方だ、おかしいなあと思ったりしている。  早春らしいいゝ日和で、青空の白い雲が何にか陽炎のような暖いものを降らせているように思う。 「お信、おれあ今日は亀沢町へ行って来る」 「これはお珍しゅうございますね、兄上様のおところへ」 「いやあ兄上がところは行かねえが、精一郎が方へ行くのよ。こゝのところ何んだか、からだの周囲《まわり》がべた/\と薄汚ねえようで、とんと気持が悪くていけねえのでな」 「御尤もでございます」 「道場の冷めたい板をこの素足に踏み、あの精一郎の如何にもすが/\しい立派な物腰を見たくなったわ。お信、あ奴はね、追々は先ず剣聖というところだ」 「さようでございますか」 「直心影流を天下の流儀にする人物。この間、下谷車坂の井上伝兵衛先生に逢うたら、わしは父程に年も上だが、あの人の前へ出ると自然に頭が深く下がる。あなたはどうですかと訊かれて、わたしは冷汗をかいた。井上先生は有難い。精一郎を本当に見ていて下さるな。おれもな、その頭の下がる気持は同じだが、この頃ふと、一度木剣の手合をして見たい、兄上のお言葉ではないが、あ奴の木剣を、がちりと受けて見たら、おれの性根もいくらか変り、べた/\したようなこの気持も一度にさっと洗い流されたようになるかも知れない」 「ほほゝゝ。それもおよろしゅう御座いましょうが、精一郎どのがお手合など御承引ならぬでござりましょう」 「いや、おれがたってと申したらやって呉れるかも知れぬ」 「今日のお出ましはそれでござりますか」  お信は丁寧に小吉を送り出した。小吉は一度ふり返った。が、精一郎の道場の板を踏むどころか、正面へ向き直った鼻っ先きに岡野孫一郎の酒焼けのした肥った脂っこい顔があった。 「勝さん、万事、うまく行っているよ」  往来もかまわず大きな声である。小吉はあきれ顔であった。 「それは結構です」 「唯、おかしな事はねえ。あの家にいつもごろ/\して、酒ばかり飲み、夜になると新吉原ならばまだしも、入江町の切見世の女を買いに出ては喧嘩口論、刃傷の沙汰、いやはや手もつけられなかった|ごろつき《ヽヽヽヽ》侍共が、一人残らず寄りたからなくなった事だ」 「一人も来ない? へーえ、何処かで殺されでもしたのだろうか」 「そ奴もわからぬが、清明——ほら清明というのはあの女だよ。あれのはなしでは、あの手無しの奴が、下総の笹川とか須賀山とかにいると風のたよりをきいて、そっちへ行ったらしいとの事だ」   性根  小吉は何んという事なしにほっとした。川へ投込まれた奴らがあのまゝ死んででもいたら今日になってまだ死骸のあがらぬ筈はない。下総へ行ったらしいというような話があれば、それは多分本当だろう。 「先ずそれはそれとしてな」  と岡野は、にや/\しながら 「何かその辺で一盞やり乍ら話したい事がある」 「いや」  小吉は手をふった。 「あなたのお酒の対手などはわたしにはとても出来ない事だ。それに今日はこれから男谷の道場へ参るところでね」 「そうか。それあ困った」 「ともあれ、話は何んですえ」  岡野は流石に少し躊躇したが、思い切ったように 「わしは隠居をする決心をしたよ」 「え?」 「どうせ寄合席だ。おのしの小普請と同じくさ。いかに有余る智慧があり才覚があっても、御家のために何一つ出来ない。当主面が誠に面目ないのだ。家を譲って、生涯を唯々風流に過ごす腹を極めた」 「あなたは仮初にも千五百石の御当主だ。軽々しい事ではありませんよ。奥様《おまえさま》とも御相談なさいましたか」 「まだだ、が、清明とは相談をした」 「清明? そんなものなんかどうでもいゝ」 「よくあるものか。わしは隠居をしたら主計介《せがれ》から応分の隠居料をとって、あの清明と二人でのび/\とくらすつもりだ」  小吉は、ぐッと顔色が変った。何にか大声で怒鳴りつけでもしたいものを堪えて——黙った。 「千五百石だの御大身だのと、要らぬところに世の目くじらを立てられて、そっちに遠慮、こっちに思惑とな、われでわが身の仕度い放題の事も出来ずよ。それかといって公儀から人がましくでも扱われることか、云わば当てがい扶持の厄介人さ。わしはこんなくらしがもう/\嫌やになったのだ。襤褸《ぼろ》を着て月のもる茅屋《あばらや》もいゝさ。清明と唯二人、どうせ長からぬ命、呑ん気にくらす事にした」  岡野の薄笑いを含んだ言葉が切れたと思ったら、いきなり、小吉の平手がぱっと岡野の頬に鳴った。大きな音がした。  岡野はよろ/\ッとしてやっと踏留った。 「な、な、何にをする」 「何にをするかわからねえなら、も一つ打ってやる」  また頬が鳴った。岡野は思わず、うずくまって頬を押さえた。  小吉はもう水倉町の四つ辻を早足で東へ行くうしろ姿を見せていた。岡野はやがて立ったが、その時はもう別に腹の立っている様子もなく 「はっ/\。な、何んてえ男だ」  とつぶやいた。  真っすぐの通りを左へ切れて、小吉は乱れた着物の襟を直してからゆっくりと男谷道場の門を入って行った。  途端にふと小首をかしげた。どんなに大勢人がいてもいつも水を打ったように静かだと評判のこの道場の内が、今、何んとなく騒がしいからだ。若い門人達がうろ/\して、小吉の入って来たのさえ気がつかない。師範座を見ると精一郎は留守だ。十七、八人も集って、道場の真ん中の、白鉢巻に木剣を下げた二人の大きな男を中心にまるで熱湯の渦がたぎっているような恰好であった。  小吉はうしろから暫く黙ってこれを見ていた。白鉢巻の二人は真っ青で、唇の色さえ変っている。 「はっ/\、面白いねえ。やるがいゝだろう」  出しぬけに小吉の大きな声をきいて、みんな一斉に振向いた。同時にほっとした色が誰にもさっと走った。 「あ、勝先生」  この道場の門人の中の少し年とった人が、思わずうれしそうな声をかけてこっちへ出て来た。 「勝先生もないものだ——やり度いというならやらせるがいゝではないか。おのしら騒ぐ事はないだろう」 「は」 「剣術ばかりではない、凡そ修行の門をくゞるものはその時から必死だ。次第によっては命を投出すも本望な筈だよ。な、東間陳助先生。そうだろう」  木剣を持って角力のように肥って、しかもその上に大たぶさだから見るから強そうな三十がらみの侍が、声をかけられて 「あなたはどなたか」  眉も太くて眼も大きかった。 「これあ恐入った。おれは勝小吉という小普請の微禄もんだ。おのし、この頃、下総の佐原から出て来て近藤弥之助先生の道場に入り、更らに替流《かえりゆう》して此処へお出でだとは聞いていたが、大層|界隈《ところ》に強い子分が多いというではないか。不思議に掛違ってお目にかゝるは今日がはじめてだね」 「あなたが勝先生」 「さようさ。ところで、お対手の平川右金吾。おのしも佐賀町の一刀流道場でさんざ暴れたその上に替流して、こゝへ来た筈だが、やっぱり界隈の|ならず《ヽヽヽ》者の子分が多いという噂だ。それ程の人だから固より承知の事だろうが木剣の手合は云わずと知れた真剣も同じよ。飽迄もやるかえ」 「やる。わたしの剣法の論は結局は空論だと東間がいう。空論か実論か、やって見るより外に法はないのだ」 「そうかえ。おれもまた因果とこういう事は大好きな性質《たち》だからおのしらやるというなら大の賛成だ。さ、やんなさい」 「それについて先生にお頼みがある」  と、東間は少し呼吸をはずませていった。  小吉はにや/\した。 「ふん、行司だろう」 「然様《さよう》、お頼み申す」 「右金吾はどうだ」 「願ってもないこと」  右金吾は舌なめずりをした。 「よし、それではおれも承知した。今日は幸い先生も御留守。お出でなさったらおのしらも直ぐに出入留だが」  と小吉は四辺を見廻して 「各々、先生には内緒だぞ。はっ/\/\——ひょっとすると死骸が一つか二つ出る事になるかも知れない。その時は、あわてずに棺桶を買って来なさいよ」  道場に立ってわい/\していた門人達は、何れも目をきょろつかせながら控えの席に退いて、はじめて男谷道場らしいしーんとした静けさになった。  小吉は師範座に大小を置き、小の木剣を下げて道場に出た。東間と右金吾は改めて木剣をとって、やがて、すっと立った。  東間は片手上段の斜め構え。右金吾も同じに上段に構えた。小吉はにやりとした。  二人はいつ迄も構えている。片方が足の爪先程もじりッと寄ると、片方がそれだけ退る。今度は退った方がそれだけ出ると、こっちが逆に退る。  時々構えが変って、木剣の先きを小さく慄わせたりするが、どっちも、どうしたらいゝか、まるで打込んで行く分別もつかないのだ。小吉は少しじり/\して来る。 「何んでえ、大層な暴れもんだというが、このごろつき奴らろくに遣いやしねえよ」  そう思っても門人達は眼を皿のようにして瞬きもしないが、小吉はだん/\馬鹿々々しくなって終った。とう/\持った木剣を前へ突出して、大きな声で 「それ迄!」  と怒鳴りつけるように叫んだ。 「え?」  東間がぷうーっと頬っぺたをふくらました。 「これ迄だ。木剣の手合をやりたいなら、少し修行をしてからにせよ」  右金吾は、はあ/\急《せ》わしく息をしているだけだが東間は、ほんのちょっと右金吾に頭を下げて、今度はつか/\と小吉の前へ出て来た。 「勝先生、われ/\はまだ一合もしない。それが未熟とどうしてわかるか。若しこの東間がそれ程に未熟なら、あなたから改めて一本御教えにあずかりたいが」 「そうか。馬鹿は骨身に徹して見なくてはわからぬと見えるな。お望みならそれもいゝが、おれは近頃とんと稽古もしないし、おのしにぶちのめされて死ぬも嫌やだから今日は先ず断る。殊にこゝはそんな事の厳しい道場でな」 「それは卑怯だ。おれも界隈《ところ》では東間様とか先生とかいわれる者だ。このまゝでは笑われものになる。こうなると対手は右金吾などではなく、あなただ。是非一本願いたい」 「わからねえね。行司にそんなべら棒をいゝかけては、もう、二度と再び江戸中の道場へ出入りは出来ねえよ」  東間はぐん/\と大きなからだを小吉へ押しかぶさるようにして来た。 「行司へ不服をいってるのではない。教えを乞うている。これが何んで道場の法度に背くものか。是非願いたい」 「そうか」  といって小吉は四辺を見た。古くからの門人達の顔から何にか読もうとしたのだ。こ奴が道場へ来るようになってから、いつも/\ずいぶん暴れて弱い者苛めをやる。ひどい目に逢って、まだ腕が利かないなどというのもいるし、足のくろぶしを無性に打たれて、片ちんばになっているのもあるという事はきいている。 「こ奴、内心はおれをやっつけて、いっそ界隈《ところ》のいゝ顔になろうというのだ。それにしても渡辺兵庫と云い、こ奴と云い、近藤先生の道場とは妙に面白くねえ事ばかり起きやがるわ。精一郎なら、丁度渡辺が時のようにこんな馬鹿は対手にしねえが、おれは生れつきで仕方がねえようだ。精一郎に見られては見っともないから終る迄帰ってくれなけれあいゝが」  そう思い乍ら 「たってというを断るも悪かろう。では御対手をしようかね」 「用意は」 「おれが剣術は喧嘩剣術という奴だから用意はいつでも出来ているよ。さ、来い」  小吉は、そのまゝで、ぱっと飛びすさると、小の木剣をぴたりとつけた。東間はまた脇上段。右金吾はいつの間にか、門人座へ戻ってこっちを見ている。まだ唇の色も元通りではなく、呼吸も静まってはいなかった。 「ほらッ」  東間が烈しい気合をかけた。 「あいよ」  にこ/\笑って、気合を抜いた途端に、東間の木剣は宙へ飛んだ。 「あッ」  門人達が一斉に叫んだ。木剣が斜めに半分程も天井板へ突きさゝって終ったからだ。 「参ったか」 「まだ/\」  東間はもう逆上していた。眼が血走って、大手をひろげると、物凄い勢で咬みつくように小吉へ組付いて来た。  が、そこに見たものは、組付かれた小吉ではなく、あべこべに閃めくような早さの小吉の足がらみにかゝって、いやッという程に投げつけられて、しかも仰向けに倒れた喉元へは、ぴたりと木剣が差しつけられ、その上足で力一ぱい腹を踏みつけられて終っていた。 「参ったか」 「ま、ま、参りました」  やがてやっと起上った東間は、ぴったりとそこへ坐って 「勝先生」  と怖い顔で慄え声でいった。 「侍を土足にかけてすむか」 「馬鹿をぬかせ、教えて呉れといったから教えてやった迄だ。侍の組打は、勝つとこういうものだという仕形《しかた》をして見せてやったに云い分があるのか」  東間はぐっ/\と喉を鳴らした。そして一度膝を立てかけて、これあまた一騒動あるかなと、門人達もはら/\したが、何んと思ったのか、急におとなしくなって 「御尤だ、一言もない」  と両手をついて礼をした。  丁度そこへ師範座の横の杉戸が開いて男谷精一郎が、にこ/\笑い乍ら入って来た。上下を着ていた。 「これは/\叔父上」  と一礼して 「今日は御城へ召されましてね、唯今戻りました。少々おくれてどうやらいゝ物を見損ったようで誠に残念でございます」 「やあ、いよ/\御番入か」 「はあ、意外に早く突然今日御披露がございました」 「それは目出たい——改めて祝儀に出る。今日はこれで」 「ま、お、お待ち下さい」  流石の精一郎も少しあわてて、そういっている間に、小吉はもうとっとと仕度をすると道場を駈足で出て行って終った。 「もし、叔父上、叔父上」  何度呼んでもふり向きもしない。途中まで来て、ふところ紙でべっとりと額にかいた脂汗を拭いた。西の晴れた空に雪をいたゞいた真っ白い富士が裾をひいて浮かんでいるのが仰がれた。  その晩。東間が出しぬけに上下を着けて、小吉のところへやって来た。玄関へ出て行くと、まるで町人のように両の手を膝小僧の下まで下げて 「まことに突然の事で恐入るが、是非あなたへ一盞差上げて改めて今日道場での事をお詫び申したい。平川右金吾も待っている。お出ましいたゞき度いのです」 「鬼のような暴れ者が肩衣をつけてさて/\世の中というのは、いろ/\な風が吹き廻るものだな。あゝ、いゝよ、来いというなら何処へでも行くよ」 「万事はあちらで——お願い致します」  道場の事は何んにもいってなかったので、お信は少し妙な顔をしていたが、やがて小吉は着替えをして、東間の後へついて出て行った。  家の曲り角で、犬が吠えた。小吉は東間をふり返って 「おい、犬に吠えられるなんざあ、その性根のよくねえ証拠だよ」  といって笑った。   春濃く  三ツ目橋の竪川に沿って花町。その中頃に石津屋という鰻屋がある。ぼんやりと角行灯がともって荒格子の前に赤錆の浮いた鉄の用水桶が置いてあった。  東間が茶の暖簾をわけて先きに入った。 「勝先生が見えられた」  そう声をかけると、俄かに人の立騒ぐ気配がして土間近くには、上下で平川右金吾とそれに並んでもう一人肩の盛り上った上下姿がいた。そのうしろに、紋付を着た侍が七、八人、ずっと下ってやくざ風の奴も四、五人いる。それに鰻屋の亭主やら女中まで交っているから大そうな賑わいだった。  小吉はじろりと見渡して 「おや、これあお久しい。小野さん」  右金吾の隣りへ声をかけた。津軽藩十万石の家中でやっぱり剣術遣いの小野兼吉という。 「東間が是非立会人になって呉れというので参ったが、とにかくまあ話は奥で」 「立会人たあ、何んの立会だえ」 「何にはともあれまあ/\」  広くはないが奥にはもう席が出来ている。小吉は刀を床の間へ立てて上座へ坐ってじっとしていると、小野が東間と平川を連れて改まって末座から入って来た。  今日は道場で大層な御無礼をして終った。考えて見るとそも/\東間と右金吾が男谷先生の御留守中に些細な事にいゝつのって喧嘩をしたのは誠に面目なく、その上行司をお願い申した先生にいい懸って、あんな事になったのは幾重にも悪い。重々不心得を悔悟いたしましたから、どうぞお許しをいたゞきたい。今後、東間も平川も、あなたに対して如何なる場合に間違っても、彼是申したら、首を差出しますというのだ。さてそれについて 「わたしに確と立会人になってくれというのでね。勝先生、先ず斯ういう有様だ。前非を詫びているのだから、許してやっていたゞきたい」  と小野がいった。 「別に謝る事もなし、立会などと大仰は実におかしいが、まあ結構な事だ」 「早速御寛容をいたゞいて誠に有難い。さて、こゝに一つお願いがあるのだ」  小野はちらっ/\と東間と右金吾を見て 「この二人、あなたのお弟子にしていたゞきたいという」 「何にをいってるのだ。二人は男谷精一郎の門人。おれがような者の弟子になりたいとはどういう事だ」  東間と右金吾が頭をかいて苦笑した。小野は 「まあ/\、あなたへお詫びが叶えばそれでいゝのだ。二人にそういう気持があるというだけで、後は立入って申さなくともあなたにわかって貰えるだろう。な、もう、何にもいうな」  といって目くばせした。  酒が出たが小吉はのまない。 「おい、東間さん、おれは元来が貧乏人だから、弱いもの苛めをする奴は嫌いでね。上の奴が下を苛める、侍が百姓町人を苛める。みんな大の嫌いさ。お前は、どうだえ」 「はあ」 「ちいーっと、こゝら辺がわたしたあ違うだろうね」 「いや、そんな事はない」 「そうかねえ、噂じゃあいろ/\きくが——噂は当てにならないからねえ」 「はあ」  小野は横から 「まあ/\、そういう話は止そうではないか。とにかく東間、平川両氏が、勝先生の後楯をいただけるようになったのだから、今夜は大いに飲みましょう」  そういって、一座の酒盃はいよ/\賑やかになった。  酔って来て、乱れて来た。一番酔ったのが立会人の小野である。酒癖の悪い男のようだ。 「勝先生、わたしは刀が好きで、出来るだけいゝ物を用いている。これは」  と横にある刀を膝へ持ち上げて 「相州物で二尺九寸だが、あなたのは、見受けるところ、きゃしゃなようだが」 「まあそんなところだ。二尺九寸五分、池田国重。信州小諸で牢破りをした子分の二百人もある奴から召上げてやったのだから」 「え? 池田国重、それあ名代の剛刀だ」 「おのし、きゃしゃらしいというからみなの手前、顔を立ててそうだといったのだ」 「これあお人が悪い」  そういったと思ったら、小野兼吉はぷいッと立って出て行って終った。東間と平川は、びっくりして後を追ったが、小野は 「小癪な奴だ」  と捨科白を残しただけで、二度と席へは戻らなかった。小吉はにや/\している。  二人が戻って来た。 「お前らの親分はあの人かえ」 「そ、そういう訳ではない」  東間があわてた。 「わはっはっは。何あに図星よ。お前ら、剣術の流替をしたように、うまくおれがところへ来る気らしいが、あの人の方が馬が合うよ」 「飛んでもない」  右金吾が顎を突出して来た。  碌で無しの侍や、やくざらしい奴が、目を丸くして一人々々小吉の前へ出て来ては、手をついて、飛蝗《ばつた》のようにぺこ/\した。 「お前ら、みんなそんな悪党でも無さそうだが本所深川《ところ》で弱い者苛めはいけねえよ。ところはいい人ばかりなんだからね」 「はあ」  誰か野太い声を出したら、みんなそれにつれて一斉にお辞儀をした。  帰る夜道を、今度は上下をぬいだ東間と平川が送って来た。 「小野先生もどうもお酒がよろしくないので困りますな」  と東間がいった。 「酒あいゝが、お前さんら一体何にをたくらんだのだえ」 「は?」 「田舎っぺえは恐ろしいからねえ。あの人も小野派一刀流の中西忠兵衛先生の門弟だからその中にはおれと手合をしたいとでも云って来るだろうよ」 「真逆そのような」 「いゝや」  と小吉は声を出して笑って入江町の時の鐘の前まで来た。 「もうけえって呉れ。おれがところのお信はきついから」  二人を帰して一人になった。  家の前へ来たら、門の横へしゃがんでいる奴がいる。暗くてよくわからない。小野の馬鹿奴が、闇討にしちゃ早過ぎる、小吉は呟いて 「おい、門前にいるあ誰だ、勝は今けえって来た」  暗闇の奴は不意に立ち上って、小吉へ飛びつくように近づいた。 「何んだ、巾着切か」 「えーっ」  といって 「巾着切あ止しておくんなせえよ。弁治ですよ」 「おう、こいつあ、大きに悪かった。そこで何にをしていた。門前に糞などしちゃあいけねえね」 「御冗談でしょう。飛んでもない。実あ五助と二人でめえりやしたがね、五助は強いので、御新造《ごしん》さんのお駕のお供をしてめえりやした」 「利平治でも悪いか」 「そうなんです。玉本小新の軽業が閉場《はね》てからは毎日観音堂へ行っているんですが、こうなると、わたしと五助ではどうにもなりません。それに利平治とっさんも、うつら/\とする度には、勝様のお名前や御新造さんを呼ぶもんですから、こ奴あいっそ迎えに行くがいゝ。ひょいとしてとっさんはお名残惜しさに冥土へ行けずにいるのではねえかという事でしてね」 「お信はもう行ったな。駕たあ気がついたな」 「あっしは、ああたをお待ちしていました」 「直ぐに行く」 「じゃあ」 「駈けろよ」   真夜中に谷中の観音堂へ着いた。お信は煎餅のような蒲団へくるまってねている利平治の枕元に坐っていた。  炉に火をもやして、淡い煙が一ぱいに立ちこめている。  小吉は久しく利平治のところへは来なかった。何にかのたよりは弁治や五助からきいて、凡その見当はついていたが、ひょいと顔を見ると、唯、それだけで、胸へこみ上げて来た。 「ずいぶん痩せたなあ」  その声をお信は目で制した。利平治はたった今すや/\とねむったところである。 「下谷には大塚常俊といういゝ医者がいるが、呼んだか」  お信は五助の方を見てうなずいた。 「何んと云ったえ」  お信はそれには答えず黙って立って外へ出て行った。小吉もすぐうしろへ随《つ》いた。  真っ暗な中で、夫婦が身をすり寄せて立った。 「お医師は、明日の朝まではむずかしいと申されました」 「え? そ、そ、そんなに悪いのか」 「手遅れで、今となっては施す術《すべ》もないとのこと」  小吉は、ぱっとお信をはなれて 「弁治、五助、ちょっと来い」 「へえ」  二人が傍へ来たと思うと、ぱっ/\と頬っぺたを引っぱたかれた。倒れそうになった。 「すみません」  五助が謝った。 「馬鹿奴、何にを謝っていやがるのだ。お前ら、何故、おれに知らせず、こうなる迄もほったらかして置きゃがった」 「全くは、とっさんは何んにも云わず、些かも存じませんでした。先日、ちょいとお耳に入れましたが、あれから一度元気になり、まあこの分だと大丈夫だろうと喜んでいましたら、昨日また俄かにがっくりと来たのです」 「大馬鹿奴!」 「へえ、すみません」  小吉のいってることは無理だ。が、無理と知ってて、そういわなくては済まない気持であった。  ほの/″\と夜が明ける頃になって利平治はふと眼を開いた。小吉のいるのを見て、びっくりしたようであったが、一と言も物をいわなかった。たゞ後から/\と留め度もなく湧いて出る涙が眼尻から枕へ伝わった。 「利平治、小吉はな、一生を小普請でくだらなく終りそうだが、麟太郎はな、一位様な固より春之丞君にも大そうなお気に入りで、夜も春之丞君のお次にやすみ、一|刻《とき》もお側をお離しなさらないそうだ。御城へ上ってまだ一度の宿下りもおゆるし遊ばされぬ、親共も子の姿を見たかろうが辛抱せよと、勿体なくも一位様が直々に阿茶の局へ仰せられたそうだよ。喜べ、やがてさん/″\お前が骨を折った勝の家にも春は来る」  小吉も泣声になった。  利平治は涙を流しながらにこっとした。そしてやっと 「お目出とう存じます。本当にうれしいお土産をしっかりと胸に抱いて冥土へ行かれます。本当に永あい/\間、お厄介をおかけ申しました」  といった。 「何にをいう」  小吉は叱ったが利平治は外には何に一ついわず、唯、両掌を合せて小吉を拝み、お信を拝んで、医師のいった通り、朝|七つ半《ごじ》に静かに息を引きとった。小吉とお信はいつ迄も/\その死顔を見詰めていた。  この悲しみを忘れさせるように春は一日々々と濃くなって行く。本所《ところ》界隈の水はぬるんで、小吉が今日見たら大横川の時の鐘の岸に、小さな魚の何万という群れが泳いでいた。柳はもう真っ青に芽を吹いた。 「いよ/\精一郎が道場の故団野先生追悼会も近づいたなあ。何んにしても四百近い諸流剣士の集まりだ。無事にすんで呉れればいゝが」  小吉はふとそんな事を思って、珍らしくじっと縁側へ坐って、ちか/\するような春の青い空を見ていると、これはずいぶん久しぶりだ、岡野の家から、ぽん/\という鼓の音が聞こえて来た。 「おや、ゆうべも奥様《おまえさま》が見えて、あれっきり戻らねえと云っていたが、殿様はかえって来ているな」 「そうのようで御座いますね」  お信もにこっとした。 「岡野の殿様も御自分のお屋敷をお忘れなさる事もないでございましょう」 「何にか困った事でも出来たのさ。おれに横ッ面をぶたれた事なんぞはもうとっくの昔に忘れてるから今にきっと呼びに来るよ」 「ほほゝゝ」 「おれはこれから谷中の五助がところ迄出て行くから留守になる。困るだろう」 「ほほゝゝ。あなたも殿様をおぶちなされてもうその時のお憎しみなどは忘れてお出でなさる。女と違い殿方というは、とんと気のお軽いものでございますねえ」 「ほい、此奴はやられたわ。が、積っても見ろ、あの殿様をいつ迄憎めるものか」 「ほほゝゝ」  小吉は出て行った。刀の柄がしらに陽が当ってきら/\している。  谷中の観音堂は、利平治の歿後、五助がついだ。若いのに今からそんな事でどうなるものかと小吉は何度も叱ったが、女房もあり子もあり、まして摩利支天の神主吉田蔵人の妾だった妹のおせつというのがとかく病身だから二、三度水茶屋へ出してもすぐ駄目になるので、どうも激しい稼ぎには出してやれない。  これに堂前へ縁台をならべた茶見世をやらせ、寒い間は自分はまた夜になったら本所へ飛んで行って夜泣蕎麦を売って歩く。若い間は身を粉にしても稼ぎますという決心が殊勝だから、小吉も一先ずそういう事にしてやった。 「暫く行かねえが、どうしやがったか」  それで小吉は出かけたのだ。   縁台  谷中の森はもう若葉で、みどりが音を立てて滴るように美しい。五助は強請をやった男などに似ずあれでなか/\まめだから、観音堂の境内はいつも綺麗に掃除をして、ところ/″\日蔭になった梨色の土に箒目がくっきりと見えたりしている。  花茣蓙を敷いた縁台が程良いところに出ていて莨盆なども置いてある。小吉がこっちから見たら妹のおせつが、色っぽい姿で、今帰って行った人の後片づけをしていた。 「すっかり丈夫になったようだな」  うしろから声をかけられて、びっくりしたおせつが、ひどくどぎまぎする。  小吉の眼が素早くちらりと堂守小屋を射た。 「五助はいるか」 「はい」  小吉はそのまゝ小屋の方へ行こうとしたが、何んと思ったか、急に踵を曲げて、端っこの方の縁台へゆっくりと腰をかけた。 「お茶を一ぱいおくれ」 「はい」  小屋の横に葭簀張を出して、こゝに銅磨きの大きな茶釜を据えたところへ行きながら、おせつは小屋の内に何にか早口で声をかけた。  途端に五助と弁治が飛出して来た。見ると五助なんぞは草履を片ちんばにはいている。それから少し遅れて五助の女房が鬢を撫で乍ら駈けて来た。 「どうしているかと寄って見たが、弁治もいたかえ」 「へえ」 「お前ら、まるで棒を呑みでもしたように固くなっているが、どうかしたか」 「へ、へえ」 「盆暮にだけ、顔を合せるという仲でもないだろう、しっかりしろ」 「へ、へえ」  弁治は顔は真っ赤だが少し慄えているようだ。 「何にかあったのか」  小吉が五助の方を見た。 「へ、べ、べ、別に」 「それならいゝが、おい、弁治、ちらりと見たが、堂守小屋にいゝ女がいるではないか。こゝへ連れて来たらどうだ」  弁治は黙って、膝がくた/\としたと思ったらそこの地べたへべったりと坐った。  五助は、女房やおせつと顔を見合せて、首をふって、それをねじ向けるようにしていった。 「兄貴、所詮は勝様へお隠し申しちゃあ置けねえ事だ、申上げた方がよくあねえか」 「う、うむ」  小吉はくす/\笑って、じいーっと弁治を見て 「人のふところをかすめるは、滅法|早《はえ》えときいていたが、お前、女も早かったのか」 「申訳ござんせん」 「薄暗がりだが小屋の内は、どうやら見た事のある女だ——さあ誰だったっけな。はっ/\/\」  五助が小吉の前へ出て 「勝様、決して弁兄貴ばかりが悪いと申すのではねえんです。実は女の方から——」 「馬鹿奴、詰らない事をいうな。出来た上は云って見たところで仕方あねえが、向うは大切な商売もの、あの子で一座を持っていたのだ。途中で消えて終われたのでは、その困りようも大方わかるし、一座にはやくざな奴も大勢いる。弁治だって唯事では済まされまい。そこらの覚悟はしているのか」 「へ、へえ」 「唯へえ/\じゃわからない。好きな女と一緒になるのは結構だが、半年一年経たない中に横っ腹でも突破られ何々信士と戒名がついて終っては何んにもならないではないか」 「へえ」  五助と弁治は一緒に頭を下げた。 「馬鹿奴、男というはな、外の事はいざ知らず、女の事だけは一生かけて、踏違ってはならないものだ。それで男の値打が定まるのだといつも云ったがわからねえのか」 「へ、へえ」 「女をこゝへ連れて来い」  弁治が五助の女房に支えられるようにしてしょんぼりと、堂守小屋へ戻るとやがて、薄暗がりから、うつ向いた美しい白い顔がぱっと見えた。 「勝様がいけねえとおっしゃれあ、例え死ぬ程に辛くても、かねて話してある通り、おれあお前と一日だって一緒に居る事あ出来ねえのだ。な、覚悟をすえて勝様の前へ出るんだぞ」  弁治は泣声で低くぼそ/\っとそういった。 「あい」  女は二重のくゝり顎でうなずいた。その姿を見るなり、小吉は大きな声で 「おうい、見世物小屋で見るよりはそうしているが別嬪だが、玉本小新ともある太夫がおれがところの弁治などという、とんと詰らない男と出来たではないか。さ、来い/\」  手招きした。 「両国が閉場《はね》て、大阪へ帰りますと太夫元が挨拶に出て来ていたが、お前だけ帰らなかったのか。それにしてはよくおれが目を今日までくらまして隠れていたな」  小新は小吉の前で手先が地へつく程に腰を折った。  小吉はじっとこれを見下ろしている。春らしい軟らかい風が若葉の間からさゝやいて来る。 「一度大阪まで戻りましてございます」 「それから抜けて来たか」 「はい」 「太夫元は知っているのか」 「太夫元さんは存じませぬ、唯実の父親だけが知って居ります。道化の口上を申して居りました半八と申しますのが実の父でござりました」 「おゝそうだったのか」 「おれのようなしがない道化の娘でいつ迄元結渡りの太夫をやっていても末は知れている、女はほんの一盛り、そんなにあの弁治さんのところへ行きたいなら一刻も早く江戸へ出て末長く仕合にくらすんだぞと、路用もたんと下さいました。父は泣いておりました」  小新はほろりと涙を落した。 「偉いおとっさんだが、後で困っているだろうの」 「はい、それを思うと、このからだが、ちぎれるような思いでござります。でも——」 「よし/\——」  といってから小吉はぐいっと弁治を睨みつけて 「これ弁治。性根を据えろよ」 「へえ」 「娘のためと、確と覚悟をきめているおとっさんの気にもなって見ろ。お前、どんな事があってもこの小新という人を不仕合にしては済まないぞ」 「へえ」 「行先どんなに困っても人のふところを狙ったりなんぞしゃがると、その飛ばっちりは必らず小新へ来る。間違ってもそんな事をして見よ、そのおとっさんになり代って、おれが承知をしない」 「へえ」 「玉本小新と、世の男どもにちやほやされ、並の奴なら何様にお成り遊ばした気にでもなろうという若い女が、末始終の性根をすえてお前みたような下らない奴でも、こうしてたよって来てくれた。有難てえと思わなくちゃあ罰が当る」 「へえ」 「しかし——」  と小吉は大きく口を開いてそりかえって、笑い乍ら、手を開いて自分の頭を押さえた。 「おれもこんな驚いた事はない。お前達がこんな風になろうなどとは夢にも思わなかったわ。おせつ、お前も早くいゝのを見つけろ。だが巾着切だの、兄がような強請屋などはいけないよ」  その夜、弁治と小新は、小吉と一緒に入江町へ来た。 「お信、弁治が早いところ女房を持ったよ」  と玄関へ立ったまゝでそう叫んだ。 「本当に困る事があったら、おれがところのお信に相談しろと、女には云ってあったが、それにゃあ及ばなかった。とんと世話無しよ」  しゃべり乍ら、上って来たが、弁治と小新は玄関のすみに小さくなって膝をついている。 「まあ」  とお信が出て来て 「こちらへお上りなされませ」  と女へいった。 「女軽業の玉本小新よ。弁治が、あすこへ手間取り稼ぎに行ってる中に、飛んだ事になって終ったのさ」 「さようで御座いますか。さあ、こちらへお出でなされませ」  弁治はふところ手拭で首の辺りの脂汗をふいている。却って小吉の前よりは余っ程怖い様子だ。  それから間もなくである。  方々探していたが、ひょいと手頃な裏店の長屋が横網に見つかって、四畳半と三畳に台所という手狭だが、弁治はこゝで手職の仕立屋をはじめる事になった。  巾着切で兄貴とか、時には親分とか、少々名前を売った土地で実は拙いこともあるが、やっぱり本所《ところ》にいなくては、何にかという時に都合が悪いし、殊に小新の一件でいつ何処からどんな無鉄砲な奴が暴れ込んで来ないものでもない。その辺の用心もある。  小新は、小吉がはじめてあの小屋の楽屋で見た時から気に入ってこういうところへいつ迄も置いてやりたくないという気持があったので、こゝで、こうして弁治と貧しくとも世帯を持ったのが、わがことのようにうれしくもあった。 「お信、あ奴らには心を配っておやりよ」  何度もそんな事をいった。  五月。よく雨が降る。が、昨日はぱったりそれが止んで、小吉は昨夜ちらりと三日月を男谷道場の奥座敷から見た。 「天気にしたいな」  対い合った精一郎を見てそういった。昼の間に車坂の井上伝兵衛先生が何にかと心を配って立廻って下さった。たった今は、本家の彦四郎が来て行った。  いよ/\追悼供養の試合が二日の後ちに迫っている。その最後の打合せでこゝのところ小吉は毎日道場へ詰めている。おかしな奴は東間陳助、平川右金吾の二人で、一生懸命で働く。飛び歩く。ところの剣術遣いやごろつき共にも手を廻して、当日は、ことりと物音一つ立たない静けさにするつもりらしい。  小吉の息のかゝっている本所深川《ところ》のやくざ、ばくち打ちは、まだ二日も間があるというのに、亀沢町界隈から相生町二丁目、三丁目、本多横丁の辺りまで、往来を隅から隅まで塵一本落ちてないように掃き立てて廻る。  四日五日、拭ったような五月晴れ。祝着登城の大小名の駕が御城近くに織りなして、空には吹流し、鯉幟。如何にも江戸らしいお節句であった。  六日。暮れて|五つ《はちじ》すぎに男谷道場の追悼供養の会は無事に散会した。みんな大きな土産物の白い風呂敷包を下げていゝ機嫌で道場から出て来る。駕で帰る老剣士もあり、三々伍々声高に話し乍ら、折柄の爽やかな五月の夜風に、酔った頬を吹かれて戻る人達もある。鎌のような細い月が出ている。  弁治と観音堂から出て来た五助が物の半刻も両国橋にいてこういう人達の自分の親分小吉に対する評判をきいた。はじめは別に聞くつもりはなかった。  道場のまわりにうろ/\していると帰って行く人が小吉の評判をした。知らず/\についてここ迄来たら次から次と来る人達がみんな噂をする。しかも、男谷の道場をこゝまで離れると、もう無遠慮な高調子になって話す。 「どうだ、大したもんじゃあねえか、五助」 「そうだって事よ、今の人の話じゃあ車坂の井上伝兵衛てえ先生の道場開きにも勝様が一本勝負源平の行司をなさって、それも大層見事だったが、あの時よりはいっそう立派になったとな」 「古い文句だが大地を打つ槌ははずれても勝様の行司に狂いはないといってたなあ。おれもううれしくって、うれしくって、人っこ一人通らなくなる迄は銭を貰ったって、こゝを離れる事あ出来ねえよ」 「おれだってその通りだ。ほら、また来たえ」  肥った武士が二人、だいぶ飲んだと見えて少し足許が怪しい。 「勝どのもあすこ迄行くと、江戸中にもうあの人の下知にそむく者はないだろう。実に立派なものだ」 「そうだとも。狸穴の下島丹後と、四谷御門外の木島帯刀との、手合などは、勝負何れにありや、実に決し兼ねるものだったが、勝どのは、下島に白扇を上げて不服の木島に、打合手数の説明をした。剣術もあすこ迄眼が利くは実に名人上手の域を脱してすでに神技と申すべきだろう」 「あれは並の行司では大もつれにもつれるところであったな」 「そうとも。先ずこれから先きは流儀の揉め合、各流弟子流替の争論など、あの人が顔を出せば、何れも円満に納まるだろう」 「そうだ。その為めに無用の流血などどれ位助かるかも知れん」  こんな話をきくと、弁治は思わず飛上って手を打った。武家は驚いて 「な、何んだ、貴様ら」  と怒鳴った。二人ともびっくりして、夢中になって逃げ出した。   流水  次の朝、男谷精一郎は上下を着て供に贈物を持たせて小吉の家へやって来た。小吉もちゃんと羽織袴で改まって迎えた。 「お目出度う」  そう無造作にはいったが心の中は甥を労わるいろ/\なものが溢れるように動いていた。  精一郎が昨日の小吉に謝して、暫くは手をあげない。 「しかし、お前もそうであろうが、おれもこれで肩の凝《しこ》りが取れたような気持になったわ」 「仰せの通りです。叔父上のお蔭でありました。父上も昨夜はお眼をうるませて繰返し/\およろこびでして、今朝もわたくしと共々、こちらへ参るというので、そのつもりでおりましたところ、思いもかけず外桜田の酒井|右京《つるが》亮様から御駕でお迎いでしてね、小吉にはわしからもくれぐれも礼を申したと伝えよとの事で、そちらへ参りました」 「ほう、そうか。酒井|雅楽《ひめじ》頭様お屋敷へは、時々御対手に行っているときいたが、近頃は右京亮様へもか」 「そのようです。国主《だいみよう》方では牛込横寺町の柳沢伊勢守《えちごくろかわこう》様にも三味線堀の柳沢弾正少弼《えちごみつかいちこう》様方にも参り、御家来様衆にも大勢お手直しを申しているようです」 「大慶至極よ」 「それやこれやの事もあり、お手直しを差上げる諸侯方の御推挙で近々には小十人頭にお進みのような噂もあります」  小十人頭は戦さの時は親衛隊だがふだんは将軍が城を出る時に供奉をする役だ。彦四郎は現在西丸裏門番頭で七百石であった。 「小十人頭は千石高だ。兄はいよ/\おっかなくなるねえ」 「はあ」  精一郎は素直に笑った。小肥りの白い柔和な頬に笑靨が出る。 「しかし兄上の文字は酒井雅楽頭などという頑固大名を虜にする程そんなにうまいのかねえ」 「はあ、虞世南を奉じてその堂に入っているのは日本に父上お一人ですから」 「へーえ、虞世南たあ何んだえ」 「唐朝随一の書家で殊にその楷書は前古未曽有というのです。七十歳で書いたのが有名な孔子廟堂之碑文でしてね。字《あざな》を伯施と云います」 「ほう、こ奴あ驚いた。お前、御城へ上る外はいつも剣術ばかりやっていると思ったら、いつの間に、そんな学問をした」 「はあ、御承知の通り父上があのように厳しいものですから」  小吉は急に笑い出して、 「虞世南かねえ。はっ/\、おれなんぞはもうどんな恥をかいてもいゝが、麟太郎もそれ位の事は知らなくてはいけないねえ」  片頬を毬のようにふくらして、これをぴしゃ/\と軽く叩き乍ら、それから暫く黙っていた。  やがて精一郎は帰りかける。小吉はおれも今夜は挨拶に出るから、またあちらで逢おうといっていたら、玄関へ客があった。丁度お信がいなかったので小吉が自分で立って行った。 「あゝ、これは、これは」  そんな声がして再び戻って来た時は客の車坂の井上伝兵衛を案内していた。伝兵衛は四十五、六。眼の鋭い鼻の高い人だ。号を玄斎。元来幕府の御徒組だがこれを養子に譲って、今は剣術で余念もない。  昨日の男谷道場での小吉の行司が余りに見事だったので、わざ/\その喜びに参ったという。丁度、男谷先生のいられたのは幸いであるといって、祝儀の言葉を述べてから 「きかれたか。竜慶橋の酒井良佑先生が何にやら俄かの病いで御稽古の際に倒れ、もう望みは虚しいとのことだ」 「そうですか」  と小吉は 「惜しい事」  と眼をつぶった。 「門人の話に、あんな時に本当に人を斬るようではおれの剣法はまだ/\未熟だと頻りに囈言《うわごと》に云っていたという。どういう事でしょうかと、わしに訊いていた。勝さん心当りがないか」  小吉の眼底には、渡辺兵庫と向い合ったあの弥勒寺の夜の決闘がまざ/\と浮かんでいるが 「さあ」  といっただけだった。  お信が帰って来て、井上へ酒の膳を出した。 「好物、好物」  そういって大きな眼を細めて、井上は酒をのみながら、少し酔って来て、またくど/\と小吉の行司を褒め、精一郎の何事につけても控え目にしかも格調の高い剣法をほめちぎって一刻ばかりで帰って行った。いゝ機嫌の足どりであった。  この日の暮近く小吉は彦四郎へ行く為めに、家を出てびっくりした。向うから、真っ先きが弁治、並んで五助。縫箔屋の長太。そのうしろから東間陳助、平川右金吾。それに続いてぞろ/\ぞろ/\、界隈ばかりか深川へかけての浪人、やくざの無法者が目白押しに並んでやって来る。  こっちの姿を見ると弁治と五助が地べたを転がるような恰好でふッ飛んで寄って来た。 「か、か、勝様」  しがみつこうとする。小吉はとーんとこれを押して 「何んだいお前《めえ》ら、祭礼でもあるか」 「お祭じゃござんせんよ。余り心うれしいもんですから、みんなでお祝いに上ったんです」  と五助も近々と顔を寄せた。 「何んのお祝いだ」 「余り勝様のきのうの評判がいゝもんですから、いやもう、みんなじっとしちゃあいられなくなったんです。縫箔屋なんざあ、渡世がら日頃女の腐ったようにじめ/\してる奴ですが、あ奴迄が、がた/\がた/\慄えてやがるんだ、あの野郎、うれしくなると慄え出すてえ事をはじめて知りました」 「馬鹿奴。こんなにぞろ/\つながって来て、界隈の方々は火事ででもあるかと吃驚なさるわ。おれはこれから兄がところ迄急用で行く途だ。かえれ、かえれッ」 「だ、だって、勝様」 「だっても、褌《ふんどし》もあるものか。側へ寄ると斬っ払うぞ」 「えーっ?」 「東間や右金吾も、とんと悪い人達だねえ、こんな奴らをおだてちゃあいけないよ」  東間が前の方へ出て来た時は、小吉は、くるッと踵をかえして、矢のように入江町へ飛んで来た。  玄関から飛上って、驚いているお信へ 「おい、銭を貸してくれ、一両ねえか」 「一両? ございませぬ」 「頼む、あるだけ貸してくれ」 「でも」 「いゝよ、すぐに何んとか工面をするから、貸してくれろ」  お信はにこっとした。そして箪笥の小抽斗から財布を出して 「勝の家の棟には夜も昼も貧乏という憑物《つきもの》がおりますからねえ」 「そういうな、兄上の云い草ではないが、時が来れば花が咲くとよ」  財布を鷲づかみに引返した小吉は 「おれがところのお信は偉いねえ、銭を持っていたわ」  ふゝンと笑って、弁治の前へ行くと鼻っ先きへ財布を突出し 「これでみんなで一ぺえやれ」 「飛んでもない」  と弁治は 「金なんぞは、こっちに腐る程あるんです。勝様から一文貰ったって罰が当る」 「第一ね」  と元はゆすり屋の五助が横から口を出し 「それじゃあ、|たかり《ヽヽヽ》になる」  といった。  小吉はのけ反るようにしてぷッと吹出した。 「|たかり《ヽヽヽ》とはそういうものかねえ五助兄貴。おれは知らなかったよ」  といって 「何んでもいゝから、黙ってこれで飲みやがれ。おれがところに在るだけの金だ。取らなけれあ、さっきもいった通り立ちどころに斬っ払うぞ」 「へ、へえ」 「東間は知っているだろう、おれが刀は津軽家の小野兼吉が口惜しがった二尺九寸五分池田の国重、斬れるぞ」 「じょ、冗談じゃあございませんよ」  弁治は五助と顔を見合せて、頭をかき乍らうつ向いた。 「お前ら斬られたら、家で女房が嘆くだろう。さ、早くとれ」  財布を無理に渡して、小吉は、横丁を小旗本屋敷の塀に沿って、空地へ出て、三ツ目の通りから竪川ぶちへ曲ると、後も見ずに、駈け出して行って終った。東間や右金吾やところの者が、あッという間であった。  彦四郎は、立派な膳を座敷へ並べ、心待ちであった。しかし逢うと例のように深く眉を寄せてのっけに 「小吉、麟太郎はな、お次の間からこの程は夜は御寝所の御内に御添い申しているというぞ」 「有難う存じます」 「それについても、度々お前のよからぬ噂を耳にするが、それで宜しいのか」 「は?」 「精一郎が道場の天井の打砕いたあの穴は何んだ」 「申訳ありません」 「お前はどうも、ごろつきの性根がある。春之丞君は、いよ/\近々に一橋御相続、民部卿にならせられるというに、親が市井無頼のやからに立交って身状甚だ宜しからずとあっては麟太郎はどうにもなるまい。お前は辛抱をする、腹の虫を押さえるという事はどうしても出来ぬ人間なのか」 「恐入ります」 「学問のないは皆々そういうものかも知れぬが、わしにはどうしてもお前の性根がわからぬわ」 「は」  彦四郎はぽん/\と手を打って側仕えの女を呼ぶと 「先程申しつけた書幅を持って来い」  といった。  やがて女中が立派な幅物の入っているらしい桐箱を捧げて戻って来た。 「あれへ懸けよ」  彦四郎は床の間を指さした。  小吉はじっと見ている。立派な幅が次第に下って来る。大きな字であった。 「流水不逆——為弟小吉——燕斎孝」  傍らで精一郎が頭を下げた。 「小吉、剣術は逆うか」 「は」 「体のこなし、心の動き、何んに逆う」 「は」 「お前の総行司の礼心じゃ」  この書幅の箱をかゝえて、小吉は暗い道を入江町へ帰って来る。雪駄の音が時々ふと途に止まり、またふと歩いた。今宵は月もなく星もなく雨催いの雲が低く垂れていた。 「体のこなし、心のうごき、何んに逆う」  あの時彦四郎は少し口を曲げていったあの言葉が、いつになく腸にしみる。  帰って来た小吉を見ると、お信はにっこりした。 「兄上様に何にか申されましたか」 「何あにいつもの叱言よ。これを貰うたわ」  書幅の箱を渡して 「流水不逆と書いてある」 「わたくしも拝見させていたゞいて宜しゅうございますか」 「べら棒奴、床へかけたら嫌やでも見ずばなるまい。さっき精一郎のいうた唐の虞世南とかいう奴の筆法さね」 「それは御見事でござりましょう」 「お恥しいがこっちは明盲さ」  夏になった。  男谷の家は父の彦四郎が躑躅之間詰小十人頭、黒たゝきの槍を立て馬で登城する。鬢髪は一と頃よりいっそう白くなり頬の皺も刻んだように深くなった。  精一郎は書院番。若党一人をつれてこれは徒歩。前後して登城するこの父子の姿を町家の者さえ羨ましそうに見送った。まして界隈の小普請の御家人などはみんな妬ましそうにそッと見ぬふりをして見送っていた。  秋になった——。  大気が澄んで入江町の時の鐘はよく聞こえるが、本所中の木の葉が散って終うからだと、町人達が湯屋での話になる。  鏡のような月が出ていた。  その晩、小吉は久しぶりに、ふところ手でぶらりと能勢の妙見堂へ顔を出した。何にか世話役達が集って寄合をしていたが、小吉の姿を見ると、みんな一斉に 「ほう、噂をすれあ影だよ、ほーれ勝様だ」  と声をかけた。 「とんと御信心を御退転の御様子故、勝様がお見え下さるなどとは夢にも思いませんでしたよ。これもひとえに妙見大菩薩の思召し。勝様、本当にようこそお詣り下されました」  堂守は相好を崩して畳へ両手をついた。小吉はじろりとみんなを見渡して 「お前ら、慾ばかり張って、|かげ《ヽヽ》富など集っちゃあ碌な事をしねえから、おれは久しく出て来なかったが、今夜は神願の筋があって来たのだ」  といった。   浮世  皆んな頻りにがや/\いうが、小吉はずばっと本尊の前へ向うと掌を合せ、堅く眼をつぶって終った。口の中で何にか称えている。 「勝様が御祈念遊ばす、御|付座《ふざ》申しましょう」  堂守が傍らの四十がらみの小粒な一人に、そういうと、みんな一斉に本尊の方へ向き直って、大きな声で題目を称え出した。小吉ははじめはそれが耳についてやかましかったが、だん/\落着いて来ると、不思議な静寂へ引込まれて行った。  何にもかも忘れている。唯々麟太郎の事だけを祈っていた。 「御利益によって麟太郎ももう一息というところ迄参って居ります。どうぞこの上の御加護をいたゞかせて下さいまし。その為めには今日が日、この小吉の命をお召し下さってもお恨みには存じませぬ、いや小吉ばかりか、お信も同様でございましょう」  同じ事を、繰返し/\している小吉は、うしろの人達のぐん/\ぐん/\波の寄せて来るような題目の斉唱が、次第に心にしみてうれしくなって来た。祈っても祈っても足りないような自分の力にみんながこうして加勢をしてくれている。そう思うと、何かしらほろりとなった。  祈念を終って 「みんな有難う」  と少し眼をうるませていつになく丁寧に礼をした。 「さ、勝様へお茶を差上げなされ」  堂守がいう。小吉はさっきからその傍にいる人をちらりと見た。 「おれはお前とは初めて逢うが、何処だえ」 「はい、わたくしは、一ツ目の道具市の世話焼おやじで御座います」 「道具市?」 「古道具の|せり《ヽヽ》市でございますよ」 「そうか。こゝへ来ている人達は、みんなとんだ慾深でな。|かげ富ばくち《ヽヽヽヽヽヽ》をやって、揚句が行者をよんで寄加持をすると銭がかゝるからと、それをおれにやれなんぞと馬鹿をぬかしゃがる故、暫く出て来なかったが、どうせお前もそんなものだろうな」 「は?」 「どっちにしたっていゝんだが今日はみんながおれに付座してくれた。有難く礼をいうよ」  みんながあべこべに一斉に手をついて頭を下げた。小吉も下げて 「いつもの神鏡講の講中の顔が一人も見えないが、どうしたえ」  堂守の方へいった。  堂守は小さく縮んでもじ/\している。世話焼も眼をぱち/\しながら 「はい。あれは講中の弥勒寺橋の勘太という人が、講金を一文残らず引攫って夜逃げをして終いましたとやらで、つぶれました」  という。 「勘太が」  と小吉はから/\笑って 「おい堂守、定めし慾深が驚いたことだろうの」 「はい、持逃げばかりか妙見堂の名を使って方々に沢山借財を致してありました事が追々に知れ、とんと困っておりますでございますよ」 「あ奴も煮豆売で貧乏ものだが、根がそれ程の悪党じゃあない筈だ。人間というはな、どんな奴にも心の中に三千の世界がある、だから固より悪心も巣喰っていて誘い水があれば勢いで吹出すものだと、おれが兄などはよくいうよ。勘太をそんな悪者にしたは、お前をはじめ講へ集った慾の深けえ奴らさあ。お前、わかるかえ」  堂守はだしぬけに 「勝様あ」  といって膝へしがみつくようにまつわりついて、わッと声を上げて泣き出した。小吉は苦笑して、とん/\と軽く肩の辺りを叩いて 「勘太がことは厄落しだ。その道具市の世話焼さんは、いゝ人らしいから、今度あみんなも|かげ《ヽヽ》富をやるような慾をかゝず、お前もその人を力にして真面目に信心を励ませる事よ」  小吉はもう立っていた。 「勝様、勝様」  堂守や世話焼をはじめ、ぞろ/\追いすがったが、小吉はやがて一人になって大横川ふちを歩いていた。  月が出て、虫が鳴いている。  入江町へ帰って来たら、岡野の屋敷で鼓を打っていた。 「おや、いるね」  お信が 「はい」  といって、にっこりした。 「さき程何にやらそれは/\大きな声でお怒りなさっていられるよう聞こえて参りましたが」 「ふーむ」 「殿様が、そのおなごにお嫌われなされて八つ当りでもなさってではござりますまいか」 「はっ/\。お前、とんと気が廻るようになったねえ」 「まあ」 「殿様が、あの女に嫌われては、可哀そうだよ」  お信はまたにこ/\ッと微笑した。 「どうしてでございますか」 「どうしてといって、おれがような木石には実は本当のところはわからねえのだろうが、殿様はもう何にもかも忘れてあの女で、唯々夢を見ているような塩梅ではないか。これから何にをどうというには年もとったし、あゝしてうれしがらせて置くがいゝだろうよ」 「さようで御座いますねえ」 「たゞ、こっちへ尻を持って来られるは閉口だ——今夜も妙見で」  といって 「おい、珍しいね、庭先きで鉦叩きが鳴いているではないか」 「ほんとに、さようで御座います」  澄み切った可愛い、いゝ虫の音だ。 「妙見でね」  小吉は 「おれが麟太郎の立身を祈念してたら、みんな題目の付座をしてくれたは有難てえが、すぐにあの勘太の奴が講金をどうしたとかこうしたとか、顔の真正面から浮世という奴がむき出しでぶっつかって来たわ。いやうるさい。おれはこの頃こういう事はとんとうるせえよ。はっ/\、やっぱり年をとると斯ういうものだろうから殿様も好きなようにさせて置くがいゝね」  と頭を叩いた。 「ほほゝゝ。あなたがお年を召されたはないでござりましょう。今からそのような事を仰せられては困ります。まだ/\これからで御座いますよ」 「馬鹿を云え。一間住居《ざしきろう》をさせられた小普請ものに、これからも、あれからもあるものか」 「と申しても、麟太郎が一人前になります迄は、あなたも、わたくしも、息災でいてやらなくてはなりませぬ。何にやらあきらめなさるようなお思召しはおやめなさって下さいまし」 「ふむ」 「亀沢町のお兄上様はもう五十四にお成り遊ばしました。それで小十人頭に御出精でございますよ。あなたは、まだやっと三十というに」  小吉はごろりと横になった。 「すが/\しい虫の音だ。御城にもこの虫が鳴いているかねえ」 「春之丞様御殿のお近くには如何なものでございましょうか」  更ける迄岡野の鼓が聞こえた。そして虫の音もやまなかった。  次の朝早く妙見堂で逢った道具市の世話焼さん栄助が堂守と連立って匐うような恰好で、小吉の家へやって来た。お信は 「ほほゝゝ、あなたのおっしゃる浮世とやらが参った様子でございます」  そういって立ちかけた。 「よし/\、おれが出て行く」  小吉は玄関で、二人を見ると 「知れるわ、また、何にか講中でも拵えてくれというのだろう。それなら、おれは嫌やだ」  二人は動悸《どき》っとして一斉に腰を折った。 「が、まあ上るがいゝわ」 「は、はい、はい」  座敷へ通すと、庭の片隅の青桐の大きな葉がすうーっと紙鳶の糸でも切れたような恰好で縁側へ落ちて来た。  お信は茶を出し乍ら小さく石のように固まっている二人へ 「勝を、どん/\お仲間へ引込んでやって下さいまし。口やかましゅうは申しますが、一刻も浮世を離れてはおれない淋しがり屋なのでございますから」  とにこ/\顔でいった。  堂守は度々の事でもう額にきら/\する程脂汗をかいていた。  話はやっぱり講の事である。妙見も勘太の大穴のために大変な事になって、一と頃集っていた正直な人達も飛ばっちりを恐れて、一人二人と減って、今は何れも昨今の信心だし人数も至って少ない。これからだん/\寒くなるにつれて堂の諸かゝりも多くなるから、どうしても一講中を拵えなくてはやって行けない羽目になっている。  寄るとさわると、勝様のお名前が出る。実は昨夜もその話が出て、どうしても勝様へおすがり申すより外はない、といっているところへ、お姿が見えたという次第で、これも妙見菩薩の御示現と今日は早朝から思い切ってお願いに罷り出ましたのでございますと、堂守などは声を慄わせて、吃り乍らいった。  小吉は、黙って顎を撫でている。暫くして 「堂守、お前らな、神仏の信心に銭金の慾があり過ぎるからいけねえのだ。あの|かげ《ヽヽ》富の態《ざま》あ何んだ。妙見堂に|ばくち《ヽヽヽ》の場が立ってどうなる。あゝいう事をやるから、うめえ利得《りとく》がねえとすぐにぱあーっと散って終うのだ」 「はい。仰せの通りでございました」 「骨にこてえたかねえ」 「はい」  小吉は、また暫く黙って顎を撫でている。  そこへ出しぬけに、庭の切戸口から、岡野孫一郎が片手を内ぶところへ入れた相変らずの恰好でぬうーっと入って来た。 「おう、勝さん、暫くだったねえ」  小吉はにやッとした。 「暫くもねえものだ」  そう呟いて 「ちょいと来客ですから、後程、こちらから伺いましょう」  といった。  岡野は、庭の縁の前へ突立ったまゝ二人をじろ/\見ていたが 「いよ/\おれは主計介《せがれ》に屋敷を追い出されそうだ。どうしてもおのしに力を貸して貰わなくてはならぬのでな」  という。 「まあ/\。何れ後程」 「本当に来てくれるか——いや、わしがまた出直して来る」  そういい乍ら、岡野ははじめて堂守に気がついて 「ほう、そ奴、妙見の堂守ではないか」 「はい、然様でございます」  小吉が横から 「堂守、忘れたか、寄合御席岡野孫一郎様だ。頭が高いぞ」  叱りつけた。堂守は飛び下って 「はゝーっ」  畳へ顔をうつ伏せた。世話焼も同じにした。  岡野は如何にも愉快そうに大口を開いて笑ってから 「また来る」  飄々として行って終った。お信がこれを見ていて、口を押さえて笑っている。  小吉はそれっきりでまた黙っている。 「勝様、お助けをいたゞき度う存じます」  世話焼のいうのへ、小吉はいきなり押っかぶせて 「お前、悪事をすれば斬っ払うがいゝか」 「はい。愚鈍でございますから間違いはござりましょうが、曲った事は致しません。曲事の際はすぐにお斬り下さい」 「よし。そう定まればきっと勝小吉が講を建ててやる」 「ご、ご、御承知下さいますか」 「町人は慾が深くていけない。今度は侍が対手だ」  世話焼と堂守が顔を見合せて 「と申されますと」  と堂守がやっと口をきいた。 「刀剣講というのだ。堂守はわかるめえが、世話焼は商売柄呑込めるだろう。おれが知っている水心子秀世という刀鍛冶は、大業物の正秀の孫婿で大そうないゝ腕だが、世の廻り合せが悪くてちっとも芽が出ない。それに本阿弥三郎兵衛が弟子の仁吉という研師、これも名人だがやっぱり芽が出ないのだ。自然大酒を喰らって自棄糞《やけくそ》な日を送っている。こ奴にどん/\刀を打たせ、講中の侍へ掛抜けに渡してやる。どうだ」 「えッ?」  世話焼は如何にもびっくりした面持で 「勝様、名代な暴れ者のあのお二人、そういう事が出来ますか」 「出来る」 「お、お、恐入りました」   刀剣講  世話焼は両手をつき、仰ぐようにしげ/\と小吉の顔を見て 「勝様、あの秀世さんが打って仁吉さんが研げば、それあもう江戸中のお武家方が飛びついて参るでございましょう」 「そうよ。御時勢柄近頃はとんとひでえ刀の奴が多い。侍にゃあ、あゝいう刀を持たせたい」 「全くさようで御座いますね。わたくし共のような|がらくた《ヽヽヽヽ》市に参るものには殊にひどいお刀がございましてお拵えだけは立派ですが|かちり《ヽヽヽ》と一合で折れますようなのが多うございます。お武家様がよくお気持悪くなく、こんな物をお持ちなさると思うものがございますよ」 「本所《ところ》の侍は凡そは小普請で貧乏だからよ」  と小吉は笑って 「講の僅かな掛金で、それが手に入るとなれば、侍はきっと喜ぶ」 「御武家様方ばかりではございませぬ、商売人も押して参ります」  お信が二人へ茶を出した。二人はかしこまって頂戴してやがて帰って行った。  小吉は 「あゝあ」  といって、またごろりと横になり 「ちょいと妙見へ顔を出したらこんな事になった。厄介な奴らだ」  とひとり言をいったのを、お信は肩を窄めてくすっと笑った。 「あなたのお嫌いな浮世がまた押しかけて参りましたねえ」 「こ奴、亭主をからかいやがるわ」  小吉は片手で頭を軽く叩き乍ら 「だがなお信、水心子秀世も研師の仁吉も大の酒っ喰らいで、あれだけの腕を持ちながら年中|ぼろ《ヽヽ》を下げてくらしている。刀は侍の表道具だから、こういう時に一口でも多く打たせて置きたいがおれの本心よ。鑑定《めきき》の時に、あ奴の刀だけはぷつっと鯉口を切るとぷーんと匂いがする。立派なものだ。何にもかも妙見菩薩への御供養よ、御利益はきっと麟太郎へ行く。おれは昨夜麟太郎の無事御奉公出精を祈願に行った。図らずもそれが縁故、本来ならば対手にもしないところだが、この講だけは骨を折る気だ」 「どうぞさようなされて下さいまし」  それから十日経つか経たない中に、本所深川《ところ》を中心に江戸中の剣術遣いがみんな乗気で、すぐに刀剣講が出来て終った。  講開きを妙見堂でやった時は外は鼻をつままれても知れない暗闇であったが、本堂に溢れるように人が集った。小月代を延ばした侍が多かった。  堂守が何にか小吉に耳打をした。  小吉は面倒臭そうに眉を寄せたが、本堂の外の階段へ出て行った。  三十人ばかりの道具屋風の人達が集って、世話焼がひどく弱っている。 「お前ら、ちいーっと聞分けがねえじゃあないか」  小吉は大きな眼で四辺を見渡した。 「世話焼さんは知っているが、この講は侍達にいゝ刀を持たせたいとてはじめたのだ。思ったよりも武家方の申込みが大勢で、とてもお前達迄は廻らない。諦めて貰わなくてはならぬのだ」 「で、でも」  五、六人一斉に口をきいた。 「静かにせ。お前ら、何にかというと儲けにかゝり、慾に目がないからそんな無理をいう。帰れ帰れ」 「で、でも勝様」  と白髪のひょろりとしたおやじが前へ出て来た。 「こういう事で、お安く水心子が皆様のお手に入るようになりましては、わたくし共、商売が上ったりになって終うのでございます。御無理は申しませぬ、どうぞ一口ずつお入れ願いたいのでございます」 「打ち手は秀世が唯一人だ。おい、名人とは云え秀世は人間だよ。積っても見ろ、そんなに沢山の刀が打てるものか」 「そ、そこのところを、何んとか」 「うるさいッ」  小吉は怒鳴りつけた。 「余りわからねえことをいうと、斬っ払うぞ。前へ出ろ」  ざざーっと、一同うしろへ退いた。そのまゝ小吉は堂へ戻る。世話焼が頻りに説いていたがやがて思い諦めてぽつ/\帰って行くようであった。  世話焼は汗をかいて堂内へ戻って来た。小吉は側へよんで 「心配するな。おれが別に庄司箕兵衛、ほら大慶直胤《たいけいなおたね》よ、あれの講を拵れえてやる。深川大工《ところ》町にいる細川主税正義も懇意だから、あれの講も出来るだろう。神田にいる会津の刀匠|道安《みちやす》も出来る」  といった。世話焼は、崩れるようにがっくりと腰を落して 「ほ、ほんとうで御座いますか勝様」 「法螺を吹かれたところで元々だろう」 「直胤は秀世と同じに正秀の弟子ですが、わたくしらの間ではあの重ね厚のふくらみは師匠勝り、秀世よりは一枚も二枚も上に置いております。あ、あの人の刀が手に入れば」 「慾かえ」 「いゝえ、わたくしの慾ではございませぬ。江戸のお武家様方のおしあわせでございます」  この講の世話には、暴れものの東間陳助と平川右金吾が実によく働いて、弁治は固より五助も谷中から出て来て方々廻ったがわざと表には出さなかった。  丁度この時は東間も小吉のすぐ傍にいたので、世話焼との話を小耳にはさみ 「先生は、直胤をお試しになった事がありますか」  といった。 「おい」  と手をふって 「先生は止してくれ。お前にそんな事を云われると、ぞうーっとする」 「どうしてですか」 「どうしても斯うしてもあるものか。勝でいゝんだ勝で」 「は」 「お前も右金吾も近頃あ妙に神妙だが薄っ気味が悪いねえ」 「御冗談はおやめ下さい。あなたの男谷道場での総行司この方、全く心から信服しているからです」 「まあいゝ」 「お試しは? あの刀匠は自ら大慶などと思い上り気に喰わぬ奴ときいていたが」 「思い上りではない、自信だよ。おれはね、あれに頼まれて、二度小塚っ原で生胴を試した。二度とも三つ胴を払って土壇に及んだが、いゝ斬れ味であった」 「は」 「おれは五世浅右衛門吉睦先生から据物居合をみっちり教わってこれで試し物は上手よ」 「然様ですか」  この年の暮れに、直胤の講も出来、細川主税の講も出来た。直胤の講には、男谷精一郎も入ったし、井上伝兵衛も入った。  こんな事から、また小吉の顔が隅々まで行渡って、近頃ではそれに小吉も少し弱っている。 「おれを見ると、風態の良くない凄味な奴らが、みんな飛蝗《ばつた》のようにお辞儀をしやがる。往来の人がおれを見るわ、困ったものだ」 「ほほゝゝ」 「あ奴ら、せめても少し真正面《まとも》な服装《なり》が出来ねえものかねえ。人が笑っているのがわからないと見える」 「そう申してやるがよろしゅうございましょう」 「ふん、知ったことか」  そうはいったが、腹の中では、わざ/\破落戸《ごろつき》を看板のような服装をして自慢げに歩いている奴を見つけたら今度は一つ小っぴどい目に逢わせてやろうかなどとちらりと思ったりした。  お信がそういうので、岡野の家の孫一郎が隠居をするとか、させるとかいう父子《おやこ》のごた/\には小吉は成るべく立入らないように逃げていたが、それでもやっぱり気になる。どうものっぴきならぬところ迄来て終っているようだ。  千五百石の父と子がのべつに喧嘩をし、もう孫一郎はきっぱりと出て行ったのかと思うていると、七日に一遍十日に一遍ひょっこり/\帰って来て、ぽん/\ぽん/\鼓などを打っている。まるで無茶苦茶だ。 「ゆうべあなたのお留守に、奥様《おまえさま》が忍んでお見えでございましてね、御支配御老中大久保加賀守からお呼出しがありましたので、いよ/\御家の運もこれ迄と嘆いてお戻りになりました」 「おうい」  と小吉はまた寝ころんでいたがむっくりと起き上って 「お前、馬鹿だねえ。そ奴あ大変だよ、何故早く云わねえのだ」 「先程から申そうとは存じて居りましたが、あなたのお顔色がお悪いので」 「そうか、脚気の気味で胸の動悸がしたり脚が少々だるいようだが、何あに心配はない。とにかくちょいと岡野へ行って来る」  寒いが青い空だった。筋をひいたような細長い雲がたった一筋、岡野の屋根の上に見えている。  小吉が立上ったら、途端に、ぽん/\と鼓が聞こえて来た。思わずお信と顔を見合せた。 「おい」  小吉のそういうのへ、お信は黙って首をかしげた。 「いくら阿呆でも、家が潰れるという騒ぎに、鼓でもねえだろう。お前、何にか間違ったな」 「いゝえ、奥様はお泣きなさって、いつに似ずくど/\と申して居られましたから」 「おかしいな」  と小吉も頻りに考えて 「止そう」  坐って終った。  しかし岡野が相変らずの顔つきで切戸口から庭先へやって来たのは、それから間もなくであった。庭へ立ったまゝで 「勝さん、いよ/\岡野の家は潰れるよ。困った事だ」  とまるで他人事《ひとごと》のような調子でいった。  小吉はさっと障子を開けて 「とにかくまあお上り下され」 「いやあ、おのし」  と頭に手をのせて 「とんと手が早いから怖いわ」 「そんな事はしない。お困りの時は膝とも談合と申しやんしょう。お上り下され」  岡野は座敷へ上った。しかし家が潰れる当主とは見えない呑ン気そうな顔つきであった。 「考えて見るとね、何んの御役もせずに先祖の戦功というだけで頂戴している千五百石だ。召上げられても文句も云えないには云えないがなあ」 「そうですか。勝がところなどは四十俵を失ってはならぬと、夜も昼もそればかりを心配している。御大身は違ったものですね」 「千五百石を差出したら、真逆切腹をしろとも云わんだろう。これでわしはさば/\するわ」 「わかりやんした。では帰って下され——え、けえれというのさ」  小吉の眼がきっと坐った。 「そんな怖い顔をする事はないではないか。斯うは云うがわしは老中の前でうまく申開きをして来る腹でいる」  ぼそ/\云い乍ら岡野は逃げ腰で少しうしろへ退った。 「殿様がその気なら、用人に化けてわたしがお供をしやんしょうか」 「それあいかんよ。おのしは一間住居《ざしきろう》をやった人だ。わしとは|ぽち《ヽヽ》/\だ。百害あって一利無しよ」  小吉はがくッとした。岡野は今度はお信へ、大久保加賀守も好んで岡野の家を潰すような事はしまいという事や、万に一つそんな事にでもなったら奥様《おく》は当分|実家《さと》へかえって貰う、二千石でとんと金持だから、屋敷で|ぼろ《ヽヽ》を下げているよりは仕合だなどという。  お信の頬は白んで時々睨むように見詰めたが、岡野は平気で 「もし裸になったらその先きは清明に寄加持でもさせて養われるわ」  そういった時であった。  小吉がいきなり襟首をつかんで、縁の外へ引っ張り出した。 「帰るよ、帰るよ。て、て、手荒は勘弁せえ」  小吉は、黙って手をはなした。 「はっ/\。埒もない、おのしにつまみ出されに来たようなものだったわ。落着いて相談にもならぬ」  岡野はぶつ/\いって行きかけた。 「おい、お信、塩を持って来い。あ奴の頭から打ちかけてやる」  小吉の声をきいて岡野はふり返ると、首を縮めて駈け出して行った。   隠居  岡野の殿様はあれっきり姿を見せないが、小吉が、心の中で自分の家の事のように心配しているのがお信にはよくわかる。寝そべっていて時々思い出して 「とんと鼓が聞こえねえね」  とひとり言をいったりした。  一日二日の内には御老中の方の話がつくだろうと思ったのが、五日も経って、岡野が例の通りにや/\しながら庭へ入って来た。小吉は木剣の素ぶりをやった後で、縁側でお信が背中の汗をふいてくれているところだった。ゆうべはひどく寒さが強くて、今朝はまだ日蔭は霜柱が立っている。岡野は小紋の綿入に真綿を包んだ白い羽二重の襟巻で肥った首根っこを埋めて 「勝さん助かったよ。隠居よ」  といって、いつもの癖で忙がしく眼をばち/\した。 「そうですか」 「大久保加賀守がひどくむずかしい顔をしていたから、切腹とでも来るかと思ったら隠居さ。思う壺よ」 「思う壺? そうですかね」 「家督はそのまゝ主計介《せがれ》。名前も代々の孫一郎として、あれが千五百石の主どのだ。わしは今日から江雪と隠居名にしたわ」 「ほう」  と小吉は、じっと岡野を見ていた。 「何にはともかくお上り遊ばしませ」  お信が一ぱいに胸の迫る顔でいう。 「上げて貰おう」  岡野はすぐに座敷へ通った。ちらっと見えた横顔はいつもに似ない真面目なものであった。  小吉が肌着を着替えている間にお信は茶を出した。岡野はしげ/\と見つめて 「こゝの夫婦は羨ましい事だな」  あとしんみりいって、やがて前へ坐った小吉へ 「勝さん、奥とせがれが事はくれ/″\も、おのしに頼む」  といった。 「え?」 「わしはぷっつりと屋敷を出る。後はせがれが蒔直した。力を貸してやって貰いたいのよ」 「奥様《おまえさま》は?」 「あれはせがれの処へ残りたいそうだ。まだ夫人《おく》も迎えない愚かな奴を唯一人手ばなしては置けぬという。尤もだ」 「ふーむ」 「なあ勝さん」  いつも不行儀な岡野は珍しく両手を行儀よく膝へおいた。  しかし、そのまゝじっと無言でいる。こんな姿をこれ迄小吉も見なかったし、ましてお信も見た事はない。  岡野の頬にちらっと淋しいほゝえみが流れた。ふうーっと深い息をして 「わしがこのような馬鹿で、せがれがまたあのような馬鹿だ。可哀そうなのは奥ばかりであった。人は女に生れるな、吉凶禍福悉く他人によるとかいう古い言葉があったなあ。そのまゝだ。わしがような処へ嫁入ったばかりにあれも一生を悲しく送って終うたわ。な、勝さん、おのしはそういう事のわかる人だ。後々のこと切に頼み入り申す」 「殿様」  と小吉は膝を前へ寄せて 「そこへ心がつかれたら、これから、奥様《おまえさま》をお仕合せになさることだ。奥様はどのような者にいたわられるより、やっぱり、殿様にいつくしんでいたゞくが一番うれしいに相違ないのだ」 「いやあ、事こゝに到ってはそれも無駄よ。わしがいては岡野の家は親類縁辺悉く対手にはしないわ。せがれの差替の腰の物の融通もつかぬはみんなその為めさ。わしが威張っていればいるだけいっそ困る事よ。さっきもな、奥へそう云うた、岡野孫一郎という男は、酒に酔いしれて川へでも落ちて死んだ、浅ましい男だったと諦めてくれとな」  小吉も思わずうつ向いた。こんな本当の人間らしい言葉をこの殿様からきこうとは、かつて一度も思った事もなかった。あゝ、祖父様があんなに世にときめいたのに自分の代になって突然寄合に入れられた。思えばその不服を放埒に托して生涯を棒に振って終われたのだ。小吉は眼がしらが熱くなって来た。 「いや、邪魔をした。もう当分——いや、ひょっとすると一生、おのし方夫婦には逢えぬかも知れぬ。壮健でな」  岡野は出しぬけに帰って行く。 「殿様、殿様」  小吉が追おうとしたが、岡野は一度振返ってにこっとしただけで、急ぎ足に庭をよぎって行って終った。  お信がうつ伏して泣いた。小吉も坐ってじっと腕を組んでいる。 「いつか、おれにいったわ。わしは賄賂の使い方を知らなかったので、寄合に落されたとなあ」 「それにしてもお屋敷の後々は如何になるのでござりましょう」 「主計介という男は女の外にはとんと情の冷めたいしかも滅法勝手な奴だ。困ったら泣いて来る」 「それにしても、あの奥様にはお尽くし申しておやりなさらなくてはお可哀相でございますよ」 「ほんとうに、お気の毒に生れつかれたお方だ」  年の瀬が迫って、小吉は、夜、男谷道場の戻りに、どうしていやがるだろうと、弁治の長屋の前を然《さ》りげなく通ったら、若いお弟子のお針子が大勢いて、弁治と女房の小新が並んで縫物をしているのがちらりと見えた。界隈の噂でも、近頃はとんと真面目にやっているようだし、刀剣講の歩金も纏って入った事だろうから、いゝお正月を迎えるだろう。 「おや?」  長屋の角のところにしゃがんでいた男が一人、俄かにぱた/\と駈け出して行った。ちらりと見たがどうもやくざな奴らしい。 「足を洗ってあゝっているんだ、真逆岡っ引でもねえだろう——あゝ、わかった」  小吉は眉を寄せて立停って 「正月の見世物に大阪下りの綱渡りがかゝるときいたが、ひょっとすると、あ奴らが」  急に踵を返して、がらりと弁治の格子戸を入って行った。 「弁治さん、ちょいとこっちへお顔を貸して下さい」  といった。弁治も小新もびっくりした。 「か、か、勝様」  と思わず吃って大あわてだ。 「内緒で頼みたいことがあるのだ。おかみさんはいゝ、弁治さんだけ、ちょいと手間を欠いて下さい」  暗がりの中に、小吉弁治を抱くように寄って 「大阪の綱渡りが来るようだ。お前にはおれというものがついているから、真逆な事はしめえと思っていたはこっちの自惚れよ。どうやら手を廻している様子だ。気をつけろよ」 「へ、覚悟はしております。女房もその気で、いつどんな奴が飛込んで来ても見っともない殺され方はしますまいと云っております」 「今、そこに変な奴がしゃがんでいやがった。おれがきっぱりと、筋目の立った渡りをつけてやるから、それ迄は、夜なんざあ間違っても外へ出るな」 「へえ」 「それだけだ。嬶を大切にせ」  小吉はもう行って終った。その小吉が入江町の曲り角で。やくざ風の奴が二人、それに着流しの浪人風の奴が一人、何にかぶつ/\いゝ乍らこっちへ来るのに出逢ったのはそれから直ぐである。  小吉ははゝーんというような恰好をした。 「おい、お前らひょっとして、勝小吉という男を探しているんじゃあねえのか」 「え?」  一人が動悸《どき》っとしたらしく調子っぱずれの声を出した。 「若し、そうなら、おれがその勝小吉だよ」  小吉はへら/\笑った。 「そうでなけれあいゝんだが、路地が入組んでいるからねえ、剣術遣いの小っちゃな家なんぞを探すは大変だと思ってお節介よ」 「ち、ち、違います」  一人のやくざはがく/\して一寸慄えているようだ。 「そうか。余計な事をしたな。が、この辺は滅法物騒なところ故、うろ/\していて、斬っ払われる事がよくあるよ。気をつけたがいゝね」  それっきり、すうーっと後も見ずに行く。三人は何んという事なしに立ちすくんだ。  暮の二十五日。まだ朝だ。  新しい半纏を着た若い者を一人つれて、大阪下り綱渡り「二代目玉本小新」の太夫元がごつごつした紋付に袴をはいてやって来た。  この前、お世話になった礼をくど/\といって、弁治兄イと五助兄イをまたお頼み申したいとお探し申しましたが、どうしてもおところが知れませぬ。もし御存知ならばお知らせ願い度う存じます。就きましては、初代玉本小新が脱座いたしましたため、今度二代目を引きつれて参上いたしました。これはほんの御神酒料でと、真面目な顔つきで水引のかゝった包みを差出した。 「ほう。太夫元、呆《とぼ》けるはいゝ加減におし、あ奴らの業を知らない事はないだろう」 「え?」 「だいぶ前から妙な奴らが、弁治のところを狙っている。弁治ばかりか、このおれがところも狙っているのさ。馬鹿だねえ」 「えーっ?」  太夫元は鬢の辺りの白髪をふるわせて、ぐうーっと反るような恰好で、顔色も変った。 「はい、案の定、そんなところか」  と小吉は 「実はおれもそんなところだろうと思っていたよ」 「へ?」 「何あにな、変な風態の奴が、この間中から弁治をつけたり、おれが家を覗きに来たりする。商売ものの玉本小新を奪《と》られたと、恨みの半分もけえす気で、ふところには危ない物を呑んでいる事だと、おれも早合点をしていたわ」 「さようでございますか。いや、然様な事がございますかも知れませぬ。わたくしにも思い当ります」 「お前、小新はどうしていると思ってるえ」 「はい、あれはあなたのお身内の弁治さんの女房にして貰っていると思っております」 「お身内はないだろう——がまあその通りだ」 「あなたがついていて下さる、仕合でござりましょう」 「仲好くやっているようだ、ところで——」  と小吉は 「お前は、余り話がわかりすぎるが」  太夫元は、わかり過ぎるという事はございませんでしょう、小新とて、いつ迄、元結渡りをしていられるものではありません、所詮は身を固めなくてはならない、固めるならば花の中です、わたくしはしがない渡世は致しておりますが、一座の損得と、人の生涯の仕合とを釣合にする程わからず屋では無いつもりで御座います。小新の実父道化口上の半八から、次第によっては斬るなと突くなと思召し通りにして下さい、父親として勝様という御旗本の後楯のある娘の仕合を潰す事は出来ませんと涙ながらのいちぶを明かされて、思わず貰い泣きをして終いました。でござりますからあの子の事について不服を称えようの邪魔をしようの害をしようのという気持は毛頭ございませんよと、終《しま》いには笑って終った。 「ですけれども勝様、出しぬけに小新がぬけ、姿をくらまして一座のものに|けじめ《ヽヽヽ》を食わせたという事については、わたくし共のような渡世の者には殺さぬ迄も脚一本指一本片輪にするという厳しい掟があるのでございます。そのまゝであゝいゝわ仕方がないわという訳には参らないのでございますよ」 「そうだろうの」 「それで一座の者がやかましい。その上二代目小新はまだ/\芸も拙《つた》なし器量も前の小新程には参りませぬから従って人気も立たず、お客のお出でも少ない。自然一座のもののふところ工合もよくないという。殊に当用《りんじ》とは申せ弁治兄イも一座に加わった事でございますから掟の仕置をしなくてはならぬと、いやもう一時は火が燃えたような騒ぎでございました。それをわたくしがやかましく申しやっと下火になりましたが、この度二度のお招きにより東下についてこれがまた烈しく燃え上ったのでござりましょう。太夫元は勝様を恐れている、勝様とて鬼神でもあるまいにと、とんとわたくしを除け者にいたしております」 「そうか、お前がその気でいてくれるなら、おれが乗込んで何んとかみんなを鎮めてやろう。弁治はな、実あ元は巾着切だ。そ奴があゝして堅気になり、夫婦仲むつまじくやっているを打壊しちゃあ、第一、天理に背くというものだ」 「はい」 「時に、小新のおやじは今度も来ているか」 「参ってはおりません。一座の者がどうしても承知をせず、それに少々病気のようでもありましたのでな」 「そうか、太夫が未熟なり、あの評判の道化口上がいないでは、それあお前も滅法気の毒だな」   青雲  出しぬけの彦四郎からの申伝えで、小吉は正月の三日、上下を着けて、その彦四郎の馬のうしろについて一緒に御城の一位様の御殿へ行った。ぼうーっとしたからだが小さく慄えて天にも昇る心地であった。入江町を出がけに、ふり返ったら、玄関へ送っていたお信が眼に一ぱい涙をためてにっこりした。  兄の話では、阿茶の局の言葉で、今日は御殿で麟太郎にも逢えるし、もし万の一つの幸福が降って来れば、春之丞君は固より、遥かにでも一位様のお目通りが叶えるかも知れないということで、小吉の胸が割れるようにとゞろきつゞけて御城の小砂利を踏んでいた。御殿の甍が見えただけで、もう、腰をかゞめている。  しかし一位様や春之丞君のお姿にまみえるどころか、麟太郎にも阿茶の局にも逢う事は出来なかった。  御玄関式台で平伏している眼にちらりと白髪の六十を過ぎた痩せた人が出て来て、少し前の方に矢っ張り平伏している彦四郎へ何にやら小声で云ってまたあわたゞしく引込んだのをちらりと見ただけである。  帰りの道々、彦四郎は不機嫌に口をへの字に沈黙して、砂利の音だけが耳につく。小吉はいつ迄も黙っていることに段々辛抱がしきれなくなって来た。 「兄上、今日は如何なる次第でありましたか」  と小さい声できいた。彦四郎は暫く答えない。そしてやがてぷつりと 「剣術遣いが気がつかぬか。御殿が何んとなく沈んでいたろう」  といった。 「は。仰せの通りです」 「春之丞君が元旦より深い御悩《ごのう》じゃ、勿体なくも一位様まで夜も御枕元へお添いなされるという」 「えーっ? 然様でございますか」 「麟太郎もお傍だ」  それっきり彦四郎はまた何んにもいわなかった。馬溜から馬へのって、黙々として本所へ帰る兄のうしろに、小吉もやっぱり黙々とついて戻った。正月の江戸の市中の賑わしさも、人の往来《ゆきき》もまるで眼には入らない。  亀沢町の屋敷へ着いた時も、彦四郎は何んにもいわなかったし、小吉も無言で一礼しただけで帰ろうとした。  一度入りかけた彦四郎が、急に 「こら小吉。お前は、よく妙見などの世話を焼くそうじゃが、こういう時こそ神仏の御加護を祈れ」  そういって忙《せ》わしく奥へ入り乍ら、何にかがみ/\小女を叱りつける声がきこえた。  小吉は急ぎ足で入江町へ帰って来た。 「お信」  と座敷へ入るなり手荒らに上下をはねて 「逢えなかった。春之丞君が御病気だ」 「まあ」 「おれは妙見へ行く」 「でも、あの一件とやらで先程綱渡りの太夫元が見えましたが」 「馬鹿奴! それどころか——」  途方もない声で叱りつけて怖い目をした。  正月というにそれっきり小吉は家へ戻らない。男谷道場の稽古はじめにも姿を見せないので、不思議がった者もいたが、多くの者には勝先生は朝も夜も水垢離とって、妙見菩薩を祈っている。それが先生ばかりか、弁治も来ているし、五助も来ている。剣術遣いの東間陳助も右金吾も、道具市の世話焼さん栄助までが加わっての荒行だと知れていた。  十日は一七日の満願だ。小吉は月代も、頬から顎へ髭も延びて、頬もげっそりこけ真っ青な顔をして入江町へ戻って来た。  七日の間には霙も降ったし、雪も降った。今日も積るという程ではないが、ちら/\と白い物が時折り空に舞って凍るように寒かった。 「熱い白湯《さゆ》を一ぺえくれろ」  小吉は、火鉢の前へどっかりと坐って、ぷうーっと大きく息を吐いた。 「御苦労様でございました」  とお信は三つ指のお辞儀をして、すぐに湯呑へ湯を出したが、小吉はそれをのみもせず、仰向けに長々と引っくり返って 「東間や右金吾はいくらか鍛えた身体だが弁治や五助や世話焼なんざあ、障りがなくてくれりゃあいゝが」  と呟くようにひとり言をいった。 「みんなおれが題目に付座をして水垢離とって祈って呉れたわ」 「然様でしたか、それは有難いことでございました」  彦四郎が、まるで前|倒《のめ》るような恰好で、息を切ってこゝへ来たのはそれから間もなくであった。家来が二人うしろにつき精一郎が脇にいて、深く腕をかゝえるようにしているが、彦四郎ははあ/\と如何にも烈しい呼吸であった。  座敷へ上ってたったまゝ 「小吉」  出迎えてまだ坐らない小吉の両手をぐっとつかんで 「春之丞君は俄かに御他界遊ばした」 「えーッ?」  小吉はのけ反る。お信はくた/\と膝が崩れてまるで町家の女のようにべったりと尻を落して坐って終った。 「麟太郎が——麟太郎が——」  と彦四郎は泣きじゃくるような声で 「どうなるのだ」  しかし小吉は声が出ない。 「糞妙見奴! 何にが菩薩だ。勝小吉をたぶらかしゃがったな」  やっとそういった時は、眼が真っ紅に逆上していた。  精一郎だけが、きっちり一隅に坐って端然と、父や叔父の動作を見ている。 「しかし気を落すな、麟太郎は、きっとわしが物にする」  彦四郎がお信に優しいことをいって帰って行ったのは半刻ばかりもしてからである。茶一ぱいも喫しなかった。精一郎は少し後へ残って 「阿茶の局からのお知らせで、父上もはじめは少々逆上の御気味でしてね、大層な御落胆のようですが、叔父上、わたしはそんなにこだわる事はないと思います。それは当然麟太郎さんはお宿下りになりましょう。しかし、御城へ上る外に世の中にはまだ/\いろ/\な道があると思いますよ。第一、学問——」  そういった途端に 「何にが学問だ」  と小吉は投げつけるように低くいってじろりと睨んだ。 「精一郎、帰ってくれぬか。あれはなあ、やがては一橋家の御重役にも立身すべき奴だった。正に青雲へのった。それを踏みはずして真っ逆様に落ちて来るのだ。本所入江町の四十俵取小普請ものの埃溜《ごみため》へよ。親としてそれをどうにも出来ない。おい、精一郎、あの麟太郎が、雲をふみはずして落ちて来る、落ちて来る」  小吉の頬に涙が落ちた。  精一郎は、こういう悲しみの中に他人のいる事は却っていけないと思った。静かに戻るとすぐ 「お信、酒を飲む、酒を」 「で、でも、あなたは」 「飲めても飲めなくてもいゝ、飲む、買って来てくれ」  小吉ははじめてぐい/\酒をのんだ。が、そのまゝまるで卒中でも発したように打倒れて前後もわからなくなって終った。ふう/\苦しそうにして倒れている。それを見ているお信は本当に苦しかった。  夜更けてから小吉はやっと正気づいた。自分のからだに血が流れているのか、止っているのかさえはっきりしない。唯喉が腫れて唾も飲込めない程に痛い事だけはわかる。むく/\と起き上って 「お信、水が欲しい」 「はい」  差出した水をのんだが、ぷッとむせて、だら/\と唇から顎へ流して終った。 「おゝ、喉がはれて、一滴の水ものめない。はっ/\。可哀そうに、おれは、少々取乱したようだなあ。勝小吉とも云われる男がよ——恥しいわ」  と苦笑した。 「それにしてもいつ、麟太郎はどんな淋しい顔で戻って来るか。労わってやろうの」 「さようで御座いますねえ」 「だが、忌々しい事だ」 「何にがでございますか」 「何にもかもだ」  小吉はまたどーんと仰向けに倒れて、じっと天井を見詰めていた。  噂が何処からか伝わる。弁治と五助が揃ってやって来て、一と言も物をいわず、ぽろ/\泣いて玄関でお辞儀をして戻って行って終った。道具市の世話焼さんも来て泣くし、東間も右金吾も黙って拳で涙を拭いて戻った。 「何にを泣きゃがるんだ、大べら棒奴」  その度に、小吉が破鐘のような大きな声で怒鳴りつけた。  しかし直ぐにでも宿下りになるかと思った麟太郎は二月に入っても戻って来ない。 「どうしやがったんだろう」 「さようで御座いますね」 「どうせ要らねえからだに成ったのだ。早くけえしたらよさそうなものだ」  とう/\三月になった。  いゝ月の晩で、風もない。朧ろと迄は行かなくともふっくりとした光が暮れたばかりの街に静かに流れている。  彦四郎から封書をもった使が来た。衣服を改めて直ぐにやって来いというのである。 「吉か凶か」 「今のわたくし共の身の上にこの上の凶は無いでございましょう」 「いやあ」  と小吉は急に元気づいて、ぱっと左の拳を右で叩くと 「おいお信、これあひょっとすると麟太郎が帰って来るよ」 「わたしもそんな気が致します」  小吉は出て行った。雪駄ばきの姿が地べたへ黒くはっきり映っている。  小吉もこの頃は気持もやゝ落着いている。 「諦めりゃあ、何んでもない事だったのだ」  よくお信へそんな事をいったが、そればかりでなく、一時は、妙な事にもなりそうだった綱渡り小屋の小新の一件も太夫元が骨を折ったのと小吉の正体が次第にはっきりして来ると共にやくざ共もちょいと泣寝入になって終ったような恰好で、二月末に大阪へ引揚げる時は、みんな揃って挨拶に来て行った。  後で小吉がにや/\して 「おい、麟太郎がけえると、また不浄の出入はさせられないね」  とお信にいった。 「どうぞそうして下さい。今迄よりは、これからの方が大切でございます。殊に、子供心にも麟太郎は心に傷手を負っておりましたでございましょうから」 「そうだなあ。だが、お信、これからどうしたものだろうの」 「学問を致させましょう」 「学問? ふーむ、学問ねえ。お前、亀沢町の兄が流儀だねえ」  そんな事も話していた。  亀沢町へ着くと、玄関に精一郎が出て来ていた。 「叔父上、麟太郎さんが戻りました。立派になりました」 「ほう、そうか。虫の知らせかおれも何んだかそんなような気がしてやって来たよ」 「それに阿茶の局様もお見えです。そのおつもりでと、父上のお言葉を予めお取次いたします」 「え? 阿茶の局様?」 「あなたにも親しく逢いたいと、おっしゃっていられるようです」 「そうか」  奥の広座敷へ通ると、正面床を背に阿茶の局、それに並んで麟太郎。少し下って彦四郎。立派なお膳が並んで、今、阿茶の局が盃を手にして唇へ運ぼうとしているところであった。  小吉は廊下近くへ坐って平伏した。 「小吉どの、叔母が阿茶じゃ。久しゅうお目にかゝりませなんだなあ。まあ近うお寄りなされ、今度はまた麟太郎が事につき」  いいかけると彦四郎は 「仰せ聞けは、わたくしより改めて伝えます。たゞお盃をおつかわし下され」  といった。 「然様でありまするか。これ小吉どの、叔母が盃受けてたもれ」 「ははっ」  小吉は流石に膝行した。そして盃を受け乍ら眼はじいーっと隣席の麟太郎から離れなかった。  父のこの場の有様を見ても、きっちりと膝を揃えて両手をその上にびくともしない。しかもよろこびもうれしさも少しも見せない落着き払った眼つきで、父を見ている表情は、思わず、こっちで頭が下る程であった。麟太郎、僅かに九歳。  盃を受ける小吉へ、阿茶の局は 「委細は彦四郎どのへ話しましたが、この先き、何んぞの用もあらば、いつでも、阿茶がところへ参られるがいゝぞや。出来るだけの骨折はして進ぜましょう」  にこ/\しながらそういった。 「麟太郎がこともしかと心掛けてありますぞえ」  それから半刻余りで、小吉は麟太郎の手をとるようにして辞去した。局はこの夜はこの屋敷へ泊るそうだし、麟太郎の荷物、下され物などは、明朝届くそうであった。  精一郎が帰る二人を門の外まで送って来た。 「叔父上、おうれしそうですね」 「そう見えるか」 「見えます。そういうお姿がやっぱり叔父上らしくて一番いゝですね」 「ふーん。生涯世に出る見込のない男が、天に昇り損ねて落っこちた子供の手をひいて、月の下をとぼ/\と茅屋へ戻る姿がな」   清境  精一郎は、そんなつもりでいったのではない。が、何んとなくそう見えたのは本当だ。小吉も、また自棄《やけ》っ糞にいうが、無性にむか/\すると一緒に自分にもわからないあたゝかなものが胸に溢れているのが本当である。二人は思わず笑顔をかわし、何にもいわずに一礼して別れた。  入江町へ戻るとおろ/\泣いてでもいるかと思ったお信は案外にこ/\していて 「妙見へ満願の日に麟太郎が退るとのお知らせは、何にかそこに神仏のおぼし召しがあるような気が致されます。御落胆なさる事はございませぬ」  こんな事をいった。そして 「永い間御苦労でありましたねえ」  と麟太郎を抱き寄せて思わず頬ずりした。 「御殿の御奉公は楽しゅうありましたか」 「はい。でも阿茶の局様は、奉公は辛いものぞといつも/\仰せでありました。わたしは、そうは思わなかった」 「お偉い事でした」  小吉はこっちから 「おい、甘やかしちゃあいけない。甘やかすと、麟太郎もおれがような人間になるよ」  そういって泣き笑いをした。笑おうと思ったのだが、自然に瞼がうるんだのだ。  それから七日経った。  小吉は、そっとお信に耳打した。 「大した奴だ。青雲を踏みはずしても、この度胸ならこ奴物になるかも知れねえよ」  麟太郎は、別に、家へ帰って来た事を悲しみもせず、といって別に喜びもせず、絵双紙の話でもするように、淡々と御殿の様子を母へ語った。阿茶の局は固より大勢の女達の取りすましたもののいい方や、拵え事をいったり、隠し事をしたりする話をすると、手を大きく開いて、それを頭へかぶせるように押さえ 「埒もねえわ」  といったりする。これはおやじの小吉そっくりの真似である。 「まあ、この子は」  お信が笑うと、麟太郎はつーんと取澄まして知らぬ顔をした。  八日目の朝である。暖いが雨催いで、如何にも春らしい。  出しぬけに、家来をつれて彦四郎がやって来た。例の如く眉を八字に寄せて、近頃は少し左の足が不自由らしく顔色も余りよくないが、座敷へ通ると直ぐ 「お前達夫婦へ念を達したい事がある」  と茶も出さない中にそういった。 「は。何んでございましょう」  と小吉。  彦四郎は一度息をした。そしてまた咬みつくような調子で 「どうじゃ、麟太郎を世に出したいか、それとも四十俵の小普請で終らせたいか」  小吉は、黙っていた。解り切った事をきいてるわ、そんなものがちらりと口辺に閃めいた。お信はそっとうしろから小吉の尻をついた。何にか御返事を申さなくてはよくないというのだろう。  が小吉は 「ははゝゝ」  と笑っただけであった。彦四郎はいっそ眉の八字を深くした。 「一旦御殿へ上った麟太郎だ。わしはどうしてもいつの日にか必ず御殿へ参入の侍にしたい。それについては、お前らのところに置いては駄目だ。麟太郎は、唯今からわしが亀沢町へ連れて戻る」 「は?」 「学問も武術も充分に仕込む。お前らは、今日限り、麟太郎はわが子ではないと思え。いゝか、近寄るまいぞ」 「と、と、申して」 「黙れッ。いつもお信へは申した。眼にもろ/\の不浄を見ず、耳にまたもろ/\の不浄をきかず、清境に麟太郎を成人させる。異存あるか」  小吉とお信は顔を見合せてうつ向いた。 「不承か」 「いゝえ」  お信にしては珍しく、小吉を差置いたように 「有難い事でございます。何分ともよろしゅうお願い申上げまする」  畳へ額をすりつけて礼をするのを見乍ら、 「小吉、どうだ」  と彦四郎はいよ/\咬みつくようにいった。 「有難い事です」 「はっ/\/\は」  彦四郎は高っ調子で会心の笑いを発しその場からやがて麟太郎の手を引いて帰って行って終った。  麟太郎は、にこ/\しているだけで、何んにもいわなかった。お信は何にかいおうとしたらしかったが、小吉は笑い乍ら 「兄上がところは直ぐ鼻の先きだ。改まって別れの挨拶でもあるまい。麟太郎も、先ず此家《こゝ》にいて、もろ/\の不浄をきかねえだけでも仕合せだよ」  と押さえた。  その晩、仕立屋の弁治が、何枚か小吉の晒木綿の肌着を拵えたのを持ってやって来た。 「ほい、お前なんざあ、すんでの事、またおれがところへ来られなくなる場合だった。いゝ塩梅《あんべえ》に麟太郎が兄のところへ行っちまったわ」 「へ?」 「こゝへ置いちゃあ、お前らがように碌な奴が来ねえから、巾着切にでもなられては困ると連れて行かれた」 「ご、ご、御冗談でござんしょう。御新造《ごしん》さんにみっともない。わたしはもう巾着切ではございませんよ」 「だが、お前がへえって来ると、どうもぷーんと他人様《ひとさま》の巾着の臭いがするがねえ」 「か、か、勘弁しておくんなさいよ。勝様」 「ほんにもうそのような事をおっしゃるのはお止しなさいましよ」  お信が脇からいった。小吉はにやっとしてそれっきり黙った。 「ですけれどもね御新造さん。若様がおかえんなすったと思ったら、今度は男谷様の方へでは、またお淋しい事でございますね」 「馬鹿奴、おれは淋しくなんざあありゃしないよ。だがな、唯、何んだか、眼の前へちら/\していたものを、横から出て来た奴がすっともって行って終いやがった、そんな気持よ」  小吉は口の中で舌を丸めて、すうーっとそこから息を吹いた。笛のような小さな音がした。 「だがな、兄が云う通りやっぱり小さな魚は清い流れの中に育てなくちゃあ泥っくさくていけねえだろうのう」 「さようで御座います」  というお信へ 「さて、水清くして魚棲まず。麟太郎奴、あの生きた本箱の傍に住み切れるかな」 「さあ、わたしもさっきからそれを心配しているのでございますよ」 「何あに大丈夫でございますよ」  と弁治は 「利口な若様です。辛抱をするとなったら、きっとどんな御辛抱でもなさいます」  ぺこ/\しながらいった。 「こ奴」  と小吉 「麟太郎が事を碌に知りもしねえで、詰らない世辞を云いやがる。子を見る事親に如かず。あ奴あどうして/\、曲ったら梃子《てこ》でも動く奴ではねえのだぞ」  弁治が帰りかけた。小吉が出しぬけにいった。 「おい、お前がところはまだ子は出来ねえのか」 「え? へっ/\/\」 「何んだこ奴、気味の悪い笑い方をしやがる。どうだ」 「まだです」 「馬鹿奴、それ位の事が出来ねえのか、もちっとしっかりしろッ」  お信が笑い出す。弁治は、そうおっしゃったって、思うようには参りませんよとか何んとか口の中でぶつ/\いって戻って行った。  岡野の殿様はあれっきり沙汰もない。しかし梅屋敷の殿村のところで清明と暮しているに定っているから凡その事は知れている。にっちもさっちも行かなくなれば、また洒々として現れるだろう。  それよりむしろ不思議なのは隣りの岡野の屋敷の方だ。割に義理堅い奥様《おまえさま》までが、こゝのところ、ちっともお顔をお見せならないし、主計介の孫一郎も挨拶一つない。 「来ねえが花よ」  小吉は、ふンというような顔つきをしてひとり言をいったりした。  暖い朝で、春の陽がちか/\ちか/\庭一ぱいに溢れて、小吉は縁側へ出て、右肩をぬいで、新しい木刀を木賊で頻りに磨いていた。  鶯が鳴いた。何処だかはっきりわからないが、毎朝必ず来る。 「下手ッ糞奴、ホケホケホケとぬかしゃがるわ」 「あれは去年も参りましてございますね」 「そうだったかなあ」 「ほほゝゝ、去年もあれを、同じ鶯に生れ乍ら、あんなのもある、人間にすれば、丁度おれがようなものだとおっしゃいましたよ」 「ほんにそうだ」  玄関へ誰か来た。  聞いた事もない太い声だ。小吉はちらっとお信を見て、首をかしげ、肌を入れると、膝前の木の粉をはたき落し乍ら出て行った。  四十位の鼻が鳶のように尖った男が立っていた。小鼻の両脇が深い皺で薄い唇を無理に引きしめて。侍である。 「勝小吉はわたしだが、御用は?」 「は、これはお初にお目にかゝります。わたしは岩瀬権右衛門と申し、此度岡野孫一郎様御用人と相成りましたにつきまして御挨拶に罷り出ました。お見知り下されたい」 「岡野の御用人? はっはっは。これあ大層なことだ。こちらは地借《じがり》よ、御丁寧に痛み入った」 「よろしく」  と岩瀬はそういって、三白眼の嫌やな眼で、小吉を見た。  小吉はそれをじっと見返していると、対手は忽ち目を伏せた。 「奥様《おまえさま》のお姿をちっともお見掛け申さないが、お変りはないか」  岩瀬は黙っている。 「おのし、こちらの事はどうあろうと余計なお世話だというかも知れないが、おれは御隠居に頼まれてね」  岩瀬は眼をぱち/\ッとした。そして低い声で 「こゝのところ御病気でずっとお伏せりでござる」  といった。ほう、と小吉は一寸びっくりした表情で 「それはいけない」  と、いったまゝ、くるりと岩瀬へ背中を見せて奥へ入りかけた。 「あ、一寸、勝様」 「何んでえ」 「殿様の仰せですが、当孫一郎は江雪様御当主の折とは諸式万端改めます。以後はこれ迄と御同様はお断り申すとの事で——」 「孫一郎も大層偉くなるわ。そうか。結構だ」  小吉はそのまゝ引込んだ。 「奥様は御病気でございますか」  お信が待兼ねて訊いた。 「そうだとよう」 「おかしい/\と思っておりました」 「が、見舞に行くはいけねえよ。云わばあの口上はおれがところへの岡野へ出入留だ。大馬鹿奴が」 「はい」 「何あに、直ぐに泣きッついて来やがるよ。借財が五千両の上も出来てにっちもさっちも行かぬあの貧乏を、用人にも何にも今のような奴らにどうなるものか。岡野は諸式万端改めますとよ。大笑えさ」 「はい」 「主計介というも余っ程の大阿呆よ。あ奴、いつか千五百石の御大身というに父子で殴合をしておやじが眼をやられた、瞼の中に血がにじみ出ていたっけが。あの時の主計介の面が見える。ひょっとしたらあ奴気違げえかも知れねえな」 「そうで御座いましょうか」 「とにかく奥様はお気の毒だが、お前、当分行ってはならぬぞ」 「かしこまりました」  少しの間、何処か梢を渡り歩いていたらしい鶯がまたその辺へ来たようだ。頻りに鳴いている。ホウー、ホケホケホケ、やっぱりひどく下手だ。  それから十日。  朝からの煙るような糠雨。その雨にびしょぬれになって麟太郎が唯一人、突然、入江町へ帰って来た。   鳶《とんび》の子  姿を見て、小吉もお信もびっくりした。 「ぬれ鼠で、どうしたのだ」 「お許し下さい」  麟太郎は、畳へ手をついた。頭は下げているが、眼が額越しに、じっと小吉を見詰めている。 「一体どうしたというのだ。しかと云え」 「はい。麟太郎は、伯父のお許《もと》を出て参りました」 「断って出て来たか」  麟太郎は左右に首をふった。小吉は眉を寄せた。 「どうして出た」 「伯父上はわたくしの前で、父上を人間の屑ともいうべき奴だと申しました」 「ほう。おれをか」 「はい。わたくしは父上の子でございます。その目の前で、父上の悪口雑言を申されて、黙って居る訳には参りませんでした。わたくしは間違っておりましょうか」 「うーむ」 「お前のおやじは、御番入の大切な瀬戸際に人を擲殺《なげころ》して座敷牢に入れられ、一生世に出る望みを失った愚か者と申しました。お前は、あの父のようにならぬよう、わしが骨身に仕込むと申されました」  小吉は大口開いて急に笑い出した。 「おいお信、こ奴あやっぱりおれが子だよ。あ、よし/\」  といった小吉の眼にはにじむように涙が浮かんで来た。 「何あに、兄が仕込む位のこと、おれに出来ないというはねえ筈だ。よし、麟太郎、これからはお前は父のおれが好きなような人間にする」 「はい」  男谷精一郎が勝へ来たのは間もなくである。 「兄上が立腹だろうな」  小吉が先きにそういった。 「そうです。大層な御立腹ですが、わたしは父上が間違っていられると思います。その子の面前で、その父を罵倒するなどは感心いたしませんよ」  精一郎はにこ/\していた。 「いや、おれは兄上から見れば箸にも棒にもかゝらぬ人間というが本当だ。それに兄上はその子の前だろうが、誰の前だろうが、自分の思ったことを少しの遠慮もする人ではない。おれが事などは何んといったとていゝのよ。麟太郎はやっぱり、鳶《とんび》の子で鳶よ。すぐにくゎあーっと腹をたてるわ」  小吉がいつもやるように自分の頭を軽く叩き乍ら、そう云うのへ、精一郎はいっそ笑顔で 「不思議でございますねえ。麟太郎さんが鳶に見えますかなあ。叔父上はあれ程お見事な剣術の行司をなさるに、麟太郎さんははっきり見る事はお出来なさいませんか。尤も高い山は麓からでは見えませんからね。余りお近いからです」 「へーえ、何んの事? お前、おやじそっくり、まかふしぎをいいおる」 「何年か後ちになりまして、精一郎奴、あの時妙な事を申したが、ははあん、これかあと、おうなずきなさる日がきっと参りましょう」 「そうかねえ」 「とにかく精一郎の参りましたは、父の名代と思召し下さるもよろしく、又、精一郎の気持だけで参ったと思召さるるもよろしゅうございますが、麟太郎さんはこのまゝお手許にお留めなさるが宜しいと存じます」 「確と受取った。兄上へは改めて詫びに行くがどうだ精一郎、お前、こ奴に剣術を教えてやってはくれぬか」 「叔父上と二人がかりなら引受けます。技はわたしが教えます。心は叔父上がお教え下さい」 「心?」 「は、心です。技は誰でも教えられます。が、心を教える事は並の人間には出来ないではございませんか」 「精一郎」  と小吉はきっとなった。 「お前の云うはあべこべだ。技はおれが教える、心はお前に頼む。これはお前でなくてはならぬことだ」 「叔父上、あなたは麟太郎さんを唯の剣術遣いになさるお考えでありますか。わたしは麟太郎さんをある程度の剣術遣いにする事は出来る自信はあります。しかし、それは何処にもおりましょう。そんな事では詰りません」 「うむ?」 「叔父上、麟太郎さんを唯の剣術遣いなどにしては勿体ない」 「どうしてだ」 「それは先程申したいつの日にかおわかりになりましょうと申す事です。わたしは、麟太郎さんをわたしの父上の傍に置く事も元々不賛成でありました。だから今日こうしてやって来たのです。うれしい気持で」 「はっ/\は」  小吉はいよいよ烈しく頭を叩いて 「こ奴を前に、お前と議論をしてもはじまらない。とにかく明日からお前の道場へ通わせる」  といった。  精一郎は、それは引受けましたが、わたしは麟太郎さんの為めにいゝ学問の師匠もすでに見定めて来てある。 「わたしの道場の戻りにはそこへ参られては如何です」  という。 「文武は両輪の如しというからそれもいゝだろう。だが、師匠というは何処の誰だ」 「は。三ツ目橋通りの多羅尾七郎三郎様御用人滝川|靱負《ゆきえ》先生です」 「おゝ滝川先生か、名前は知ってる。だが、滅多に門人はとらないと聞いてたが」 「いや、御願い申してお承諾を得て参りました」 「ほう、そ奴あ滅法手廻しがいゝね。多羅尾様の屋敷なら第一近くていゝ」  多羅尾は五百石の旗本だが、滝川は当主の七郎三郎が、表四番町の千五百石の本家から別れる時に付家老のようになって来た用人で、学殖は当時天下に鳴り響いていたから、小吉も知っていたのだろう。 「結構だ」  改めてそういった。 「わたしが御目見得につれて参ります」 「いやあ、それはおれが行く」 「では二人で参りましょう。これから直ぐ」 「え、直ぐ?」 「そうです」  小吉も些かびっくりした。が明日明後日と延ばす事もない。精一郎はお信のお茶を一碗喫すると、間もなく小さな麟太郎を真ん中に挟んで三つ傘を並べて出て行った。小吉は近頃にないようなうれしそうな顔をしていた。  入江町を南へぬけて右へ切れて、二番目の四つ辻の左右が三ツ目の通り。四つ辻の手前の左にひと屋敷程の空地があって、その隣りが多羅尾の屋敷である。  空地には青草が延びていたが、取壊した屋敷の土台石だの庭石だの半分欠けた小さな山灯籠などが置き放してあって、隅っこの方に池があり、その脇に八重の桜がたった一本咲いて雨に煙っている。 「目と鼻だ。余り近すぎるかなあ」 「いや、夜など遅くなる事がありましょう。何んと云ってもまだ小さいのですから。この方がいいでしょう」  すでに精一郎が話してある。滝川靱負は自分のお長屋で待っていたようであった。もう五十をすぐ前にした柔和な顔つきで、しかもとても謙虚な態度であった。  応対をしていて小吉は何んだか背中に汗が流れた。 「よろしくお願い申します」 「男谷先生が余り御執心に仰せられますのでお引受け仕りましたが御期待にお添い出来ますかどうか。しかし勝様、もうわたくし共の学問などは死学問であるかも知れませぬよ」  と滝川は小さな声でいった。  小吉はその意味がよくわからない。 「はあ」  といっただけだったが、精一郎が静かな調子で 「どうしてでございますか」  ときいた。 「日進月歩という言葉があるが、これが今の学問の成行にいやもうぴったり当てはまるのですよ。新しい阿蘭陀学がどん/\とわれ/\の古い学問を追抜いて行きましてな。ついこの程も長崎のシーボルト先生の門下外科医方の戸塚静海氏が医業を表向きに実は蘭学の塾を茅場町に開きましてな。滝野玄朴氏も姓を伊東と改めて鍋島藩主の侍医になるという有様。坪井信道先生の塾などは門人が折重なって御講釈をうかゞっているという。宇田川玄真先生が公儀の天文台訳員を辞されて、これも塾をお開きなさる。高野長英先生も何にか大著を御発刊なさるという。斯く西洋医の隆昌は御国の為めにも、若い人達の為めにも慶賀に堪えん事です」  と滝川先生は、わたしのところへ参られる事はもう一度考え直して見てはどうかというような顔をした。  精一郎もそれはわかっている。しかしこの際は麟太郎へ新しい学問を仕込む事だけが目的ではない。何分にも年が幼い。相当な年になる迄に、もっと/\腹へ叩き込んで置くべきものがある筈だと、こう考えているのである。  とにかく、滝川先生にお目見得して、それでは明夜から参ぜさせますといってやがて三人は引取って来た。  途で 「どうです滝川先生は」  と精一郎が訊いた。小吉は、黙って二度も三度も頭を下げて 「いゝお方だ。気に入ったよ」  といって 「お前が年をとったような方だな」  と笑った。 「さあ、わたしが年をとっても、あすこ迄参られますかどうですか」  精一郎はそういったが、にこっとした。  三ツ目通りの四つ辻で精一郎は西へ、小吉達は東へ別れた。やっぱり雨が降りつゞいている。  入江町へ帰って見てびっくりした。家来が二人、狭い玄関内に待っていて、思いがけず彦四郎が来ているのだ。  怖い目でじろッと先ず麟太郎を見た。挨拶もせず、いきなり 「小吉、麟太郎は病み犬のようなところがある。いつ、人間に咬みついて来るのか知れない。気をつけよ」  といった。 「は?」 「おれはお前の兄だ。その兄が、お前について間違いのない本当の事をいった。それが気に喰わんかして」  彦四郎はごくり/\と唾をのんで次の言葉が出なかった。少し興奮している。大きな眼であった。 「不意に立ち上って、今にもわしへ打ってかゝろうという身の構えをした。わしも真逆十歳にもならぬ子供に打ちのめされる程老耄はしておらぬが、その時に見たこ奴の」  と麟太郎を指さして 「眼光は唯の眼光ではない。正に気違い、子供に似ず、らん/\として、真っ紅に燃えていた。怖い子じゃ。気をつけるがいゝ。わしのいい度いは唯それだけ」  いい終ると、不意に立って、そのまゝ足音荒く玄関へ出て行った。お信が送ろうとした。小吉はその着物の裾を押さえて 「あれこそ病犬《やみいぬ》だ。ほって置け」  といった。が、お信は力一ぱいそれを引きはなして送って出た。 「まことに御無礼を仕りました。お詫び申し上げます」 「いや、いゝのじゃ」  と彦四郎は、たった今とはまるで別人のように優しく振返って、声をひそめ、顔を寄せるようにして 「実はな、こういう世の中じゃ。却ってあれ位の気性の烈しいがいゝのかも知れんのだ。唯、お前の梶の取りようが悪ければ、麟太郎も小吉のようになるぞ。父子《おやこ》とはいいよく似たものだ。くれぐれも気をつけて呉れ。わしの今の叱言は、麟太郎に寄せて、実は小吉を叱ったのじゃ」  早口にいって、家来が傘をさしかけるのも待たず、とっとと出て行った。  お信が戻る。 「行ったか」 「はい」 「病犬とは誰でもない、あの兄が事よ。もう余命いくばくぞというに年から年中あんな苦虫を咬みつぶしたような顔をして、ぽん/\叱言ばかりぬかして、あれで世の中が面白いのかなあ」 「さあ、兄上様には兄上様のわたし共のわからぬ深い思召しがございますのでしょう。わたしは御立派なお方のように存じられます」 「しかし、おれは今日気がついたが、あの怒った顔に妙にこう淋しいものが閃めいた。ひょっとすると、何処か悪いのではないかなあ」 「先程のお話に、夜お眠りなされぬ事が多くて困る、それに時々目まいをなさいますとやら」 「ほう、それじゃあ雲松院《おやじ》と同じ中風ででも死ぬか」 「縁起でもござりませぬ、そのような事をおっしゃいますな」 「そうは云うが、あのまゝ死んだのではあの人も詰らない。考えて見ると、岡野の隠居のような生き方をするもいゝかも知れねえね。これも一生、あれも一生よ」   犬  もうすぐ単衣になる。  近頃の小吉は、一と頃すっかり良くなっていた脚気がまた出ていたが、多くは男谷道場で剣術を遣ってくらしている。夜など何にかのはずみで、来合せた彦四郎とちらりと顔を合せるような事があって、小吉は頭を下げるが、彦四郎は、いつもそっぽを向いた。  麟太郎は熱心に滝川先生に学問をしている。ある時、途で、先生と精一郎が逢った。挨拶の序に 「麟太郎は如何でございましょう」  ときいた。先生はにこ/\笑って 「先ずは恐るべき少年とも申しましょうか。あの子はいつもわたしの講釈の底をつかもう/\としているように見受けます。天稟でありましょう」  といった。文字に現れた学問の講義をきいてその文字の底に、姿をかくしている真髄を真っ正面からつかもうとする生れながらの不思議な見識を先生は口を極めてほめられた。ほめるというよりは驚いていられる様子であった。  精一郎は、これをそのまゝ小吉へ話した。 「文底秘沈と申す事がありましょう。文章の底にかくし沈めた秘密。麟太郎さんは早くもこれに気がつく迄に行っているようですよ。滝川先生は天稟と申されたが当ってますね」 「何あに先生のお世辞よ。お前だって、身びいきからそんな事を誠しやかに思うのだ」  しかし、小吉はにこ/\っとした。 「然様お考えならそれもおよろしいでしょう」  精一郎はそういってやっぱり笑っただけであった。  その麟太郎が、今宵はいつもより講釈が早く終ったので、五、六冊の本の包みをかゝえて入江町へ帰りかけていた。空地の草が道ばたへ折れかぶさるように延びて|六つ半《しちじ》を一寸過ぎた刻限である。針が転んでもわかる程に静かであった。  丁度空地のところを通りすぎて、向い側の松平筑後守の下屋敷の塀に沿って歩いていた。入江町の方から誰か来るのが薄闇で微かに見える。  突然、麟太郎の鼻っ先きへ、白黒ぶちの大きな犬が飛び出た。どっちから来たかわからない。一と声も吠えなかったが、姿を現すと同時に、物凄い勢いで麟太郎に咬みついて来た。  一度は自然にうまくからだをかわした。が、二度目に麟太郎は確かに、下ッ腹に、力一ぱいその犬がぶっつかって来たようなものを感じた。 「わあーん」  と、麟太郎は確かに自分があるだけの声を絞って泣いたのを知っている。  しかし、その後の事は、何にも知らない。  入江町の方から来た人影は、あわてて駈けつけて来た。いきなり、足で力一ぱい犬を蹴上げた。が、犬は今度はその男へ立向った。  草履を突っかけていたが、その草履の白い鼻緒が、薄闇の宙に躍ったと同時に、きゃん/\っと、今度は犬の悲鳴が高く聞こえて、二、三度きり/\舞いをしたと思ったら、尻っぽを尻の間にはさんで、小さくなって空屋敷の草原の方へ逃込んで行って終った。  麟太郎が大地へ打ち倒れている。 「どうした、どうしやしたえ」  その男が麟太郎を抱き起こすようにした時である。 「何んだ/\」  三ツ目の通りの方からやっぱり飛んで来た人がある。 「この子が犬に咬まれたんだ」  と云い乍ら、さっきの男が顔を上げて 「おゝ、何んだ、お前、縫箔屋の長太じゃあねえか」 「あゝ、十二番の松頭か」  先きの男は町火消北組十二番の纏持松五郎。後から来たのは、小吉とは馴染の緑町の長太である。十二番は緑町辺から花町、三笠町、吉田町、吉岡町辺まで十八カ町が持場で人足百四十八人。佐賀町辺を受持っている南組三番の百六十二人についで、川向いでは第二の大きな組合だ。  松五郎は落着いて、抱起した麟太郎を見ると、下っ腹から下へ夜目にも驚く程べっとりと血だ。 「おう、長太、こ奴あ犬に睾丸を喰い切られた」 「えーッ。そ、そ、それあ大変だ」 「何れにしてもこのまゝじゃあ命にかゝわる。何処の屋敷の子供衆かあわからねえが、とにかく、おいらがところへ運び込もう。お前、手を貸せ」  長太が首の方を持ち、松五郎が自分も血だらけになって、太股をはさみつけるように抱いて、三ツ目の通りを夢中になって花町の自分の家へ駈けた。  竪川の表通りから、一側裏へ入った長屋だ。腰高の障子に「纏」と筆太に書いた家が、見えるか見えないに松五郎は 「おい、お花、怪我人だ、戸を開けろ」  と大声で叫んだ。 「あいよ」  打って響くようにぴーんとした声がした、と思うと、途端にもう、戸が開いて、跣足《はだし》で土間へ飛降りて、すっと立っている女の姿が灯を背にしてくっきり見えた。 「何にを見ていやがる。早く床を敷きゃあがれ」  とこっちから松五郎が怒鳴った。  床へねせて 「もし、坊ちゃま/\」  松五郎が二、三度呼んだが、麟太郎はまだ人事不省だ。 「こら、お花、何にをぼんやり突っ立って見てやがるんだ。医者をよんで来い」 「あいよ」 「待て。あわてて駈出しゃあがったって何処へ行く気だ」 「津軽屋敷の前の外科の成田幸庵さね。藪だけど急場だからねえ」 「おいらが云うもそ奴だ。早く行け、大|どじ《ヽヽ》奴」  お花の足音が急がしく遠のいて行った。長太はさっきから頻りに首をふっている。 「お、松頭、はっきりわからねえが、この坊ちゃまはひょっとして、勝様の若様じゃあねえか」 「ば、ば、馬鹿奴、てめえは勝様の身内も同然だ。そ奴が、おいらにきいてどうするんだ」 「いやあ、何にね、そういわれりゃあ面目ねえが、掛違って、おれあ、ゆっくりと若様にはお目にかゝった事あねえが、どうも似てる。が、間違ったら大変だからね」 「それあそうとも。といってこう未だに正気づかねえ。縁起でもねえがこのまゝ死んででも終って、それが勝様の若様だったら、偉え事になる。お前、しっかりしろ」 「こ奴あ困った/\」  まご/\している中に、お花が成田幸庵を腕がぬける程に引っ張ってつれて来た。もう年配で、肥っている。  蒲団を積んで、それに麟太郎を寄りかゝらせると、麟太郎が、一度、うーんと大きな声で唸った。 「行灯だけでは足りない。蝋燭を十本もつけなされ」  成田は割に落着いていた。 「急所を犬に喰われたんだ」  という松五郎へ 「診ればわかる」  とちょっと怖い顔をして 「勝様へお知らせ申したか」 「え?」 「これは勝小吉様のせがれ殿じゃぞ」 「そ、そうか、やっぱり、そうか」  と松五郎は、拳骨で長太の背中をいやっという程について 「大馬鹿野郎。てめえがような間抜けの野郎は勝様に腕の一本もぶち落されろえ」  怒鳴られた時は、長太は、もう履物も忘れて跣足のまゝ、壊れる程に戸を開けて、しかも開けっぱなしで飛出して行っていた。 「あ、あ、あの大馬鹿野郎奴。途方もねえ野郎だ」  松五郎は吐きつけた。  成田は真面目くさって 「いや、然様にあわてる事はない。人間には持って生れた寿命というものがあってな。どんな小さな怪我でも死ぬ者は死ぬ、医方の上からはどうしても助からぬ筈の大怪我人でも助かる者は助かる——まあ、戸を閉めなさい、疵所《きずしよ》に風はいかん」  お花が急いで戸を閉める。成田は血だらけになっている麟太郎の前をまくった。 「ほう、これあ玉が下っている」 「え」   松五郎が見ると、成田の歯がかち/\と鳴って顔色がだん/\青くなった。ちらっとお花と顔を見合せた。これはまあ駄目だなと思った。  成田は、血だらけの衣類でまたその疵所をおゝいかくしただけで何んの手当もしない。 「せ、先生、何んとかならねえのですかえ」 「さればさ」  と成田はやっと口をきくように 「わしが手を下して、死んだとなれば、世上は——お前方もそうだろうが人間の寿命という事を考えずに、わしの手当が悪かったからだ、あれは藪じゃというだろう。わしはそれを考える」 「そ、それじゃあ、天下の医者ともあるものが、この子の死ぬのを、腕こまぬいで見てるのですかえ」  成田は何にもいわない。唯じっとしている。  小吉が一人で飛込んで来た。刀を鷲づかみにして、さしてもいない。草履をぱっとうしろへはね飛ばして、じろりと松五郎夫婦と成田を見て、立ったまゝ、で一礼した。途端にぐうーっと落着いたようである。 「松頭、世話になった」 「飛んでもござんせん」  小吉は 「こらッ、麟太郎」  その辺の物が皆んなひっくり返って終う程の大きな声で眼をむいて怒鳴った。 「父が来たぞッ」  前よりいっそ大きな声だった。そして、手をのばすと、蒲団へ寄りかゝっている麟太郎の前をまくって、じいーっといつ迄も疵を見ている。麟太郎がまた唸った。しかも三度四度、つゞけて——。正気づいたようである。  小吉の鋭い目が成田へ流れて行った。 「助かるか」 「先ずむずかしい」 「何故《なにゆえ》、何んの手当もしねえ」 「この子が後々天下の民に仕合を与える人間になるようなものを背負って生れて来ていれば、わしが放っておいても助かる」  小吉はぐっと唇をかんだ。成田は 「生きてこの世に何んの為めにもならぬ子ならば、わしが——いや、天下の名医がこぞって手当をしても助からぬ。これが神仏の配剤と云うのじゃ」  いった時である。 「馬鹿!」  小吉の平手は力をこめて対手の頬へ飛んだ。びっくりするような大きな音がして、成田はひっくり返って脳天を打った。 「坊主の御説教をききに来てるんじゃあねえ。疵をしたら手当をして、少しでも苦痛を無くするが、手前《てめえ》の職だ。助からねえ迄も助けようと手を尽くすが医者が仕事だ。利いた風な事をぬかして、玉の下った程の大怪我人をあっけらかんと見ているという医者があるか」  やっと起き上って来そうにした成田をまたも一度ぶっ倒した。しかも、今度はその上襟首をつかんで、ずる/\と引きずって土間へ下りて、腰高を開けて、どーんと突飛ばしてやった。成田は往来へ、腹ん逼いになったまゝ、暫くの間起き上られないようであった。  靄立って、空は暗く、蒸暑くなっていた。小吉は、松五郎へ 「お前さんらに、落着いて礼もせず、今のような乱暴を見せたは、少々、面目ねえが、お前さんらも、わが子がこういう事になれば、こうした事になるだろう、笑わねえで勘弁してくれ」 「いゝえ、御尤もでござんす。しがないあっし共にも御心中はわかります。で、勝様、若様は如何になさいますか」 「助からないかも知れないが、親の身とすれば出来るだけの事はしてやりたい。今、縫箔屋が戸板を用意して来る筈だから、とにかく入江町の家まで運ぶ気だ。お前へ迷惑をかけた埋合せはきっと後でするからね」 「飛んでもござんせん。勝様、溝《どぶ》っ浚いの人足でも、これでも江戸っ子の端っくれ。しかも本所《ところ》でお天道様を拝んでいる男でございますよ。埋合せだの何んだのとそういう事はおっしゃらねえでお呉んなせえ」  小吉は黙って頭を下げた。途端にこれがまるで別人のような怖い顔になって、いきなり、麟太郎を張り飛ばしたには、松五郎も固よりだがお花も顔色をかえてのけ反った。 「こら、麟太郎。侍の子ともあるものが、不覚にも急所を咬まれるばかりか、その態《ざま》は一体《いつてい》、何んだ。お前のおやじは勝小吉だぞ。しかもお前はこの間まで一位様の御殿に上って勿体なくも亡き春之丞君の御対手をした程の者ではないか。男の性根があるなら笑って見ろ、え、笑って見ろ笑って——」  ぱっぱっとまた二、三度つゞけ様に頬を張ったがさっき成田をやった時とは固よりいさゝか違っている。   裸詣  唸る声と共に呼吸がだん/\大きくなって麟太郎ははっきりとおのれに返って来る。 「痛いーっ、痛いっ」  物の怪《け》にうなされてでもいるような声であった。 「これ位が、何んで痛てえものか」  小吉は精一ぱいの声で怒鳴った。またゝきもせず麟太郎を見詰めている。  長太が吊台戸板の用意をして戻って来た。  麟太郎を抱いて、これへ移し乍ら小吉は一度 「痛てえか」  と低い声できいた。麟太郎は答えなかった。松頭もついて入江町の家の狭い玄関から、吊台戸板を奥へ担ぎ込んで来た。お信は床を敷いてあったが 「夜具を積んで寄りかゝらせるのだ。おう、長太、お前、その辺へ行って百目蝋燭を二、三十本集めて来い」 「へえ」  ごた/\しているところへ、南割下水の外科篠田玄斎がやって来た。お信が先きに手配してあったのだ。 「急所を犬に喰われて片方の玉が下っているようだ。外科の成田幸庵が、むずかしいといって何んの手当もしねえが、何んとか助けて貰いたい」  小吉が早口でいった。篠田はこの辺ではちょいと名がある。 「睾丸ですか」  動悸っとした様子である。 「そうだ」  長太が蝋燭を買って来た。これをそこら中一ぱいに立てて、篠田はたすきをかけ、怖い物でも見るようにそうーっと麟太郎の前をまくった。 「あッ!」  顔をそむけて、がた/\がた/\慄い出した。 「先生、どうですね」  松五郎が篠田の顔をのぞき込む。さっきの成田と同様、血の気が失せて蝋人形のような顔に、眼ばかり、ぱち/\している。  ひどい慄え方だ。 「どうするのだ」  小吉が篠田をにらみつけた。 「と、と、とにかく、き、き、疵口を縫わなくてはならぬ」 「早くやってくれ」  そうはいっても、この慄えようではどうにもならぬだろう。 「篠田さん、お前、医者の筈だなッ」  いったと思ったら、小吉はさっと稲妻のように刀をぬいた。水色に澄んだ池田国重の刀身に火の林のようについている百目蝋燭がぎら/\映って座敷の中を虹が走る。  小吉は 「やッ」  とわざと大きな気合をかけて刀を麟太郎の枕元の畳へ突立てた。ざくッと不気味な音がした。 「こら麟太郎、命の瀬戸際だぞ。びくりとでもして見ろ、痛てえとでもぬかして見ろ。急所の疵はなおっても、ぶち落されたらお前の首は二度とは胴へはつながらねえのだぞ」  お信は泣いている。 「篠田さん、思い切ってやって呉れ。動悸が静まらねえようなれば、さ、こ奴を見る事だ、池田鬼神丸国重という滅法界に斬れる刀だ」  小吉は突立って、肩を張り腕を組んでそれっきり無言でじいーっと様子を見下ろしている。松五郎、長太も、みんな息をのんで、作り物の人間のように固くなっていた。  玄斎の頬が微かに紅味を帯びて来た。  暫く経った。疵口は見事に縫い終せた。その間、麟太郎は歯を喰いしばって、唇からたら/\と血が出たが、痛いとも苦しいとも一と言もいわなかった。 「偉かったぞ麟太郎」  小吉がはじめてぽろりと涙をこぼした。 「父上」  麟太郎も口をきいた。 「物をいうな。疵に悪い」 「はい」  小吉はまた居合の早業で刀を鞘へ納める。きーんと腹へこたえるような鍔鳴りがした。  みんな無言のまゝでそれからずいぶん長い間、重い沈黙をつゞけた。  入江町の時の鐘が|九つ《じゆうにじ》鳴った。  玄斎が一先ず引取ってまた明朝出直して参りますという。小吉はそれを送って出た。  宵の頃の靄はなく、空は一ぱいの星。真っ暗である。道を歩き乍ら 「先生、あ奴はやっぱりむずかしいかねえ」 「実は今晩にも受合兼ねる」 「今晩? そ、そうか、仕方のねえ事だ」 「尽くすべきは尽くし申した。わたしはあの手術だけを云うならば、あなたのお蔭であれは見事に成功だという自信がある。この上は看病次第だ」 「あ奴あね、青雲を踏みはずした運の拙ねえ奴だ。この儘死なせちゃあ余り可哀そうだ。看病ならどんな事でもしてやる」 「何よりそれが大切。勝さん、しかしあなたは聞きしに優る偉い人だ。今もわたしはあなたのお蔭と申したが今夜は深く教えられた。あなたのあの抜刀の底蒼い光が眼の前になかったら、わしはあの手術に失敗したかも知れない。——とにかく御看病を」  小吉は途中で玄斎に別れてふっ飛んで引返して来た。  お信が門のところにたたずんで待っていた。 「あなた」 「ききてえか。玄斎は今夜にも受合《うけあわ》無えといったよ」  お信は、思わず、わっと声をあげそうになって、あわてて袖をくわえて、もう立ってはいられないように、くた/\と膝が崩れて行った。びっくりしてこれを支える小吉もまた膝ががく/\ッとした。 「泣きゃがるな。おれが看病できっとせがれを達者にして見せる」  小吉はお信を抱えるようにして家へ入って来た。松五郎も長太も心配そうに眉をよせて、そっと小吉を見る。小吉は首をふって、危ない事を無言で知らせた。  夜が明けて来た。石像のように坐っている人達の耳へ、三度ばかり唸り声が入ったが、麟太郎は、決して、苦しいとも痛いともいわなかった。  小吉が|子の刻《じゆうにじ》を相図に能勢の妙見堂へ裸詣をはじめたのは次の夜からである。 「お信、昨夜にも危ねえ麟太郎がまだ生きている。親の一心でおれがきっと助けて見せるぞ」 「はい。あなたが妙見菩薩へお詣りの間、わたくしも井戸で水垢離とって御題目を称えます」 「そうして呉れ。な、哀れな子だ。おれらが二人の力ででもどうにかして助けてやろう」 「はい」  二日目の夜中。家の門を出てびっくりした。弁治、五助は固より道具市の栄助とっさん。長太に、これ迄縁もゆかりもない松五郎頭。それに剣術遣いの例の東間と右金吾迄が加わって、みんな褌一貫の素っ裸で跣足。小吉が題目を称え乍ら駈出して来ると、そのうしろに食いついて、一緒に駈けて来る。 「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」  妙見堂では灯を一ぱいにともし、御本尊を開帳して待っている。  その夜は夜の入りかけに一雨あって、大横川沿いのところ/″\、ぬかるみであった。  小吉は本堂の前の御手洗井戸で何杯も水をかぶり、ぬれたまゝ、何んと思ったのか、ずか/\と本堂へ上って、本尊の前へ仁王立ちになった。 「これは勝様とした事が」  堂守はびっくりして小吉を制した。 「いゝのだ。妙見菩薩が本物か偽物か、今度こそおれが試して見る」 「そ、そ、そんな」 「おれは御旗本だぞ、妙見菩薩も並の者には扱うまい」 「と申しましても」 「うるせえ、黙って控えろ——え、もし、妙見様。勝がせがれの麟太郎はね、お前様へ御祈念申した満願の日に、俄かに天から落されて来ましたよ。そ奴が今度は大怪我だ。これじゃあまるで踏んだり蹴ったりというものでしょう」  世話焼さんが逼い上って来た。 「勝様、勝様、あなたそれは余りの事、御罰が恐ろしゅうはござりませぬか」  と低い声でいった。  小吉はふり返って、いつになく少し眉を吊り上げていった。 「罰が当るか当らないか、見ておれ」  言葉尻が詰ってぴーんとしているので、栄助とっさんは、ぎくっとして、そのまゝじり/\と引退って終った。 「ね、妙見様、お前様がまこと菩薩か、それともそうじゃあねえか、此処で忽ちはっきりするところですよ。お前様が本当の菩薩なら信心のこの小吉を如何に御覧なさる。疾く/\現証の奇特を顕してせがれ麟太郎の大怪我をお癒しなすって下され。若しもだ」  小吉は一段と大きな声を張上げた。 「あのまゝせがれが死ぬような事があったら、やがて小吉もあの世へ行き、諸神諸仏の御前へ罷り出て、妙見菩薩というは飛んだいかさまだ、かぶとを冠り刀を振上げ、姿形《すがたかたち》はいかめしいが、人を憐み、苦難を助け、いさゝかの慈《いつく》しみも遊ばさぬどころか、徒らに信心者の供養を受けて、安閑といねむりをしている奴だと、洗い浚い申上げるぞ」 「か、か、勝様、勝様」  今度は堂守が脚へすがるようにした。 「うるさい。おう、堂守、こゝでこのおれがこれだけ云って、家のせがれが助からなかったら、おれが直ぐにやって来て、御本尊を土足にかけて小便をひっかけてやる。その上この堂に巣くっているお前らの首を一人残らず叩き落すが、目に見える御利益があれあ、おれはどんな事でもしてお詫びをするし、一生かけて、命がけの御供養は怠らねえ決心だ」  その眼の光をまた本尊へ向けて 「さあどうだ妙見様、わかったか」  いい終ったら、べったりとそこへ坐って 「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」  からだをゆすってお題目を称え出した。腹の中からゆり起こって来る声は、涙を交えて実に悲壮であった。  夜明け間近に引上げた。みな一緒について入江町まで来て小吉が裏井戸で足やからだを洗って家へ入っても、それからまた暫くの間、低い調子で、お題目を斉唱していた。それがさゞ波が磯辺の砂へ忍び上っては、またひそかに退いて行くような感じであった。  妙見菩薩の前であんな事をいった。勝様に何にか大罰が当りはしまいかと、道具市の栄助とっさんなどは、地べたへ坐って腰が立てない程に心配しつゞけて、死んだようになって担がれて帰ったが、小吉に何んの事もなく、次の夜も次の夜も全く同じ事が繰返された。しかし小吉はあの時きりで、本尊を唯、何千回となく拝しつゞけて帰るだけであった。  三ツ目橋の袂に風神湯屋というのがあった。柘榴口に鬼が大きな袋から風を絞り出している彫物があってこれがなか/\よく出来ている。これが人気になってよくはやった。  十二番の松五郎頭が、妙見の裸詣から帰ってこゝへ飛込んだ。浴槽《ゆぶね》の中は薄暗くて、よく人の顔も見えない。少しおくれて二人づれの堅気のものの年寄りが一緒に入って来た。  道々話して来た続きと見えて 「岡野様の地内にいる勝という剣術遣いはわが子を犬に喰われた上に能勢の妙見様へ悪態をついて気が違ったというが、剣術遣いの気違いは物騒だね」 「だけどな、唯素っ裸で、大勢弟子がついて走り廻るだけで、別に悪さはしないそうではないか」 「その裸で走り廻るのが、もう五十日つゞいているそうだよ。真夜中になると口々にお題目をとなえて、ぴしゃ/\ぴしゃ/\走り出すんで町内はその足音が妙に不気味で堪らないと云っているよ。みんな刻限になると耳をふさいでいるとさ」 「一体いつ迄それをやる気なのかねえ」 「気違いの事だからいつ迄かわからぬだろうさ」 「ついている大勢の弟子というのもまた妙なものだね」  松頭が、首まで浸っていたのがぬうーっと立った。柘榴口を外へ出る。背中一ぱいの竜の刺青だ。 「もし、念のためにちょいと申上げて置きやすが勝様は気が違ってるんじゃあ御座んせんよ」  と浴槽へ入る二人へそういって 「親の情の一心で毎夜あゝして妙見様へお通いなさる。あっしなんざあ、門人でも弟子でもねえが、あのお方に一目惚れでね。やっぱり一緒に裸詣をしている仲間ですよ。だが今朝でそれももうお詣納めになった。間違っても気違いだなんぞと云わないでおくんなせえよ」  二人は慄える程にびっくりした。少し吃って 「え、え、別にね、悪気があって云った訳じゃあないんですがね。町内でみんなそう云ってるもんでね」 「御町内はどちらで」 「川向いの林町なんですがね、こゝの湯屋が気にいって毎日やって来ますよ。頭はこゝの御町内ですか」 「十二番の纏《とうばん》を預かる男でげすが」 「おや、それじゃあ松五郎頭で」 「へえ、さよですよ。これあどうも恐入りました」 「あゝ、お前さんのようなお方が、そうおっしゃるのでは勝様というのは本当に気違いじゃあないんですね」 「気違いどころかいやもう江戸っ子が惚れぼれするお侍でげしてね。坊ちゃまが犬に急所を咬まれて、外科がみんな駄目だと手ばなしたのを看病一つでとう/\助けて終ったんですよ」   夏涼  松頭は柘榴口の方へ真っ正面に向き直った。 「お侍だが、威張る奴が大嫌えでしてね。自然本所深川の剣術遣いや若い者はみんな子分見てえなものになっている。今度だって、お坊ちゃまのお怪我を一日も早く癒してえと、みんな自分のからだをおっぽり出してかゝった。弟子の何んのという訳じゃあねえんですよ」 「へーえ、そうですか。で、癒りましたか」 「もう、大丈夫。十日もしたらお床上げが出来やしょう。何しろところが急所だから助かったのが不思議。それにしても、毎晩一緒にねて上げて、もし熱が昇ると、自分が井戸水を何十ぱいも引っかぶって、からだを凍る程に冷やして、それでお坊ちゃまを抱いて熱をとったんだから、あなた方、こうきいただけでも涙がこぼれやしょう」  年寄は二人ともすでに貰い泣きでもしてるようだった。  麟太郎が本当に床上げをしたのは暑い最中であった。床にある事七十日。痩せたが眼元が前よりぱっちりして元気であった。 「病人はな、看病が肝心だよ」  小吉は、祝に来た人達へそういって本当にうれしそうであった。  きょうもひどく暑い。小吉は、洗いざらしの単衣の着流しで、帯もしめず、褌をむき出しにして縁近くへごろりと横になっていた。 「あなた、お帯をおしめ下さいまし」 「ほう、また見つかったか。お前はとんと目が早えからねえ」 「仮初にもお侍がそのようなお姿は余りよろしくはございませんでしょう。麟太郎が見習って、後々、真似をされては困ります」 「岡野の隠居もよくこうやっていて、滅法涼しいというから真似たが全く以て涼しいよ。だが、いけねえかねえ」 「この間も申上げた通り、それが兄上様のおっしゃる目に見えるもろ/\の不浄の一つではございませんでしょうか」 「やっ、恐入った」  小吉は立ってお信の出した帯をしめて、どかっと坐ったところへ、刀鍛冶の水心子秀世が、うこんの袋へ包んだ白鞘を下げてやって来た。 「おのしの来るなんざあ珍しいが、おれがところは酒がなくて気の毒だの」 「いや、それどころではありません。先生、今日は妙なお頼み事で参りました」 「ほう、頼み? 妙見の刀剣講でお前に無理をさせるから、おれに出来る事なら何んでもやるよ。それにしてもその刀をちょいと見てえな」 「是非にも御覧いたゞくつもりで参りました。あたしには、これから前も先きも、こんな刀は二度と打てますまいと思います」 「ほう」  見ると立派なものだ。これ迄見た水心子にはないように深々として、ぐうーっと魂を引込まれて行く気がした。  小吉は、うむ、うむと二度も三度も唸っていたが、やがて鮮やかな手つきで、鞘へ納めて、秀世の前へ鄭重に差出した。 「いや、結構を見せていたゞいた。有難い」  秀世はじっと小吉の様子を見ていたが 「先生、お気に召されましたら差上げたいと存じます」  といった。  小吉は大きな眼をした。 「実はその刀をわたくしが家で眺めておりましたところ、いきなり入って来て、斬れるかと申した人があるのです。ぐっと致しましてね、見ましたところ、かねて御贔屓をいたゞく外桜田の尾張屋亀吉と申します諸家様御用達の親方でございましてね」 「ふむ」 「わたくしは、親方、水心子秀世は斬れない刀を打ちませんよと申したところ、おれは刀の利鈍はわからない、がお前がそういうなら本当だろう、本当に斬れるなら是非とも差上げたいお方がある。黙って、その方へ、差上げてくれと申すのです」 「ふーん」 「それはどなたですと云いますとね。お前の可愛がっていたゞいている入江町の勝小吉様だと——」 「え? 尾張屋亀吉というは名前はきいているが、逢った事も見た事もない。それが何んでおれに刀を呉れるのだ」 「そこなんですよ先生」  と秀世は少し膝をひいて頭をかいて 「下心がある」  と呟くようにいった。 「わたくしも不思議に存じておききしました。ところが、親方が申しますに、実は勝様という方の御気性はかね/″\きいている、下手に拵え事をしては却ってお叱りを受けるから、ざっくばらんに云っちまうが、お前さん、一つ、骨を折って見てはくれまいかという、あれだけの親方が膝を抱いての御相談でございます」 「ふん、おれに刀をくれるから、何にかして呉れというのか」 「そうなんです」 「はっ/\は。おい秀世、お前の刀はいつの間にそんなくだらねえ物に成り下ったえ。お前も飛んだ馬鹿な男だったな」 「ま、ま、先生、そう申されては身も蓋もなくなって終いますよ」  秀世はなだめるような顔つきで 「先生は尾張屋亀吉というはどういう風な人間か、御存知はござんせんでございましょう」 「お前に刀を持たせて、おれに物を頼もうなどというような量見方だ。くだらねえ男に定っている」 「ところが、どうして/\」  といいかけた時であった。きのうの朝から、また稽古をするために男谷の道場へ通って、今朝も行っていた麟太郎が 「父上、父上」  往来で精一ぱいの声で叫んでいるのがきこえた。  流石の小吉が飛上って 「何んだ/\」 「犬です、犬です」 「あの犬か」 「そうです」  声と声だけが、嵐の中の渦のように響き合った。  小吉は、夢中でたった今、秀世の持って来た白鞘を鷲づかみに、着流しのまゝ、風を起こして飛出して行った。  夏の陽がぎら/\輝やいて、一面の緑の中に、麟太郎が自分の家の塀際に肩をしぼめて小さくなって、丁度その向い側の少し先きの方を、背中を丸くして、何にやら嗅いで歩いている大きな犬を指さしている。白黒まだらで、何処も此処も槍のように骨の突出た痩せ細った犬だ。 「あ奴だな」 「そ、そ、そ、そうです」  麟太郎は、顔色が土のようで、がた/\がた/\慄えている。 「麟太郎、いゝか性根をすえて父がすることを見ていよ」  小吉は悠々と犬へ近寄って行った。  犬は気がつかない。十歩五歩三歩。もう一歩というところで、犬が自分を狙う人をちらりと見たようだ。途端にくるッとからだを廻して、まるで立ち上るような姿勢で、こっちへ真向きに青い牙を見せると宙を飛んで咬みついて来た。  小吉の体がさっと開いた。はずみを喰った犬はそのまゝ板塀へぶっつかって、もんどり打った時は、小吉はすでに閃めくような抜討で、犬の首のつけ根をさっと斬っていた。たら/\とどす黒い血が休みもなく大地へしたゝり落ちる。小吉は、片手に高く刀をさし上げて半身の構えをしていた。ほんの瞬きをする間だが、手負の犬と小吉とが睨み合っている。  突然、犬が逃げ出した。血だらけで入江町の角を右へ切れると、飛ぶように三ツ目通りの方へ走る。少し脚がもつれたりするが、まだ/\凄い勢いだった。小吉が刀を下げたまゝで追う。  いつの間にか草履の片方がぬげていた。  犬は多羅尾七郎三郎の隣りの空屋敷の中へ逃込んだ。草が茂って、捨て残された壊れた山灯籠へ草をもれた陽がちら/\当っている。  小吉の刀へ時々さあーっと玉虫色の虹がひらめく。犬は右へ逃げ左へ逃げる。小吉は刀をふりかぶって追う。知らぬ間に鬢髪が乱れて、脚のところ/″\からすりむき疵の血がにじむ。  空屋敷は多羅尾家をはじめ小旗本の塀に取囲まれて、犬は逃げるところがない。丁度山灯籠の前であった。小吉はとう/\草むらの横合から出て来た犬と六尺ばかりの間をおいて真っ正面に相対した。 「やッ」  小吉は飛上るように踏込んで斬った。ごつッという手ごたえがあって、ぱッと血が一尺も噴上げた。  犬は胴を真ん中から二つに斬られて、血だらけの肉塊が雑草の中に無造作に投り出されている。小吉はにやりとして、ふうーっと大きく息をついた。  あれ以来、七十余日、どれだけこの犬を探したか知れない。暇さえあればこの空屋敷を中に、三ツ目通りから竪川一帯の川岸《かし》ッぷち、南割下水の津軽屋敷の裏門の辺りにいつもそんな犬がうろうろしているときいて、一日中、張っていた事もあった。その時は途中で雨に降られて閉口した。  松五郎などは、十二番の組の者達へいいつけて、見つけたら一|歩《ぶ》やるなどといって騒いだし、仕立屋の弁治も縫箔屋も、仕事をおっぽり出して夢中で探したが、今日までとう/\見つからなかった。  それが当の麟太郎に見つかって、しかも入江町の、すぐ家の前にいたのなんぞは不思議といえば不思議なことだった。  小吉は、げえーっ、ぺっと唾をはきかけて、空屋敷を出ようとしたところで、ぱったりと平人足を一人つれた松五郎頭に出っくわした。 「えッ、勝様、抜き身のお刀をお下げなすって、如何なされやした」 「おゝ、松頭か。とう/\やったよ。あの犬を」 「そうですか。お斬りなすった?」 「あすこに死骸がある。が、見る程の事もあるまい。犬でも生きているものを斬るというは、道場で木剣をふり廻して五人や三人の人間を対手にするよりは余っ程骨が折れるな」 「お刀は新身《あらみ》でごぜえやすね」 「そうだ——ほい、失敗《しま》った、こ奴あおれが刀ではなかった。が、犬を真っ二つに斬って、鵜の毛の刃こぼれもねえは流石は水心子秀世だな」 「いゝお試しでよろしゅうごぜえやした」 「馬鹿奴」  と小吉はしみ/″\と刀を陽にかざして見て 「名刀を一|口《ふり》、無駄にしたわ」  とつぶやいた。  新身で犬を斬ったのでは、もう侍の使い物にはならない。といって秀世にこのまゝ返す事も出来ない。 「おれあ、嫌やになって終った。あの野良犬奴、どこ迄おれが屋敷に祟りやがる」 「嫌やにおなんなすったってどうしてでござんすか」  松頭はつれを先きに帰して、自分だけが小吉について歩いていた。 「侍は獣なんぞで試斬はしないものだ。刀が汚れる。これは人の刀だよ。申訳ない事をして終った」 「先生に試していたゞくなんざあ願ってもない事だ。獣だって何んだって」 「そうは行かない。お負けに対手は水心子秀世というおとなしいが少々変った奴だ」 「あゝ、水心子ですか。あの人なら、わたしも知っている。先生、何んとでもなりやしょうよ」 「実は頼み事で、引出物に持って来た。犬を斬って、刀を無駄にした詫びには、おれああの男のいうことをきいてやらなくてはならねえかなあ」 「ねえ先生」  と松頭は 「あれは酒っ喰《くら》いだが曲った話を持込んで来るような男じゃあござんせん。きいてやっておやんなさいましよ。難題なんでござんすか」 「いやまだ話の内はきいていない。が、おれは妙見の刀剣講であの男に無理を云っている。こうこうと頼まれれば、きいてやらなくてはならぬ義理もあるから、きかぬ中に文句をつけて断ったのだ」 「それあ先生らしくねえ。卑怯だ」 「はっ/\。とう/\、おれが卑怯にされて終ったかえ」  家へ帰ったら騒いでいる。町角のこっちから見ると秀世が門のところへ出たり引っ込んだりしている。  松頭が先きになって駈けて行った。 「麟太郎様が、あのまゝ往来へ倒れましてね」  と秀世のいうのがきこえた。小吉はあわてた。家へ飛込むと、お信がちゃんと床へねせてあって、麟太郎はもう顔もふだん通りになっていた。  小吉を見ると、すぐに起き上った。 「父上、おゆるし下さい」  小吉は口をきっとしてじっと見ている。 「醜い姿をお目にかけました」 「犬位の事でぶっ倒れるとは、醜い事だとわかったか」 「はい。男谷先生もこれをお知りなされたらきっとお叱りなさるでしょう」 「あのまゝ死んだら——」 「勝麟太郎というものは、一度咬まれた犬の姿を見て、頓死を遂げたということになりましょう」  麟太郎は、小吉の顔を瞬きもせずに見てこういった。   男  脇できいている松頭までがぐっと腹にこたえた。この坊ちゃまは大したものだ、そう思うと自然に頭が下った。  小吉は、もう、けろりとして 「おい、水心子。飛んだ事をして終った。この刀は不承だろうが、おれに売ってくれ。おれが家は知っての通りの貧乏故金はすぐには払えねえが、きっといい値を工面する。頼む」 「嫌やでございます。差上げる為めに持参の刀、売るという訳には参りません」 「といって、おれは今、犬を斬った」 「察しておりました。とにかく」  といい乍ら、秀世は、今、小吉が縁側へおいた刀を持つと、そのまゝ、お信の方へ頭を下げて庭下駄をはくと、つか/\と石灯籠の前へ行った。すぐ脇に手洗の石鉢の水がある。落着いてそれを新身の裏表へさら/\とかけると灯籠の前に足を開いて、呼吸をはかって 「やッ」  さッと斬りつけた。水心子には試し物の心得はある。が刀は折れもせず、曲りもしないが、刃ががっくりと幾個所も欠け落ちてもう物の役には立たなくなった。  秀世は、みんなの方を見て、にっこりと笑った。 「勝様、水心子秀世が生涯をかけた作を捨てました。尾張屋さんのお言葉に任せ、刀などを持参したのがわたしの間違いでございました」  小吉は半分腰を立てた。 「まあ、来い、話をきこう。おれに出来ることなら、骨を折る」  秀世は一礼して俄かにこみ上げて来るうれしさを押さえつけるような顔つきで上って来て片隅へ手をついた。 「牧野長門守様は勝様の御親類との尾張屋さんのお話でござりますが」 「あゝ、伊勢の山田奉行をしている牧野長門守|成文《なりぶみ》か。あれは親類と云えば親類、親類でないと云えば無い。おれが祖父の男谷検校というものから別れた家でな。何しろ千五百石だ。屋敷も本所の相生町だが、ついぞ行った事も見た事もないよ。兄は如才なく出入をしている事だろう。それがどうかしたか」 「はい、その事なのでございます。今度山田奉行から長崎御奉行にお転役になりました」 「ほう、そうか。長崎奉行は滅法金になるということだ。牧野は大体金持だから、いっそう、大きな蔵が建つだろう」 「はい」  秀世はちょっと弱ったような顔で、頭をかいて 「その長崎奉行御転役について、尾張さんが御用達《こざし》を仰せつけていたゞきたいというのでございますよ」 「ほうお」 「牧野長門守様を御城から糸をひいていらっしゃるのが阿茶の局様だそうでございましてね」  小吉はぽんと手を打った。 「わかった。尾張屋が、おれに阿茶の局へ肝煎をしてくれろというのか。奉行の小差《ようたし》は大層儲かるというが、流石あ商売々々だ。そこ迄深く繋がりの糸をたぐって頼んで来るは、恐入ったものだ。それとこれとは別な事だが、世の役人という役人がまいない賄賂で、商人《あきんど》共の思う通りに働かされるは、所詮、このように、向うが役者が上だからだなあ」 「尾張屋さんはそういうつもりではないで御座いましょう。どうせ誰かが御用達を致さなくてはならぬ事。それならば、わたくしをというのでございます」  小吉は首根っこをぴしゃ/\叩いて大きな声で笑った。 「おい、水心子、お前が新身を犬なんぞの血で汚した。詫びをしなくちゃあならねえが、思えば、憎い犬奴だった」 「い、いや、それは別に」  横から松頭がにや/\しながら、そっと秀世の脇腹をついて 「さ、けえって御当人をおつれ申す事だ。尾張屋さんが勝様の前で、お頼み申しますと頭を下げれあ、きっとお引受け下さるよ」  秀世は大よろこびで帰って行く。後で小吉はむっつりして 「日頃高慢をいう侍が、新身で犬を斬るなんぞは、おれという男も余っ程馬鹿だ」  吐きつけるようにいうと、頭をかゝえてどーんと引っくり返った。  その一日、何んだか不機嫌でいると、夜になって、また水心子がやって来た。 「尾張屋さんがお目通りを願い出ましたが」  怖る怖るそんな事をいった。 「馬鹿奴、四十俵の小普請にお目通りはねえだろう。通るがいゝよ」  尾張屋亀吉は白麻に袴をつけて、きっちりとした立派な男であった。尤も年配も五十をとっくに過ぎているし、かねて小吉という人についてはよくきいていると見えて、自分が長崎奉行の用達《こざし》を願出るのは唯自分の慾ばかりではない、真実をこめて御奉公を申し、引いては公儀の御為めにもなりたい心願だなどと、行儀正しく丁寧な口をきいた。 「就きましては」  と尾張屋は、ふところから二十五両包みの金を二つ取出して、白扇へのせて小吉の前へすっと差出した。 「甚だ御面倒ながら阿茶の局様又は牧野様へ、勝様から何にかお好きな物を差上げていたゞき度う存じまして持参を仕りました」 「そうか、預かって置こう。が、おれは阿茶の局へ頼まずに直々牧野へ話を持込む気だ。長門守は顔も知らないが、あれの用人白石九八郎というものに頼まれて、せがれの成行《しげみち》というへ剣術を少し教えたことがある。余り筋が悪くて箸にも棒にもかゝらないから止したがいゝとやめさせたが、こんな蔓をたぐったら、ひょいとして物になるかも知れないよ。だが断って置くがねえ、一旦向うへ出した金は駄目だったからって、二度とこっちへは戻っちゃあ来ないよ」 「心得ております」 「じゃあ三日待って貰おう。返事はこっちから水心子がところ迄持って行く」 「へえ、何分ともよろしくお願い仕ります」  次の朝、薩摩上布の反物に帯などを三宝にのせ、その下へ小判二十両を入れて、小吉は相生町の牧野の屋敷へやって行った。白石に案内されて、成行の座敷へ通って、尾張屋の一件を腹蔵なく話した。  成行はもう十八、九で小吉にいわせると剣術は見込はないそうだが、気軽く引受けて、直ぐに長い廊下づたいに長門守の方へ行った。  ものの半刻も待った。  いゝ庭で、風も涼しいし、小吉は白石を対手にふところへ風を入れながら、秀世の刀剣講の話だの、自分の眼に映ったまゝの尾張屋という人物の話などをしている中に、成行が戻って来た。 「残念ながら駄目だった」 「は」  と白石がきくと、小吉に向って 「勝先生、長崎の用達《こざし》は昨日すでに確定したそうですよ」  といって 「父上も、所詮の事ならば勝の推挙によれたものをと申しておりました」 「そうですか」  と小吉は一寸困った顔つきをしたが 「そう仰せいたゞくだけで満足です。では御免を蒙ります」  と、そのまゝ入江町へかえって来た。 「如何でございました」  とお信がきいた。 「一日おくれよ。が、けえる道々おれは考えた。賄賂をふところに役人の小差《ようたし》を頼みに行くなどは、お信、おれも大層変ったなあ」  お信は笑って何んにもいわずにうなずいただけであった。 「おれあね、これから外桜田まで行って来る」 「でも水心子が今宵参るようなお話だったではございませぬか」 「悪い知らせだ、足を運ばせるも気の毒だ」  暑い日照の中を、小吉は出て行った。  尾張屋は大きな構えで、裏の別棟には十人位の人足が素っ裸でごろ/\しているのだが、これはこっちからは見えない。  小吉に来られてびっくりした。鄭重に客間へ通して、亀吉は遥かに下座に下って手をついている。 「面目ないが一日遅かった。他の者に定っていた。おのしへ鼻をあかせたような形で、とんだ悪い事をした」 「とんでも御座りませぬ。御面倒をおかけした上、御足労をいたゞきましてはまことに以て恐縮千万でございます」 「恐縮はこっちのことよ。尾張屋、二十五両無駄にした」  といい乍ら小吉は預かった金の残り二十五両をふところからつかみ出して 「二十五両かえす」  ずっと尾張屋の前へ押しやった。尾張屋は眼を見張った。 「おれは預かった金の頭を切る気で出し惜しみをしたのではない。かねて剣術の事で用人達とは懇意だからあの屋敷の風は凡そ呑込んでいるのでな。二十両でも百両でも同じことなのだ。さ、勘定をして受取って呉れ」  尾張屋は軽く息が止ったような顔をした。そして 「あ、あ、あなた様というお方は」  といってから 「飛んでもない事でございます」  と両手を胸の前へひろげて、これを突出すような恰好をして 「それは元々|水金《みずがね》でございます。五十両を一両残らずあなた様がお遣い捨て下さっても否やのないお金でございます。どうぞそのまゝそちらへお納め下さい」 「馬鹿を云っちゃあ困るね。そんな金を貰う筋はない」 「ございます」 「ねえよ」  小吉はもう傍らの刀をつかんでいた。 「御免」  立った姿へ、尾張屋は何んにもいう事は出来なかった。 「気の毒をしたな」  一礼して去って行く小吉を膝へ手をついてじっと見送っている。  その晩、秀世が入江町へ訪ねると小吉は本当に気の毒そうな顔をして 「頼まれ事が成就をしないで、買物や生《なま》で二十五両も金を無駄にし、お前も顔を悪くしたろう。が、話の持込みが遅れたのだ、勘弁しろ」  といった。  秀世もまた頭をかいて 「御迷惑をおかけしてお詫びを申すはこちらがことで御座いますよ。尾張屋さんは、いやもうすっかり恐入りましてね。わたしにくどい位に云いました。勝様に何事かあったらきっとおれのところに知らせろ、御武家様だからお顔を出されては不首尾なところもあろうから、そんな時は、何十何百でもこっちから人足を繰出して行く、お金の事も、使者をくれ、五十や百ならすぐにお届け申すからと」  と気がねをしながら小さい声でいった。 「おれも妙な事からあゝいう知られた男と近づきになり、こんなうれしい事はない」 「親方も申しておりましたよ。諸家は固よりお役人方にも多く出入はしているが、お侍にはずいぶん嫌やな思いをさせられ通しだ。勝様というお方にお目にかゝり、これ迄長い間胸につかえていたものが、一度にすうーっと下ったようないゝ気持だと」 「これ、お世辞も休み/\云え。お前がそんな事をいったのでは、お前の作る刀が泣く——はっはっ、それにしても犬を斬ったあの刀は惜しい事をした。小吉の短慮が、宝物をぶち壊したわ」 「滅相もない、明日からはまた新しい性根で、こんどは誰にでもない勝小吉様とおっしゃる御旗本様唯お一人の御用に、必らず後世に伝わる一口を打ちます」  仕立屋の弁治が訪ねて来たのは、殆んど水心子と入れ違いで、門の外ででも逢ったのではないかと思う位であった。 「何んだ」  と小吉はにや/\して 「お前は巾着切をぶっつりやめてから、不浄仲間ではないと、お信に許され大手をふっておれがところへ出入をするが、こんな時期にふら/\とやって来て、商売をおろそかにしちゃあいけないじゃないか。またお信に叱られるよ」 「へえ、仕立屋は夏分は暇なものでございましてね。いや、そんな事より、今日は妙な事をきいたので、心にかゝりますもんですから」  と弁治は声を低めた。 「妙な事とは何んだ」 「ほら、この間お斬りなさいました犬ね」 「あ」 「あれはね、竪川向いの徳右衛門町から菊川町、松井町、林町、あの辺一帯十六箇町を持場にしている中組八番の火消の頭取伝次郎というものの持犬なんです」 「そうかえ。籠壺《かごつぼ》の纏《とうばん》で名は売るが伝次郎というは町内の世話になっているに拘らず、|がえん《ヽヽヽ》破落戸《ごろつき》のような野郎ときいた事があるが、あの犬がそうだったか」   地退《じだ》ち  能勢の妙見はこの頃、小吉が念を入れて肝煎である。麟太郎さんの助かったのは、あらたかな御利益に相違ないというので、各講中もだん/\盛んだ。それにしても素っ裸で、妙見菩薩に因縁をつけたあの剣幕などというものは、どうして/\勝様も並々のお方ではない。ひょっとすると以前大そう猿江町の摩利支天の御世話をなされ神主吉田蔵人の不心得からお手を切られはしたものの、あの時すでに御神霊がのりうつっていたのではなかろうか、摩利支天様と妙見菩薩とはどちらが偉いのであろうなどと、筋にもなにもならないことをまことしやかに話合っている人などがある。  そういう人達の口からも、ぽつ/\入ったが、道具市の世話焼さんが、その耳ではっきりきいたといってお堂へ飛込んで来たのは、ひどい土砂降りの夕立の最中であった。 「中組八番の伝次郎が、きっとこの仇は討つ、いくら剣術遣いでも、闇夜のつぶては防げめえなどといっているそうですよ」  小吉は笑った。 「面白い、やられて見よう」 「勝様は笑っていらっしゃいますがね。麟太郎様をあんなお目にお逢わせ申した。地べたへいざって詫びに来るのが本当だ。それをそんな無法をぬかすを黙っていては、本所深川《ところ》の掟が立たないから、こっちから押込んでやっつけて終おうと松五郎頭が大層息巻いておりますんで」 「勇ましいな。が、世話焼さん。糞をつかめばこっちの手がよごれるよ」 「へ?」 「破落戸などというものは、自分の方の事ばかり云っているものだ。物がわからず無法だからごろつきという。対手にする方が損をするよ」 「と申しましてもね」 「黙っていても、そんな奴は、所詮|土地《ところ》にはいられなくなるだろう。伝次郎というは代々名で、川のこっちの火消では大切にしなくてはならぬ名跡《みようせき》のようにきいていたが、いつの世にも馬鹿はいるな」 「どうも、そう勝様に落着かれては困ります。松頭と一緒にこっちの講中も加勢をして打込んで行くところ迄話が来てるんですがね」 「それじゃあ喧嘩講だね」  と小吉はいよ/\笑って 「犬があんなに痩せていた。伝次郎というも、碌に三度の御飯もたべねえのだろう。お前《めえ》ら、うっかりすると麟太郎がように急所を喰いつかれるぞ」  家へかえってこの話をしたら、お信も眉をしかめた。 「この世には無法なお人もいられるものでございますね」 「いるともよ——この間もあの世話焼さんが話していたが、金を貸したがどうしても返さない者がある、きびしく催促したらそ奴がね、破落戸へ頼んだと見え、町の屁を見たような奴が、一寸、顔を貸して呉れと呼出しに来た。あの人は親切だし、いゝ人だから何心なく出て行くとね、何んで金の催促をするのだ、外から借りてまた貸しをした訳ではねえだろう、持っていた金を貸したのだから、てめえが辛抱していれば事が済む、催促をするとは太てえ野郎だといったそうだ」 「まあ」 「返さねえ奴に、何故返さない太い奴だというのならわかるが、話はこうもあべこべなのが、破落戸という奴よ。伝次郎などという奴もこれだ」 「ほんとうで御座いますね。世話焼さんなど、そんなものを対手になさらぬがおよろしゅうございますね」 「そうなんだ、そ奴を松五郎がまたいきり立って、やって終うといっているとよ。困った男だよ。尤も、松五郎の北組十二番と伝次郎の中組八番とは、この間緑町の質屋から出た大火で消口の事から喧嘩になっているのだというから少々面倒だねえ」 「困りましたねえ」 「あの犬の一件がそんな喧嘩の火元にされては叶わねえが、対手が対手だから、ひょっとすると何かあるよ」  その夜、庭口へそっと忍ぶように岡野の奥様《おまえさま》が入って来た。げっそり痩せて腰の肉などは無い位に細っそりして、やっと立っているという風であった。 「まあ、奥様《おまえさま》」  お信が、庭へ下りて、手をとって抱きかゝえるようにして座敷へあげた。真っ青であった。  奥様はべったり坐ると、のめるような恰好でわっと声をあげて泣いた。お信も泣いた。 「いかゞなさいやんした」  と小吉がいった。奥様は暫く返事も出来ない。 「御心配申してはいたが、今の殿様からわざ/\御用人を使者にお出入留の口上でしてね」 「はい。存じております。重ね重ねの御無礼はどうぞお許し下さいまし」 「いやお出入申しても百害あって一利のないわたしがこと。何んとも思ってはおりませんよ」 「勝様」  と奥様は苦しそうに息を切って 「今度は重ねてあなたに地退《じだ》ちを申して参ります」  といった。  流石の小吉もびっくりした。お信も涙一ぱいの顔を上げて、小吉を見た。 「地退ち? 恐入ったな」  と半分ひとり言のように 「追い出されても直ぐに行くところもなし、こんな|ぼろ《ヽヽ》屋を取壊して、また建てるにも多少の金はかゝる。その金も無し。こ奴は困りましたね奥様《おまえさま》——が、奥様、失礼だが御屋敷中で、真っ当な人はあなた様お一人、それ故、おたずね申しますが、あなた様は勝の家が地退ちをした方がいいか、悪いか、どちらに思召しますか、それをきかせていたゞきたい」  と小吉はじっと奥様の真っ青な首筋を見た。まるで血の気がない。油もお使いなさらぬ襟足の毛が淋しく延びて、呼吸の度に肩の辺りが上ったり下ったりする。 「あなた様方が、何処ぞへお越しなさるようなことがござりましては、あたしはもう死ぬより外にないでございましょう」 「え?」 「いかに愚かにせよ実の母をせがれ孫一郎も出て行けがし、そのうしろには用人岩瀬権右衛門が後押しでござりましてねえ。固よりこれも出て行けがし——と申して隠居江雪は御存じの乱行、さりとてこの年になりましてのめ/\と里方へも帰られず」 「もし、奥様」  と、小吉は堪らなくなって、 「殿様は失礼だが、御祖父様酒乱の糸をひいてまあ気が違っていらっしゃる。が、用人は家来だ。あ奴までがそんな——」 「はい。この間、武州の知行所から持来させました金子の中、おのれの給金二十五両に二十俵五人扶持をさっさと天引き致しましてねえ」 「あの用人が二十五両二十俵五人扶持? こ、こ、こ奴あ驚いた。岡野の屋敷からそんな高給をむさぼり取るは、首っ吊りの足を引っ張るも同じ事。ひでえ男もあるものだ」 「その上得態の知れぬ女子《おなご》などを孫一郎へ取持っては機嫌をとり、筋のよくない高歩貸からも金子を借りて参る様子、唯、気兼ねは隠居江雪が後をよろしくと頼んで参りましたを存じておるものでござりますから、勝様、あなた様お一人が眼の上の瘤なのでございます」 「ふーむ。それでわたしに地退ちをさせ、後を勝手にしようと云うのか」 「さようで御座います」 「奥様、うっかりすると、これあ岡野千五百石が、あの用人に喰い潰されやんすなあ」 「何んとかならぬものでござりましょうか」 「さあ」  と小吉は腕こまぬいて舌なめずりをした。 「お信、お前、思案はねえか」  お信は微笑して小さな声で 「わたしがような女子に思案など——」  といって、じっと小吉を見る眼の中を、小吉は読んだ。 「奥様」  と声を低め、 「気づかれないようにそうーっとお帰り下さいまし、勝がしかと引受けました」  といって、 「ひどい奴だ」  とひとり言を呟いた。  次の朝。小吉は袴をつけ羽織を着て岡野の玄関先へ突っ立った。用人の権右衛門がすぐに出て来た。 「殿様は在《あ》られるか」 「御他行でございます」 「そうか。それはあの方も飛んだ仕合であった。このおれに地退ちだなんぞといわれるなら首ねを折ってやるつもりで来た」 「え?」 「おい、おれはな、隠居の江雪から屋敷の事を一切頼むと手を合されている男だ。お前なんぞと五分の話をする身分じゃあねえが、云ってやる。どうだ岩瀬、お前、この屋敷を出て行かないか。お前のかいている悪業は、何にもかもおれが見通しだ」 「そ、そんな、あなた」 「いやならいやでいゝ。岡野が組頭の長井五右衛門どのへ始終を話し御支配向へ訴えて物の埒口をつけるから、その時になって、泡を喰ったとて間に合わねえぞ。武州や相州の知行所の百姓から、何んだかんだとお前がせしめている金高が、屋敷の帳面と合わないから、お前、嫌やでも切腹だがいゝか」 「飛んでもない、わたしが何にもそんな」 「不正がねえと朝っぱら、勝小吉の前で嘘をつくたあいゝ度胸だ。おれは百姓共からちゃんとした書付をとってある。黙っていてもこ奴が御支配向に口をきく」  小吉は、ふところから五、六通、何にか筆太に書いた書付を鷲づかみに出して、ぽん/\叩き乍ら 「岩瀬、どうだ」 「う、う、う」 「お前、この貧乏屋敷から二十五両二十俵五人扶持も召上げたら、もうそれでいゝだろう。この上は逆さにふっても血も出ねえ。それに、そちらこちらでお前が借りて持込んで来る高歩の金の元金も利子も、てんからお前が懸けている。その儲けだとて大そうだ。な、いゝか、この屋敷は千五百石、徳川御家《とくせんおいえ》の御旗本だぞ。取りも直さず御家のお末だ。そ奴へそんな事をしたと、御支配に証拠を出せば、おい、切腹どころか——岩瀬、お前がような氏素姓もねえ用人風情は小塚っ原で月見をしなくちゃあならねえがいゝか」  岩瀬権右衛門は青くなった。式台へちょっと片足をかけ、膝がしらへ肱をのせて、低い声で内緒事のようにいっている小吉に睨みつけられて、じり/\とうしろへ退った。 「これだけの」  と、また書付をぽんぽん叩いて 「大事《おゝごと》をやる男だ。かねて事露顕のあかつきは斯う/\と案文もつけてあるであろう。しっぺえ返しが出来るものならして見よ。その代り、そんなに長くは待たねえよ、今日一ンちだ」  小吉はそれっきりですっと帰って終う。  その晩、お信が様子を見るために庭の木戸から忍んで行ったと思ったら、また脇を抱えられるようにして奥様もこっちへ来た。 「岩瀬は、お昼頃、孫一郎へ暇を願い出ました。孫一郎が頻りに留めていましたが、たってというので、|八つ《にじ》ごろに立去りましてございます。有難うございます。すぐにも参ろうと存じましたが、どうにもこの姿では昼の間は一歩も出られず、それに孫一郎が酒を飲んで、あられも無く暴れておりまして」 「先ず一難は去りやんしたが奥様。明日から貸金取りが、ぞろ/\とやって来ますよ」 「え?」 「岩瀬がけしかけてよこしますが、向うで云う貸した金高と、殿様が借りた金高とは、一口で二両や三両きっと違う。利子も違う。わたしはそんな事だと思っている。だが、おかしかった、わたしがところにある証文を、百姓から取って来たと鼻っ先きへ突出して叩いたら、そ奴を拝見とも云わないで恐入ったは、とんと張合のない男でした。まあ心配はない。わたしが明日は朝から玄関で力んでいてやる」 「何分ともお頼み申します」 「その代り、わたしが云う事をきかなければ、殿様の片腕位はへし折るかも知れませぬよ」  お信が 「あなた、そんな——」  といったが、奥様は 「承知いたして御座います」  と頭を下げた。  麟太郎を男谷の道場へ送り出すと、小吉はすぐに岡野へ行った。案の定、貸金取りが早々にやって来た。  小吉は、にや/\して 「証文をお見せ」  と手を出して 「お前、おれが誰だか知っていようねえ」  といった。 「どなた様か、存じません」 「何? 知らねえ」  小吉は大きな眼をした。   脂照《あぶらでり》  次から次とよくまあやって来る。岩瀬権右衛門が、小吉を憎さにこの暑いさ中を駈け廻っている態《さま》が月に見えるようだ。 「借主は千五百石の御旗本だ。気をつけて口をきけよ。仮りにも無礼を申すとひいては将軍家《だんな》を軽んずるも同じ事だ。唯事では済まなくなる。取立の強談を申して八丈へ流罪になった者も近年|幾人《いくたり》かある。心得ていような」  一番先きに、おれを誰だか知っているかときき、次には定ってこういった。そして扇子でくつろいだふところへ忙しく風を入れ乍ら、にや/\して 「重ねて申すが当方は御旗本だ。用人の岩瀬がどうもいろ/\な悪法をかいたやにも思われる。もし、そちらで貸した金と、こちらで借りた金とが合わない時は、どうする。いゝか、こちらは御旗本だぞ」 「へ、へえ」  八人来たが、一人残らず少ないのは一両、多いのは四両も違っている。何んでもいゝ、ただ金さえ手に入ればというだけで、利子がどうであろうが、こうであろうが、借りる金が何両であろうが無茶苦茶で、万端飛んでもない不始末になっている。  小吉は、あべこべに、貸した者から確かに何両お渡ししましたというような証文をとって 「追って金の出来次第沙汰をする」  追い返して、ほっとして衝立の蔭へ引っくり返って 「はっ/\。人間、無茶をしようと思えば結構出来るものだな」  と声をあげて笑った。風が無くて、暑い。  孫一郎も奥でこの様子は知っている。  やがてそこへ小吉がつか/\と入って来た。 「殿様のおふところへ入った金が〆めて三百五十両、借りた金は五百両。いかに屋敷の取仕切を用人に任せてあったからとて、これあちとひどい。勝はね、こんな事をしたとて一文の利得をしようというのではないんですよ。勿体なくも御隠居に手を合せて頼まれたからやるのだ。余計なお節介というなら、いつでも引下るよ。だが、失礼だが殿様も、人の道というものは御心得がありやんしょう。酒乱の果てが、たった一人のおふくろ様に乱暴をしたりなんざあなさらぬがいいね」  流石の孫一郎も、たった今迄の玄関の一件がある。黙ってうなずいた。 「それにしてもこの屋敷で用人がいないということも出来ない。気のきいた正直な、そして親切な人を見つけなくてはなりませんね」 「頼む」 「勝に任せますか」 「どうぞ」 「どうぞと云われると、さて、誰がいゝか」  小吉は首をかしげた。  奥様にも逢って話をした。 「こうした訳で、殿様から、用人を任されたが何んにしても、知行所のお借上げは手一ぱいだし、その外の借銭だけでも五千両が余でありましょう。並の人間ではとてもこの屋敷の用人は勤まらない」  といって、小吉が表門から往来へ出た時は、何にか埃くさく薄ぐもりのようで、まるで湯気の中へ入って来たようだ。汗がにじみ出る。  風鈴を鳴らして白玉売が前を通った。その横を年をとったてっぷりとしたおやじが、若い女の日傘へ入って歩いて行くのを見て、ふと隠居の江雪を思い出した。 「あれに相談して見るもいゝかも知れねえ」  小吉はあわてて、家へ帰ると、井戸ばたで、お信が、この脂照にてられて力を入れて洗い物をしていた。 「麟太郎のか」 「はい。余り脂臭くなりましたので」 「止せッ、おれが稽古着も、おれが手前《てめえ》で洗っている。麟太郎が物は麟太郎にさせなくてはいけねえよ」 「でも、あの子は、滝川先生の方もござりますのでねえ。御承知でござりましょう、毎朝あゝして陽の出ない中から本をよんでおります程で」 「それが何んだ。青雲を踏みはずした程の不運な奴が並々の修行位ではおれがような人間によりなれねえ。こんな人間になって一体まあどうするのだ。稽古着は必ずあ奴に洗わせろ」 「はい。それでは然様に致しましょう」 「おれはこれから柳島の江雪がところへ行って来る。岡野の屋敷もいや大変だわ」 「御苦労様でござりますねえ」 「ひょいとすると不在に、平川右金吾が、刀の鑑定《めきき》に来るかも知れないが、今夜出直すように云ってくれ。用がある」 「はい」 「ひょっとしたら、岡野の用人にしてやろうかと思っている」 「然様でございますか」 「あ奴、あれで剣術遣いに似ず少し|まめ《ヽヽ》なところがあるから」  そのまゝ出て行った。柳島の梅屋敷殿村南平の家へは久しぶりだ。南平が、白衣姿で、水を浴びたような汗だくで、大護摩をたいて祈祷の最中であった。こっちで、若い盲目娘とその両親らしい老夫婦が、一心不乱に念じている。  江雪も清明もいない。  仕方なく、上り端のところに、きちっと坐って、空っとぼけて見ていた。  信心の者が帰ってから 「暫くだったなあ、時に隠居はどうした」  ときいた。  南平はすっかりよろこんで両手をついて 「御隠居が、真言の行者になるとおっしゃいましてね。どうおとめ申してもおきき入れになりません。困っております」 「ほ、ほう、そ奴は面白い、望みならしてやるがいゝではないか」 「それがでございますよ。今、おりました盲目の娘がござりましょう。あれは目が不自由なばかりか気の毒に生れついてのお唖なのでござります。あれに惚れましてね」 「はっ/\は。こ奴あいっそ面白いわ。清明はもう飽きたのかね」 「さあ、どういう事でござりますか、仲はよろしゅうございますが、毎夜々々大喧嘩でござりますよ。全く困ります。御隠居は少々変っていらっしゃる」 「少々どころか、大変りさ」 「おれはこれ迄いろ/\な女と契ったがまだ目の見えない唖は知らない。どうしても一夜の契りを結びたい。それについては、先ずお前のような行者になり、神通力で、あの娘を納得させて見たいと申しましてね」 「はっ/\/\。見えず聞こえずだからなあ」 「そうなんで御座います。そのためにこの先きの真宗寺と申す小さな庵寺へ参りましてね、住持へ談じ込んで、もう御剃髪なさいました」 「え、坊主になったかえ」 「それに法衣。すっかり真言僧のお姿で」 「そうか」  と小吉は例の軽く頭を叩く所作で 「少々相談があって来たが、そんな事では話にもなるまい。おれは帰るよ」 「まあ、そうおっしゃらずに、とにかく何んとか取捌いてやっては下さいませぬか。わたしが困るどころか、あれでは清明も気が違います」 「知った事か、元々お前ら勝手に出来た事だ」 「そ、それはそうで御座いますけどねえ」 「清明のような世にも清らかな女は見た事がないといって、先祖代々の屋敷を弊履の如く捨てて出て来た江雪だ。並の人間の手におえるか」  南平のすがるのを振切って、小吉は外へ出て終った。  もう黄昏に近い。すぐ前に畑があって、蛍がすい/\と飛んでいた。  見ると、向うの畑の道をこっちへ来る二人がある。法衣を着た江雪とすっかり町家の女の姿をした清明。小吉はふふんと鼻で笑って、わざと脇道へそれて行った。  江雪が早くもこれを見つけた。 「おうい、それへ行くは勝さんではないか。おうい、勝さん、勝さん」  小吉は聞こえぬふりで、とっとと歩いている。江雪は畑を夢中で突切って飛んで来る。  江雪ははあ/\息を切って暫く立ったまゝで胸を叩いていた。 「法衣は着ているが岡野江雪だよ。おのしの来てくれるのを待っていたわ」 「ほう」  と小吉は大仰に反って 「坊さんになりましたか。連れた女が行者で、あなたが坊主、結構な事だ。わしが死んだら引導を渡して貰いましょう」 「まあそれはそれとしてじゃな。おれは、今度いゝ女を見つけたよ」 「盲目で唖でしょう」 「どうしてわかる」 「わたしは真言の行者がやる位の通力はある。御旗本だからだ。あなたはしかも千五百石の御旗本、通力があるにどうして坊主になんぞなりました」 「いや、わしは通力はない。思った女に誠が通じない」 「そうじゃねえでしょう。気が違っているからだ」 「何?」 「おい、清明もこれを見よ。人間が犬畜生を投げる図だ」  江雪の利腕をとると、小吉はいきなり引っ担いで、宙へ高くふっ飛ばし、畑の脇の肥溜《こやしだめ》の中へ投うり込んだ。溜は八方へぱっと雨のように散って、江雪は壺の中へ突立って、胸までひたった。 「な、な、何あんてえ事をする。乱暴もの奴!」  小吉は一度ちらっと見て、二度と振返りもせず、早足で夕靄の中に消えて行った。 「脚から落ちるように投げ込んだが、なまじ武術を知らぬだけに、その通りに落ちやがった。はっはっ、肥溜はいくらか弱るだろう」  弱るどころの騒ぎではなかった。何しろ清明にも手がつかない。大急ぎで殿村をよんで来て、桶で近くの小さな流れから水を汲んでは、江雪を素っ裸にして頭からざあ/\かぶせて汚物を洗い落した。 「ぷうーっ。あ奴、いゝ男だが惜しむらくは未だに乱暴がなおらぬわ」  江雪はにや/\笑って 「こら清明、お前、何んで、そんなうれしそうな顔をしている」 「あなた様は汚ない事がお好きでござりますから定めし御本望がとうれしくなりました」 「おれが何んで汚ないを好きだ」 「あなたは色情気違いでござります。これ程汚ない男はござりませぬ」 「な、何んだと、こ奴、無礼千万」 「わたくしの事が間違いと思召すなら、勝様に今度はお頭の方から肥溜へ投げ込んでいたゞきましょうか。お目がおさめなさるかも知れませぬ」 「何、何、何」  江雪は素っ裸のまゝいきなり清明へ打ってかゝった。  清明はその辺を逃げ廻る。息を切って江雪が追う。殿村は留めるどころか頭をかゝえて家へ逃げ戻ってあわてて護摩壇へ坐って、ほっとした。すぐ護摩をたいて、頻りに何にやら祈り出す。  とっぷりと暮れて、江雪と清明が帰って来た。江雪は剃り立ての頭の額の辺と頬に少しばかりの疵がある。  清明はすぐに裏土間にある風呂を焚きつけた。焚口から紅い火がちょろ/\と見えて、薄紫の煙がふんわりと静かな夏の夜に立ちこめる。  それ迄上り端へ裸でどっかりと腰をかけていた江雪へ 「さあ、お入りなされませ」  と清明がいった。 「すまないな。洗ってくれるか」 「はい」  江雪の湯へ入るのを、清明がまめ/\しく世話を焼いて、頻りに洗い流している。いつもの事だが、さっきのあの剣幕を見ていただけに殿村も、ちょっと首をふった。  帰って来た小吉が入江町の角の材木屋の前で、ぱったり平川右金吾に逢った。 「出直して参るところでした」 「そうか——。ところでどうだ右金吾、お前、岡野の用人になる気はねえか」 「え?」 「貧乏は底をついてはいるが仮りにも千五百石だ、面白いぞ」 「は」 「嫌やなら嫌やでいゝがやって見ろよ」 「あなたのお言葉なら何んでもやります」 「剣術の稽古をしてえなら、切戸からおれが庭へ入って来い、いつでもおれが対手をしてやる」 「はい。結構な事です」 「お前は女房もねえ一人ものなり、生《なま》じ碌に斬れもしねえ刀の売買で、僅かな金を稼ぐなどよりはこの方がいゝだろう。やれ」 「はい。いつから参りましょうか」 「今夜からだ。本所《ところ》でうろ/\している奴が一人減って、おれもおゝきに助かるというものだ」 「今夜はどうも——」 「よし。それじゃあ、今夜あ一つ、吉原へでも行ってゆっくり遊んで明日昼ごろ迄にはやって来い。丁度運よく、おれがふところに銭がある。ほら、やろう」  小吉は無造作に巾着をつかみ出して、右金吾へ渡して 「それだけで遊んで来い。夜が明けれあ千五百石の御用人だ、馬なんぞ曳いて来ちゃあいけねえぞ」  別れた。   仮宅喧嘩  昨日はあんないゝお天気だったが、今日は思いもかけず、朝から雨だ。  小吉は縁近くへ寝ころがって、のんきに雨でも聴いてる恰好だが、内心は右金吾のやって来るのを、今か今かと待っている。それが、もうお昼近いにまだやって来ない。 「どうなさったのでございましょうねえ。鑑定《めきき》のお刀もこちらに置いてございますのに」  そういうお信をちらりと見て起きながら 「行って見る」  仕度をすると傘をさして出て行った。  三ツ目通りの古道具の市は、丁度市日で大勢集って大層なさわぎをしている。世話焼の栄助とっさんがすぐに見つけて人をかきわけて飛んで出て来た。 「三両貸しては貰えまいか。質形にはこの刀をおいて行く。明日の晩までに銭を持って来なかったら、刀を売っても文句はいわないよ」 「な、な、何んというまあ水臭い事をおっしゃいます。勝様、これが三千両三万両ならわたしの力ではどうにもなりませんが、三両とおっしゃるに質形もなにもございませんよ。え、この栄助が日頃の御恩返しにお願い申してお使捨てにしていたゞきます」 「馬鹿をぬかせ。あるなら貸して貰おう。さ」  と小吉は例の池田国重を腰からぬこうとするのを、栄助は、押さえつけて、もうぽろ/\涙をこぼした。 「あ、あ、あなたは、そのような冷めたい——」 「よし、わかった。それでは有難くお借り申して行く」  小吉は三両をふところにすると、かち/\と高足駄を鳴らして行って終った。  御蔵堀から舟にして、山谷堀へこぎ入れた時は雨がやっと止みかけて空が明るくなっている。吉原の廓は、二た月程前に火事があって、方々に仮宅でやっていた。  山之宿の佐野槌へ、傘もすぼめずに入る小吉の姿を見ると妓夫や仲まわりの男たちが飛蝗《ばつた》のようにお辞儀をした。 「頼みがあるのだ」 「へえ/\」 「何処かに平川という侍がゆんべの銭の不足で居残りに捕われている筈だ。探し出して連れて来てくれ」 「へえ。承知を致しました。何れにもせ、どうぞ先生お二階へ」 「うむ」 「しかし先生、ずいぶんひどいお見限りでござりましたねえ」 「銭がねえからさ。こゝへ来るには銭が要るが瑕よ」 「相変らず、おからかいがきつう御座いますね」 「何にを云っている」  二階へ上って、萩障子を開けて空を仰いだら、もう青いところが見えていたし、淡い煙が棚引いたような眼の先きには顕松院だの妙音院だの、一の権現だの、森の中から寺から寺が甍を重ね、門を連ねている。  佐野槌は二階は狭く一組とか二た組の客よりとれなかったが階下は相当広かった。小吉は枕を借りてごろりとねている。半刻ばかりすると、右金吾が小さくなって、這うようにして入って来た。  眠っていると思った小吉が 「馬鹿奴!」  眼をふさいだまゝ大きな声で怒鳴りつけた。 「つ、つ、つい飲み過ぎましてね」 「お前は酒をのむと何にもかもわからなくなる男だ。え、千五百石の御用人が、仮宅の行灯部屋へ打ち込まれて鼠のようになっている態《ざま》ああるか。直ぐにけえれ」 「は」  小吉は連れて来たこゝの女将や妓夫の鼻先きへ、三両ばらっと投げ出して 「それだけより無えのだ。足りなかったら少々の間貸して置いてくれ」 「と、飛んでもございません。一、一、一両でもおつりが参ります」 「そうか。そんな吝ん坊でこ奴、居残りにとられたのか。はっはっ。実はその三両、おれが無理をいってこゝへ来る途で借りて来たのだ。そう云わずにまあ取って置けと云えばお前らの前で大層器用だが、それでは後が滅法苦しくなる。お、右金吾、二両こっちへ戻せ」 「は」  小吉がその二両を受取った時であった。  どか/\と階段の下で大勢の人の騒ぐ声と、それに交って、女達が頻りにこれを留めている甲高い声が渦を巻いた。  仲廻りの婆の切羽詰ったような声が跡切れ跡切れ聞こえた。 「何んだ?」  という小吉の顔つきに女将が 「先生、毎日のようにこれで難渋を致すのでございますよ。仮宅故御覧の通り二間よりない二階、そこにお客様がお出でなさろうがなさるまいが、おきき入れなく——」 「何処の奴だ」 「橋場の銭座お役人大瀬熊之丞とおっしゃるお方でございますよ」 「何んだ、小役人か?」  云っている間もなく、まるで角力取のような大きなからだで、しかも大きな眼で朱をそゝいだように真っ紅に酔った男と、うしろに取巻らしい小役人風が一人と破落戸風の奴が二人ついて、ずか/\と小吉の座敷へ入って来た。  右金吾がすぐに立膝で構えた。 「これ、じっとしていろ」  小吉はそういってから、にや/\して 「どうだ、居残りの垢流してお前、飲み直すか」 「は」  右金吾は顔色を変えている。  熊之丞が押しつけるようにいった。 「座敷を開けて貰おう」 「これから飲み直すところだ」  小吉は笑い乍らいった。 「おれ達が飲むのだ。階下では暑くていかん、こゝを空けて貰おう」  小吉も今日までいろ/\無法な奴には出逢っている。しかし、馬鹿といおうか、阿呆といおうかこ奴程目端の利かない人も無げな振舞の者は見た事がない。不思議なものだ。こ奴実に世にも珍らしい気に喰わない顔つきだなと小吉は思った。一と目見ただけでもう腹の虫が納まらなくなった。こんな奴と何んのかゝわり合いもなく往来で逢っても青痰を吐きかけてやったかも知れない。胸の中が熱くなってからだががく/\慄えて来た。そ奴がずばっと側へ寄って来た時は、小吉は同時に、すっと立って、胸へぴたりと喰っついて終っていた。 「きけば銭座だそうだが、うぬのようなは骨身にこたえなくてはわかるまい」 「何んだと」  拳をふり上げて力一ぱいに横顔へ打込んで来たのと、つれている破落戸の一人が 「勝小吉だ」  とうめくようにいって階段を飛下りて逃げたのとが一緒だった。が熊之丞にはこれが耳へ入らなかった。ぱッと一度体をかわされて、すぐに二度目を殴り込んで来た。  その腕を押さえて、ぐん/\と表通りの障子際へ押して来たのは瞬きをする間である。  一度ぱッと腕を放して、放したと思ったらどーんと胸をついた。 「あッ」  熊之丞は大きなからだで、両手を八字に開き、もんどり打って、往来へ仰向けに落ちて行った。 「見ろよ、右金吾、あの態《ざま》を——お役人様のあの態をよ」  大地へぶッ倒れて、熊之丞は大きく口を開けて気絶して、ぬかるみの泥が大あばたのように顔一面にはね返っている。  見ると、小役人と一人の破落戸が、夢中になって何処かへ駈けて行く。もう一人はどうしたものかすでに影も形もない。 「せ、せ、先生、大丈夫でござりましょうか」 「喧嘩は馴れているお前が、そんな事では仕方がない。ひょっとしたら死んで終ったかも知れないが、何あに、その時は、ほら、そこにいる平川右金吾が腹を切って下さるわ」 「お、お、お腹を」 「一人でいけないとなら、おれも切るよ」 「ま、まあ」  女将は立てない。  平川は 「先生、一旦この場を立退きましょう」 「おれも、あ奴の面にむかっ腹を立て、大人気ねえ事をしたが、根はとんと臆病だ、逃出してえは山々だが、そうなったらこの佐野槌が迷惑する。まあもう少し落着いていよう。きっと今の二人がおなかまを大勢引っ張って出て来る。それからの掛合よ」  小吉は萩障子へ背をよりかゝるように坐って、にや/\しながら時々往来を見下している。下はいやもう大変な騒ぎである。人があっちへ走り、こっちへ走り、女たちがわめき立てて走る。  そう斯うしている中に、橋場の銭座役所かららしい同じようなこすっからそうな顔をした侍が四、五人やって来て、白い眼をむいて二階をにらみ上げ乍ら熊之丞を引っ担いで帰った。この様子を見て 「はゝーあん、あ奴は死ななかったな」  と小吉がつぶやいた。 「もう帰りましょう先生」  右金吾がまたいった。 「待て。お前が一人で岡野へ行っても口上に困ることだ」 「は」 「ほら見ろ、来た来た。こ奴あ妙だ、手に手に長|鈎《かぎ》鳶口は、これあ町火消の奴らだよ。ほら、ざっと三十人だ」 「先生、あ奴ら、この辺の者じゃあない、中組八番の伝次郎の人足だ。顔見知りが沢山いる」 「おゝ、あの犬の一件の奴か」 「そうです」 「どうしてあんな遠くの奴がこんなに早く加勢に来たか、この間中から何にやら蔭でごそ/\やっているときいていた。一つこの辺で、見せてやるもいゝだろう」  女将をはじめ、佐野槌の者達は、先生早くお逃げ下さいと、泣き叫んで頼むが、小吉は落着き払って、着物の肌をぬぐと、袖っきりの筒っぽの肌じゅばん一枚に袴のもゝ立ちをとって刀をさして 「はっ/\。まるで道場の稽古だわ」  大笑した。  その中に、佐野槌のまわりはぐるりと長鈎鳶口の人足達に取巻かれた。 「右金吾、裏手を見ろ。浪人者の五人や三人は伏せてある筈だ」  右金吾があわてて引返して来て 「いる/\。五人いる。その中一人の片目の奴は何んだか、見覚えがある」 「そ奴が大将だろう」  小吉はみんなへ大きな声で 「家の者は外へ一歩も出てはならないよ、怪我をするぞ。みんな二階から見物してお出で——はっはっ、慄える事はねえ、すぐに片がつくわ」  刀の鍔元を親指で押さえて、一歩々々と静かに階段を下りて行った。  二階の人達の眼の中からほんの少しの間、小吉の姿が見えなくなったと思ったら、ずばっと往来へ出て来た。  もう黄昏に間もない。 「来やがった」  甲走って叫ぶ声がした。 「そーれ」  途端に小吉の刀が閃めいた。  まるで斬反《きりかえ》しの稽古をするように刀を左右に長鈎の中へ飛込むと、その度にざざーっと、津浪でも引くように人足達は慄え上って退いて行った。山之宿から六軒町へ人波が流れる。 「中組八番の若え者が、そんな事でどうする。さ、誰か踏込んで立派に消口をとる者あいねえのか」  大川に沿って今戸橋まで追込むと、出しぬけに瓦町の角の二八蕎麦屋のうしろから、刀をふりかぶって五人かたまって、月代を延ばした浪人が斬込んで来た。  小吉はさっと真っ先きの奴を胸元から斬下げた。例の片目の奴だ。着物の前が切れ、帯が切れ、真二つに引裂かれたようにそれがばらッと地に落ちて、対手は褌一本の帯脱《おびと》り裸になった。それでいて身には糸をひいた程の疵もなかった。小吉はにやっとした。  次の奴も全く同じに斬った。  これを見ると、然《さ》らでだにおぞけ立っている人足達は、雪崩を打って橋へ押込み、橋の欄干をこぼれて、山谷堀へ二人も三人もころがり落ちた。五人の浪人の中、三人全く同じに帯脱り裸に切られた。たった一人だけが、ほんの蚤にさされた程の切っ先きのかすり疵を受けた。  そこへ吉原の会所役人や、廓の口利きが大勢で飛込んで来て 「まあ/\」  といって仲裁する。こういう事には馴れているから、騒ぎがこんなに大きかった割に極くあっさりと双方が一先ず手をひくという事になった。  もう暗くなって、瓦町から今戸の方まで近所一帯はこの騒ぎで灯もつかないが、遠くの街々、大川向いは、ちら/\と美しく、空にはぱらりと星が見える。  小吉と右金吾は、会所から駕で送られた。駕へのる時に、会所のものが 「改めましてお屋敷へ参上いたします」  といった。小吉はびっくりして手をふって 「飛んでもない。お前らなんぞに来られて堪るものか。真っ平御免だ」  といった。 「で、では、どう仕りましたらば宜しゅうござりましょう」 「どうも斯うもない、これで何もかもお終《しま》いよ。今日はおれもいい稽古が出来て思わぬ仕合せをした」 「え?」 「何、こっちの事よ。間違っても屋敷などへは来てくれるな。そんな事をすると、今度あ門人共を引連れて、仮宅一軒残らずぶち壊すぞ」 「ご、ご、御冗談を」  会所の者達が顔を見合せている中に 「やれ」  小吉が駕屋を怒鳴りつけた。